第9話 『ロザリーとパメラ』
酒場の主人の計らいにより、雨に濡れた二人には暖かいお風呂が用意された。それは旅の疲れと共に、冷え切った心までも暖めてくれる。
「ロザリー、暖かいね!」
「ふふ、そうね」
少し狭い浴槽に、二人はぎゅうぎゅうになりながら浸かっていた。しかし今度はロザリーが背中から聖女を抱く形で。先程のように正面から抱き合うには、まだ照れが残るのだ。
「今度は中でしちゃ、だめよ?」
「もうーっ! しないよ!」
ロザリーのふくよかな胸が、聖女の背中に押しつけられる。彼女の広げた脚にすっぽりと収まる聖女は、そう口を尖らせながらも恥ずかしさに上気立っていた。
「ロザリー、この傷……」
そしてどうしても目に付くのは、ロザリーの太腿にある大きな傷跡。それはお湯に浸かると、より痛々しい赤さを見せる。
「ああ、やっぱり気になるかしら?」
「うん……さわっても、いい?」
「ええ。痛みはないから平気よ」
少し突っ張るような、それでいてざらつくような表面。聖女はどこか官能的にそれを撫で上げた。
「これまでたくさん、戦ってきたんだね」
「そうね……。でも、まだ終わりじゃないわ」
「ガーディアナと、戦うの?」
「このまま逃げられるとは、思えないもの」
少ししゅんとしたようにうつむく聖女。ロザリーは「大丈夫よ」と、後ろから抱き寄せた。優しい膨らみが背中を包む。
聖女の本能は、次第に熱を求めた。
「ロザリー……」
聖女は甘えた声を出し横を向き、ロザリーに顔を近づける。
これは、キスの合図。
あの最初のくちづけを受け入れてしまったせいで、寂しい時に交わす事が二人の習慣になってしまった。それは、辛い現実からの逃避なのかもしれない。ロザリーは深く考えずに再び受け入れる事にした。
「んっ……」
軽い接触。先程は不意打ちだったとはいえ、あまりにも官能的な刺激に我を忘れてしまった。今は彼女が魔力を抑えているせいかその波は現れない。けれども単純に、その柔らかさにただ溺れてしまいそうになる。
(だめ……年下の少女相手に、そんな事は……)
超えてはならない一線をどちらが先に超えるか分からなくなりそうで、ロザリーは自分から唇を離した。
「ありがとう……ロザリー」
「……ええ」
ロザリーは明らかに高鳴る鼓動を聖女へと伝える事しかできなかった。実を言うと異性とすら、こんな事したことはないのだ。しかしこの子とキスを重ねるたび、どこかこれが自然な事のように思えてくる。そしていつしかこの時間を待ちわびる自分がいた。
(私は……仲間達を失ったその寂しさを、この子で埋めているのだろうか……)
涌き上がる罪悪感。この後ろ暗い感情にどう向き合うべきか、ロザリーはただただ戸惑うばかりであった。
お風呂から上がった二人には、それぞれ厚い手編みの毛糸の服が着せられた。それは少し火照った体を、さらに暖かく包んでくれる。
「孫の着ていたやつじゃが、お前さんには少し小さかったかな」
たしかに聖女にはすっぽりと入ったが、ロザリーには少し小さかった。けれど、その優しさは受け取っておくべきだろう。ロザリーは親切な老人へと二人分のお礼をした。
「ありがとうございます。あの……ですが私達、雨が上がればすぐに出て行くので、お構いなく……」
「ほう、どこへ行くと言うのだ?」
何か探られている? と、ロザリーは不審に思った。ふと老人の目線を辿ると、ロザリー達の座るカウンターの上に、張り紙が束になって置かれているのが見えた。そこに積まれていたのは、聖女誘拐の事件を知らせる緊急手配書。ロザリーは聖女を抱き寄せ、向かいに立つ老人から一歩引いた。
「やはりそうか。干してあった衣装、あれはどう考えても最上位の聖職者のもの。そして、そっちのお嬢ちゃんはまさに聖女様の特徴と一致する」
「くっ、ここにも奴らの手が……」
「まあ、ひとまずこれでも飲んで、落ち着くといい」
懐疑的なロザリー達とはうらはらに、老人はもてなすように暖かいスープを差し出した。薬でも盛られているのだろうか。それを飲もうとする聖女を制して、ロザリーは逃げる算段をたてた。
「人を信じられんか?」
「ええ」
「そうか、なんと嘆かわしい……」
すると老人は手配書の束を手に取り、かまどの火元へと近づけた。すると火はすぐに燃え移り、手配書は灰と消える。
「なっ……!」
これがどういう事を意味するかは、ロザリーにも容易に想像できた。国家反逆罪である。だが、老人はまるで気にしない様子で声を出して笑った。
