第10話 『心の声』
あふれ出す涙。泣く、という行為をただ、ひたすらに続ける少女。
身近に訪れた「死」という概念に対して沸き上がる感情に、どうしていいのか分からない。だが、心は止めどなく溢れる感情に支配され、泣くことをやめられずにいる。
(なぜ私は泣いているの?)
――それは、悲しいからだよ。悲しいとき人は、みんなこうするの。
悲しい。それは、どこか暖かい。
(そっか、これが、悲しいという事……)
――そう。人は、そうやって心を浄化するの。
そう囁く心の声。それは、いつからか私に宿った、もう一人のわたし。
この声は私に人の温かさを教えてくれる。そしてこの声は、彼女と私を繋げてくれた。
――今は泣いていいんだよ。ロザリーの胸で、たくさん。
(うん……)
そう、あの時ロザリーと出会った時に流れたのも、この暖かな涙。これは、人と人を繋ぐ、大切な感情。
(……いつからだろう、私が、こんなふうに空っぽになったのは……)
とても懐かしい記憶が蘇る。パメラはずっと押し殺してきた感情に、今はただ、すべてを委ねた。
聖女セント・ガーディアナ。
それは教えのために創られた空っぽの器。彼女はいつしか、自分という人格を無くし、ただ、与えられる役割だけを演じてきた。
しかし今、そんな聖女としての殻を破り、彼女はパメラ゠クレイディアとして生きる道を選んだ。彼女は全世界における偶像である事を捨て、ごく普通の少女となったのだ。
人として生きる事、それは、自らの意思で生き抜く事。
いつから自分は何者かに全てを委ねたのか、何に対し恐怖し、操り人形と化したのか、パメラはおそるおそる、その記憶を辿った。
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これは、まだ色鮮やかなままの、つい最近の記憶。
「ふう……」
聖誕祭の喧噪の中、賑わしくパレードが続いていく。人々はこの世の春とばかりに、教えによりもたらされた栄華を謳う。その最後尾に座した聖女は、その反面どこか物憂げであった。
「聖女さま、どこかお体が優れませんか? もしお辛ければ、聖歌の担当箇所、減らしてもらいますか?」
「ううん、平気。たぶん、今日が最後の聖誕祭になるから、私の歌、どうしてもみんなに届けたいの」
「最後だなんて、なにをおっしゃいますか……」
侍女との何気ない会話の中に、まるで自らの死期を悟ったかのような言葉を漏らす聖女。侍女達も不安から共に側につこうと申し出たが、やんわり断られてしまった。
「一人でも大丈夫だよ。明日から聖母になるんだから、ね」
気丈な言葉で、その場を取り繕う聖女。そう、この祝祭を終えると、教皇との婚礼の式が待っている。きっと彼は、富と名誉、その全てを賭けて庇護してくれるだろう。
だが、これまでを生きた「自分」という世界は消え、絶対に彼に逆らう事のできない完全なる「聖母」が完成する。とっくに失ったはずの、あらゆる感情がその事に警鐘を鳴らした。
ただ一つの救い。それは、女帝エトランザの放った言葉。
あれがただの脅しでないのなら、今日、この日、何かが起きるはずである。
(誰でもいい。私の中の聖女を、ころして……。いつか生まれた、この恐ろしい悪魔を……)
彼女は、自らが自らでなくなった最初の記憶を辿る。
その灰色の記憶の傍らには、いつも冷たく笑う教皇リュミエールの姿があった――。
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突如として現れた、人間達にとって理解しがたい超常的な存在、魔女。
理解ができないのなら、それは悪である。魔女狩り。十年ほど前から一般的な概念となったそれは、この世界に昏い帳を下ろした。悪魔のいなくなった世界で、人々は正義の名の下に新たな悪魔を生みだし、団結する。
世界は、未だ夜の中。いや、夜明け前こそ、最も暗い時である。
今より七年前、ガーディアナの隣国、フェルミニアの王都にて未曾有の大規模破壊が行われた。その知らせを聞いた教皇はまだ幼い聖女を連れ、かの地へと行軍した。
破壊の原因はたった一人のマレフィカ、アリア゠ロンドという少女。その異能により街一つを消したという彼女は、破滅の魔女と呼ばれ恐れられた。
広がるのは、ひび割れた大地と、かすかに残る文明の残骸。人々はあらゆる場所で、黒く地面に焼き付いていた。誰もいないのに、影のみが存在する。その異様な光景を見るにつけ、教皇はその口角をつり上げた。
「聖女よ、怖いか?」
そう聞かれた聖女はただ、頷いた。
「これが魔女の力だ。あらゆる魔女が存在するが、おそらく、これが最大のものであろう。しかしどういう理由があるかは知らんが、決して許されざる行為だ」
「……人が、いない」
「皆死んだ。見ろ、あのように彼らは永遠に地の牢獄にてさまよう。一人一人、幸せを夢見、ささやかな日々を暮らしていただけの者達だ」