「ホッホッホ。儂はビアド。ビアド゠クレイディアという。この辺じゃ偏屈爺さんで通っておる変わり者じゃ。ガーディアナの馬鹿げた教えには従うつもりはない、安心するといい」
隣を見れば、聖女はすっかりスープに口を付けている。さらに、とっても美味しいと老人に笑い返した。
「うむ、孫も好きだったポトフじゃ。さあ、お前さんも座って飲みなさい」
「ロザリーほら、おいもさん、ほくほくだよ」
「え、ええ……」
ロザリーは改めて座り直し、ポトフに口をつける。
「美味しい……」
料理が得意で、逆十字の一切をまかなっていたロザリーも、その味にはただ美味しいだけではない安心感を覚えた。優しい人にしか作れない味。月並みだが、そんな感想であった。
「儂の孫はな、マレフィカじゃった。お前さん達のように、な」
その告白に、二人はスープを飲む手を止める。どうやら魔女である事をまでも見抜かれていたらしい。長く世界を生きた晴眼を持つこの老人には、すでに隠し事など無意味であろう。
「だが、そんなあの子もガーディアナに連れて行かれたよ。もうすぐ十五になろうというあたりだったかな。本当に良い子じゃった。その失意からか儂の娘も死に、娘婿はそれに逆らった罪で服役中に死んだ。おかげで儂も、今は天涯孤独の身じゃ」
「それでは、お孫さんは……」
「死んだものと思えとだけ、奴らは言い放ちおった。詳しくは聞かされておらん。取り戻せたのは、あの子の着ていた服などの遺留品のみだった」
聖女は震えていた。食べかけのポトフを、飲み込むことも出来ずに。
「ガーディアナは変わったよ。お前達が生まれる前の事か……かつてこの世界には“魔王”という超常的な存在が君臨していた。先代、法王リュミエール様の時代は魔王の支配下でこそあったが、彼は愛を信じる教えを説き、常に人々の心の拠り所であろうとした。そして、その祈りがついには救世主を呼び、世界は魔王すらも打ち倒した。儂はこの目で見た。人々が一つになった“救世戦争”と、あの素晴らしい英雄達のいた時代を。だが今はどうだ。力こそ正義と増長する人類。全てが一つの思想に飲み込まれ、逆らう者は異端として虫けらのように殺される。法の下に正義の名を得たガーディアナは、皮肉にも次第に自らの存在を悪魔そのものへと変えていった。これではまるで、魔王の支配が未だ続いておるかのようだ」
老人の静かな怒りに応えるように、かまどの炎が大きく火を上げた。
「救世主……? 私、ずっとガーディアナが魔族を倒したんだって聞かされてきた……」
「それが奴らのやり方だ。都合の悪いものは全て歴史の闇に葬られる。儂の、家族のように」
「おじいちゃん……」
聖女には彼の主張が痛いほど伝わる。まさにそれは籠の鳥であった頃、漠然と考えていたもの。そして芽生えたとして、どうする事もできない苦悩。
「それでも儂は奴らに媚びへつらい、この村、サンデヴェルデを取り仕切る長の役目をしている。それは何故か? 次この村でマレフィカが生まれた時、便宜を図るためだ。儂は次こそ必ずマレフィカを助けたい。そもそも、何だ、魔女とは! あの子はただのかわいい子供じゃった! 何故、そんな目に会わねばならなかったのだ……」
ビアドは感情を抑えきれず激昂した。しかし、その空しさに、再び力なく笑った。そして二人を見つめ、納得したように続ける。
「しかし、救いはあった。お前さん達がここに来たのは、つまりこんな儂にも生きていた意味があったと言う事であろう」
「おじいちゃん、あのね……私は」
聖女は、自身がガーディアナで行っていた事をビアドに告げようとする。だが、ビアドはそれを制止し首を振った。
「分かっておる。しかし、お前さんが魔女でありながら魔女を断罪し続けた事は全て、教皇の企てによるもの。さぞ、辛かったであろうな」
「でも……でもっ……」
「お爺さんの言う通りよ。私もそう考えたからこそ、あなたと共に生きる事にしたの。だから、あまり自分を責めないで」
「ロザリー……」
流れる涙を拭うその暖かな手は、この世で最も自身を憎んでいたはずの手。そこに込められた思いを無駄にしないよう、聖女は再び微笑みを見せた。
「しかし聖女様といえど、こうしてみると年相応の女の子なのじゃな。おいくつだね? 孫とあまり変わらん様に見えるが」
「十五歳、になったよ。この前」
「そうか、そうか……」
ビアドは聖女の隣へと腰掛け、失った孫の代わりのようにその頭を優しく撫でる。
「どうだ、見たところ疲れておるようだし、少しここで暮らさないか? ここの住民はまだ聖女誘拐事件を知らん。今し方、この辺に張るはずのビラは焼き捨てたからな。ハッハッ」
ありがたい申し出であったが、ここはガーディアナ。せめて他国まで逃げ延びなければ安心できない。ロザリーは丁重に断った。
「いえ、これ以上お世話になるわけには……きっと奴らもすぐに嗅ぎつけてくるはずです」
「……そうだな。ガーディアナは悪鬼のごとく恐ろしい。確かに儂では守り切れまい。では、この雨が上がるまで……せめて儂の孫でいてくれまいか」
「うん、私、おじいちゃんの孫になる!」
聖女はビアドに向かって飛び込んだ。このわずかな時間だけでも孫のように懐き、孤独な老人の灯火であろうとした。
「ありがとう……。では、少しまっておれ、村から少しずつ食い物をもらってくるでな。それから、そこにある孫の服、気に入った物があれば着ていくと良い。あのドレスは流石に目立つじゃろうて」
「ありがとうっ、おじいちゃん!」
よいよい、とビアドは笑みを浮かべながら離れた民家へと向かった。
「ふう……いい人で良かったわね」
「うんっ」
ロザリーはガーディアナという国に来て、初めて血の通う人間に会えたような気がした。これまでに見た教徒などは、誰もが画一的な人格を植え付けられた教皇の駒のようですらあった。思想の力というものは、こうまで個々の人間性をも奪うのか。
そんな考えと共に、窓の外を眺めながらビアドの帰りを待つロザリー。もちろん今はガーディアナの偵察にも目を光らせなければならない。
「へえー。街ではみんな、こういうの着てるんだ。ねえ、ロザリー」
その声に振り返ると、聖女は一つ一つ、衣装を鏡に映しながら好みのものを選んでいた。
「ねえ、どっちがいいかな?」
と、いたずらっぽく服をとっかえひっかえしながら聞いてくる聖女。
((えっ、えっ!? お人形さん遊び!?))
ロザリーはあまりの可愛さに嬉しくなって、むしろ前のめりになって選んであげた。
「そうね、あなただったら……」
この青いワンピースも良い。いや、こっちのガーリィなニットも捨てがたい。ロザリーはうんうんと悩みながら、最終的に動きやすさを兼ね備えつつ聖女をイメージさせない、街娘のような格好を選んだ。
((はあ……可愛い……。こういうの、孫? にも衣装、というのだったかしら))
ロザリーは早速それを彼女の体に当ててみた。青基調のケープ付きの服で、この子の青髪とよく似合う。上等な生地によるプリーツのスカートも可愛らしい。おまけのアクセサリーは、エメラルドグリーンのブローチなどをあしらってみた。
「うん、派手すぎず地味すぎずね。旅はまだ長いのだし、このくらいの方が安全だと思うわ」
「そっかあ、ロザリーが言うならそうする!」
「じゃあ、靴と鞄もいただきましょうか。そうだ、あのガーディアナのドレスは、どうするの?」
「持っていくよ。まだ、私には必要だと思うから。この罪を忘れないために」
それは、未だ聖女を捨てた訳ではないという意思の表れであろうか。そんな荷物、出来る事ならばここで捨てた方がいいはずだ。そう、苦い過去と共に。
「ねえ、聖女の事はもう忘れて、これからは……」
途中まで言ってふとロザリーは気づいた。私はこの子を何て呼べばいいのだろう、と。“聖女”とは呼びたくないし呼ばれたくもないはず。ましてや他の者の耳に入る事もある。かといってなんて呼べばいい? と聞くのも気を遣う。
「ん? どうしたの?」
ロザリーの言葉を聞こうと、聖女は軽く首を傾ける仕草をする。その瞬間、ロザリーは再び、聖女をあの子の姿と重ねてしまった。
「――パメラ……」
それは、誰よりも自分を愛してくれていた子の名前。あの子も聖女と同じ、ふわふわのくせ毛と、いつも上目遣いの大きな目。どこに行くにも自分について来ては、いつも楽しそうに笑っていた。そういえば髪色こそ違うが、第一印象、特に短く髪を整えた聖女を見た時の印象は、まさにあの子、つまり、パメラそのものであった事を思い出す。
たくさんの愛をくれ、自らに“救い”をもたらした子。そして、自分の力がなかったばかりに救えなかった、贖罪の子。
(ああ……あなた、だったのね……)
ロザリーはもう、パメラと聖女を完全に重ねていた。ビアドが彼女を孫と重ねて見ているのと同じように。
「どうしたの、ロザリー?」
「ん、何でもないの。ねえ、パメラ。食料をもらったら、次は南へ行きましょう」
さっそく、ロザリーはその名で呼んでみる。それはあまりにも自然で、再び彼女が甦ったような錯覚さえ覚えた。
――え……?