聖女は、親と子が重なり合ったような影を見た。子をかばうように覆い被さったであろうその周辺には、白い小さな欠片が散乱していた。子供の骨片である。
「ねえ、助けてあげて……」
「お前が救うのだ。魔女をその力で断罪する事が出来るのは、聖女、お前だけなのだから」
聖女は涙をのんだ。胸にこみ上げる、どこか人を想う暖かい感情。これは、悲しみ。
「彼らの無念を晴らせ。それだけが、救いの道なのだ」
「……はい」
聖女は数万の兵と対峙していた魔女、アリアの前へと降りた。
腰まで伸びた真っ白な髪の、儚げな顔をした美しい少女。当時、最年長の魔女は十歳前後。そんな最初期に属する魔女は、どれもが不安定な力を持っていた。マレフィカに対する知識や、抑止力が存在しない時代に、覚醒へと近づきながら放置されていたのだから無理からぬ事だろう。
「あ……、あ……」
アリアの目は、怯えたように色が無かった。聖女はその、灰色の瞳を強く見据える。
聖女が到着した事を確認し、その場を取り仕切るガーディアナの司徒、異端審問官マルクリウスが聖典を読み上げる。
「我が神、聖典がおっしゃいますには、どのような者に対しても、正義、慈悲、誠実の心を持ち、寛容な心で裁くべきであると……。いささか不本意ではあるが、それに則り、我がガーディアナは、魔女アリア゠ロンドに対し最大限の有情と共に、聖女セント・ガーディアナによる神罰を下す事をここに言い渡す!」
有情。情け深い処置。しかしマルクリウスの顔は、まるでその言葉とはほど遠かった。眉間に深くしわを刻み、口ひげすらも逆立ち、声はひどく荒れている。老齢の身体とは思えぬほど体中が力み、その手に持つ錫杖は、地中へと深くめり込んでいた。
慈悲の体現者と誰からも尊敬されるマルクリウスですら、この体である。数万の兵などは、もはや鬼の形相であった。それすらも審問官のパフォーマンスだと知らず、そこにある万の殺意の全てが破壊の魔女へと向けられた。
「聖女様、どうか、この者に神の裁きを!」
「……下がって」
聖女の言葉と同時に、怒濤のように兵士達は引いた。教皇はその様子を遠くから見つめ、満足そうに笑う。
「あ、あ……あ……」
「あなたが、アリア?」
アリアは言葉を失っていた。この小さな娘をここまで追い詰めるのに、一体何が行われたのであろう。聖女には知る由も無い。そして、そんな悪夢から彼女を救い出す事ができるのは、自分ただ一人なのだ。
聖女は手を広げた。その背後には、黒の天使が悠然と翼を広げる。
「聖女、セント・ガーディアナの名において、魔女アリア、あなたを浄化します」
「あ……ああ……」
灰の世界に、光が降りる。魔女は倒れ、怨念のような地上の影もが消えた。
まさに聖女の力が、奇跡の力として人々に救いをもたらした最初の瞬間であった。
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それが聖女の記憶する初の魔女狩りである。それ以前の記憶は、なぜかはっきりとしない。
それから幾度も幾度も魔女を救済した。その度に、彼女の意識も稀薄なものになっていく。ただの機械のように、聖女としてあろうとした弊害か。
聖誕祭のパレードにて、聖女はうっすらとした感情を歌に乗せた。
聖歌とは神への言葉であり、人の持つ感情ではない。仮面で歌ういつもの聖女の歌には、感情を殺した、人ならざる者の啓示であるかのような圧があった。
しかし今彼女が奏でるのは、ごく普通の少女の歌。それは、あくまで人でありたいとする、彼女なりの最後の抵抗なのかもしれない。
そしてその歌は、ある少女へと届く。
その日、憎しみに支配されていたはずの少女は、聖女を絶望の囚獄から解き放った。輝きに包まれた、色とりどりの世界を見せて。
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(ロザリー……。私に、わたしをくれた人)
魔女ロザリー。彼女はなぜだか、心の空白にすうっと入ってきた。昔から知っていた友のような、ずっと一緒にいた恋人のような、そんな気にすらさせた。
同時に、聖女はロザリーの異能によって、彼女の生きてきた世界を垣間見た。マレフィカから見た聖女の行いは、救いなどではなく、まごうことなき厄災であった。大好きなロザリーを想えば想うほど、その事実は彼女を追い詰めていく。
(少し、疲れたな……。聖女でいるの)
――辛いときは、少し眠るの。何もかも忘れて。無理したって、良い事なんてないよ。
(うん……なんだか、眠くなってきちゃった)
――聖女様、今はおやすみ。きっと、明日は良い日になるから。
ロザリーと共に、自分の心へと住み着いた声。聖女は時折、言われるがままにその声に従った。もう、聖女になんて戻らなくていいんだよと、そんな甘い言葉のままに。
聖女は深い闇の中、ゆっくりと眠りについた。
そこに残ったのは、パメラという名の、ただ一人の少女。