「パメラ……私の事?」
「そうよ、もう聖女ガーディアナはいないの。あなたはパメラ、そうでしょ?」
すると聖女、いや、パメラは瞳を輝かせて言った。
「パメラ……。名前、それが私の名前なんだね?」
パメラはロザリーの前に出て、着替えた衣装でくるりとステップを踏んだ。やはり聖女などと祭り上げられていたとはいえ、中身はごく普通の少女なのだ。
「ふふっ。私ね、一度も名前で呼ばれたことなかったの。みんなは聖女様としか呼んでくれない。だから、ずっとさみしかった」
遠くを見ながらパメラが言う。彼女の感じていた孤独は、ロザリーのうかがい知れる物ではないだろう。聖女として個を捨ててまで民に奉仕してきた彼女にもたらされた対価としては、いささか残酷である。
「そういえばパメラ、名前……私の名前を、あなたはどうして知っていたの?」
「え?」
「聖堂から逃げ出す時、あなたは私の名を呼んだ。教えていなかったはずなのに」
「えっと……」
――だめっ、言わないで!
胸の内から、必死に叫ぶ声がする。パメラと呼ばれてからだろうか、彼女の様子がどこかおかしいのは。するとパメラは急に黙り、「良く分からない」とごまかした。さらに「ロザリーっぽいから?」と付け加える。
「確かに、言われてみればロザリーっぽいけど……」
ロザリー。父ブラッドが薔薇の冠を意味するロザリオから取って名付けたそうだが、自分の名である血と、薔薇の色を掛けたのだろうかと、その程度にしか考えた事はなかった。そういえば、皮肉にももう一つの意味である十字とも縁が深い。いつか会ったときにでも聞いてみよう。もしも、生きていたならば……。
「そうだ。だったら、姓も必要だわ。私はフリードリッヒというのだけど……」
「じゃあわたしは、おじいちゃんの孫だから、パメラ゠クレイディアだね」
「ふふ、そうね」
これからは、聖女と関係ない名前である方が都合が良い。ついでといっては何だが、姓にはお爺さんのものをいただくことにした。
――そう。それで、いいの。良かったね、聖女様……。
聖女の心の中で、一人微笑む少女。彼女は自分が、ロザリーの中に今も存在する事を複雑な胸中で噛みしめるのであった。
「あ、おじいちゃん、帰ってきたよ」
辺りはすでに薄暗く、雨はすでに上がっていた。松明に照らされ光る頭頂部がこちらへと向かってくる。そしてその足取りは、心なしか急いでいるように見えた。
「お前達、今、村の外れに軍が来ておる! 早く、これを持って逃げるんだ!」
ロザリーはパンなどの食料といくらかの金銭をビアドから手渡される。これだけあれば、しばらくの生活には事足りないだろう。
「ありがとうございます。パメラ、行くわよ!」
「でも……せっかくおじいちゃんの孫になれたのに」
パメラがぐずっている。このまま見つかれば張り紙を焼き払った事と合わせ、ビアドにも疑いがかかるかもしれない。ロザリーが急ぐように言うと、パメラは再びビアドを抱きしめた。
「絶対、いつか戻ってくるから、私が、この国を変えてみせるから! それまで、待っててね!」
「ああ、良くなったガーディアナを見るまで、儂は死なんよ」
ロザリーは幾分か乾いた自分の装備に着替えると、パメラの手を取った。
「では、本当にお世話になりました。いつかこのご恩は返します。どうかご無事で!」
ビアドは頷き、軍がいない逆方向の出口へと指さす。
「急げ、何があっても振り向くんじゃないぞ」
その言葉はどこか切迫しており、一種の諦観のようなものが感じられた。
言われた通りに、ロザリーはパメラの手を引き走り出す。パメラの手はすでに冷たく、ロザリーは人の温もりの儚さを思い知った。
民家への聞き込みを終え、村中にあるはずの張り紙が確認できない事を知ると、ガーディアナの偵察隊は酒場に向けて移動を開始した。
この村、サンデヴェルデの村長には以前反乱分子の疑いが掛けられており、彼は数年前から商売すらも禁じられている。その酒場には、なぜか集会を行った形跡のようなものがあった。数名の新しい足跡。そして、一人暮らしにしては多くの食料を分けて貰っていたという証言。手柄を急ぐように、男達は声を上げた。
「ビアド゠クレイディア。密告があった。貴様、何者かをかくまっているようだな」
「なぜ張り紙が貼られていない。反逆の意思ありと見てよいのだな?」
酒場の前には、四名ほどの騎馬兵が陣取る。何やら叫んでいるようだが、年寄りの耳には聞こえない。いや、彼らの教義など、すでに聞く耳は無い。
「来たか、長年連れ添ったこの家ともとうとうお別れだな。老いぼれ共々、最後の役目を果たす時のようだ」
ビアドは酒場のいたる所に灯油を撒いていた。そして手にした松明で火を付けていく。
綺麗に折り畳まれた孫の服を見ては、なけなしの勇気を貰いながら。
「なんだ、この臭いは……もしや貴様!」
ガーディアナ兵が扉を開くと、すでに炎が燃え広がる中をくつろぐ様子のビアドの姿があった。
「いい所に来た。どのみちワシは処刑されるだろうが、一人では寂しいのでな。ちょっくら地獄まで共に行かんか」
「なっ!?」
ビアドの投げた松明はたっぷりとしみこんでいた油に引火し、兵のいた入り口はたちまちに燃えさかる。
「ぐおお!」
「儂に出来る事はこのくらいだ。このような世になるまで、傍観を続けてきたツケよ。善人の沈黙は、悪人の雄弁と等しき罪……」
兵士達を巻き込み、酒場ボアズ・ヘッドは瞬く間に炎に飲まれていった。長い悪夢から醒め、最後の叫びをあげるように。
ロザリー達が森へと続く道を走る中、遠くから男達の怒声が届く。
続けて、何かが燃え、崩れるような音が後方から聞こえた。ロザリーはパメラを抱え、それらを聞かせないようにひた走る。
「ロザリー! だめ、止まってぇ!」
パメラが叫んだ。どうしてもそれを無視できないロザリーは、その場に立ち止まり、思わず振り返った。
木々の合間から見えたのは火のついた酒場。追っ手らしき四人組の兵士達は、雨に濡れた地面でのたうち回り、自らを鎮火させていた。
「いやだ……」
「パメラ!」
パメラはロザリーを振り払い、来た道を駆け出す。もし、兵士達が振り返れば全てが終わりだ。ロザリーも剣を抜きそれに続いた。
「なぜ、もどった!」
こちらへと走るパメラの姿を確認し、ビアドは慌てて外へと駆け出す。
そこに、火傷を負い皮膚のただれた兵が立ちはだかった。
「残念だったな。我らガーディアナの神徒は健やかなる聖体を教皇様により賜っている。この程度の炎など、神の火にくらぶれば恐れるものではない」
「ぐうっ……!」
兵士の凶刃は、ビアドの腹を貫いた。
おびただしく流れる黒い血が腹部を塗らす。
「いやあっ!」
パメラが叫んだ。その声に、兵士達は一斉にこちらを振り返る。それを確認し、ロザリーは彼らの下へと全力で駆け出した。
「あれは……!」
「女? 二人組の女だ!」
気付かれた。ロザリーはまず、ビアドを手に掛けた兵へと剣を向けて突撃した。
「うおおおっ……!!」
その勢いは完全に鉄の鎧をも貫き、兵士の胸を抉った。さらに、突き刺さった剣を引き抜くように、燃えさかる炎の中へと蹴り込む。
「ぐはあっ!!」
「こ、これが魔女か……」
「おのれぇ!」
逆上し向かってくる二人目には先手にその首を斬りつけ、次に、怯んだ三人目の無防備な腹を刺し貫いた。
「うわああ!」
慌てて逃げ出した四人目には忍ばせた短剣を投げ、その喉元を串刺しにした。
「か、は……」