――ロザリー、わたしの名前、覚えていてくれたんだね……嬉しかった……。
聖女を起こしてしまわないよう、少女は一人つぶやく。
――でも、これからは、あなたがパメラ。少し寂しいけど、仕方がないこと。聖女様のおかげで、こうしてまたあの人と出会えたんだから。
ぼんやりと浮かぶ、銀色の髪の少女。その姿は、現在の聖女とどこかよく似ていた。
――だから、少しだけ。少しだけ、わたしのわがままを聞いてね……ふふっ。
少女は静かに微笑み、聖女の青髪を撫でる。そして、再び心の奥底へと消えていった。
重く閉じた闇の中を光が差す。どこまでも、自分を照らす光。
眩しくて目を開くと、目の前には心配そうに見つめるロザリーの姿があった。
「パメラ? どうしたの? 涙が……」
「ん……夢を、見てた」
「そう、どんな夢?」
「私が、いなくなる夢」
ロザリーは無言でパメラを抱きしめた。頬についた涙の跡が、どんな夢だったのかを多分に物語る。
「聖女じゃなくなった私は、誰なの? 私は、私のままでいてもいいの?」
「当たり前じゃない……あなたが誰であれ、いなくなったりなんてしないわ。あなたはここにいる。私だって、ずっと」
「うん……」
あれから二人は、村々の道なりから外れ、馬での捜索には向かない険しい山岳地帯を進んだ。すでにいたる所に検問が敷かれ、もはや人の住む地域に安息地などなかったのだ。
そんな苛酷な旅の中、少し落ち着けそうな川沿いの洞窟を見つけ、二人は肩を寄せ合う。川の流れから見るにだんだんと低地へと向かっているらしく、このまま海へと出ることができたならば国外も近いはずとロザリーは睨んだ。
普通であれば沢を降りようなどと思う者はいないだろうが、だからこそ、誰にも見つかる心配もないはず。念のため、ロザリーはこれまでの逃走経路から現在地を割り出そうと頭を巡らせた。
「パメラ、ガーディアナの土地に詳しくはないかしら? 作戦前にだいたいは頭に入れたはずなんだけど、私、物覚えが悪いから」
「パメラ……」
「どうしたの? 名前、つけたでしょ。忘れちゃったの?」
「あ……ううん、何でもない。えっと、私、外の事はあんまり……」
それもそうか、とロザリーは再びパメラの頭を抱いた。
(夢で消えたのは、私? それとも……)
パメラという名で呼ばれる時、少しだけ罪悪感が襲う。その名は、きっと自分の心に住む少女のもの。そんな彼女がそこにいる理由、聖女には心当たりがあった。
(ねえ、いるの? いたら返事をして)
――いるよー。おはよ、聖女様。お目覚めはいかが?
心の中で呼びかけに応じる声。その声はいつもより明るく、パメラは安堵する。
(よかった。時々いなくなっちゃうから、心配で)
――それはその、ちょっと色々あって。それよりも、そっちこそ平気? 辛くない?
(うん。もう大丈夫。あんまり泣いてると、ロザリーに心配かけちゃうから)
――ううん、鈍感なあの人には、それくらいでいいの。もっともっと、心配させちゃえ。
(ふふっ、そうだね。でも、私は今のままで充分かな)
大好きなロザリーの腕に包まれているだけで、心の空白は新たな感情で埋まっていく。しかし、心の声は少し物足りない様子である。
――それじゃだめ。ロザリーはたくさん甘えさせてくれるよ。ほら、ここはわたしにまかせて。
それは、魔女の甘いささやき。
すると突然、パメラの表情が変わった。
「ロザリー……」
心の声に従い、パメラは目を閉じ唇を差し出す。まるでロザリーを試すように。
「もう……、またなの?」
ロザリーは少し困った表情をした。その反面、心臓は大きく高鳴る。
((する……したい……))
「ごめんね……イヤだった?」
「ううん……そんな事はないわ。ほら」
ロザリーはパメラへと顔を近づける。そして、そっと唇を重ねた。
「ん……」
((……だめ……私達は……女同士……。でも……でも……))
ロザリーの思考が流れてくる。やはり、こうすると、より鮮明に彼女が見える。
((もっと、こうして、いたい……))
そんな思考を読み取った途端、すっ、とパメラは唇を離す。そして、どこか聖女に似つかわしくない淫靡な笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
そう言って、まだ物欲しそうなロザリーを制する。
彼女はまだ、くちびるの持つ魔力を知らない。
このまま少しずつ、少しずつ、自分を植え付ける。そして……。
――ロザリー。わたしだけを、愛して。
誰よりも純粋で、誰よりも無垢な聖女は、誰よりも愛に飢えていた。
その心の隙間に巣くった魔女の名は、パメラ゠リリウム。
それはかつて、ひたすらにロザリーを愛し続けた少女の名であった。
―次回予告―
ロザリーと聖なる魔女パメラ、二人の過去。
育まれた絆は、いかにして絶たれたのか。
これは魂に刻まれた、血と愛の記憶。
第11話「ローランド戦役」