全ての兵は倒れ、主のいなくなった馬達はそれぞれ自由になったとばかりに思い思いに逃げてゆく。
殺し。それはロザリーにとって、そう特別なものではなくなっていた。自身の甘さが何をもたらすか、それを地の底で苦いほど噛みしめたのである。まして、今は守るべきものもいる。これが、何かを背負うという覚悟。
「はあ……はあ……」
ロザリーは息を整えながらビアドの下へと戻る。
「おじいちゃん……」
ビアドは、すでに召されていた。ロザリーは憔悴したパメラを後ろから抱きしめる事しかできなかった。
「いやだ、いやだよ……こんなことって、ないよ」
「パメラ……」
全てが終わった。最悪の形で。しかし、うなだれるそんな二人をただ、あざ笑う者があった。
「ぐふっ、ぐふっ……正義は我らにある。ゆえに、神は生を与えるのだ。死にゆく者は、そこに転がる負け犬のみ……」
地獄の底から甦る男達の声。どうやら殺すには至らなかったらしい。ロザリーはつくづく己の甘さを知る。
「だったら……あなた達は、その犬以下ね」
この者達はすでに、人である事すらも捨てたのだ。ならば情けなど無用と、ロザリーは再び剣を構える。
「待って」
「パメラ?」
「ロザリー、私、決めたよ。こんな世界、嫌だから。もう、見たくないから……神が裁かないのなら、私が、聖女セント・ガーディアナが、あなた達を裁くの!」
「パメラ……っ!」
パメラから黒の天使が現れる。これは、いつか見せた力の暴走。
「やはり聖女……なぜです、なぜあなたが……!?」
「ひいいっ!」
一帯に閃光が走った。ロザリーは再び脱力が襲うと身構えるも、それは訪れない。すると、目の前の兵士達に異変が起きた。
「あ、が……」
裁きは下された。教皇より授けられた彼らの身体回復能力が、聖女の浄化によって弱まったのだ。致死量の傷を負っていた兵は、ただの人へと戻る。するとみるみる彼らから驕りの表情は失われ、ついにその場に倒れ込んだ。
「無……。私の力で、全ては無に帰る。ここで多くの血が流れたという罪も、魔女がいたという記憶も」
「パメラ、あなた……」
「ロザリー。あなただけに、背負わせない。これからは一緒に、背負うの」
パメラはロザリーの血に濡れた手を取る。そして、もう片方の手をビアドのお腹へと掲げた。
「だけど、失われた魂までは戻らない……。聖人ビアド。あなたの行いを、私は忘れません。きっと、次の世は美しいはずです。だから、どうか安らかに……」
寵愛の神子を失った神の嘆きか。黒煙が呼び寄せ、再び降り出した雨がパメラの涙を洗い流す。それでもなお、浄化の涙は溢れて止まらない。
「う、うう……」
それは、自らの代わりに血を流した彼への弔いの涙でもあった。
――聖女様……あなたは……。
ロザリーの力により目覚めてから、ずっと聖女を見守っていた心の声。彼女はその時初めて、彼女の心の内へと宿った意味を知る。ロザリーと再び出会う事以上に、そこには大いなる意味があった事を。
「パメラ、あなたはここにいて。彼を、あるべき所へと帰すわ」
「うん……」
ロザリーはビアドの亡骸を抱きかかえ、燃え盛る酒場の中へと踏み入る。そして、彼の可愛がっていた孫娘の衣装のそばにその身を寝かせた。
「きっと、お孫さんは無事よ。そして、これからも。だって、あなたが見守っていてくれるんだもの」
煙を吸わぬよう口元に布を当ててなお、血と油のにおいがする。雨の中にもかかわらず、この古い酒場はまるで主人の怒りを表すかのように炎を飲み込んでいった。
「行きましょう、パメラ……」
柱が折れ、酒場はついに崩落を始めた。ロザリーは泣き続けるパメラの手を引き、村の外へと向かう。もう、全てが燃えた。近隣の住民も家から飛び出し、その様子を眺めている。その顔にはどれも、恐れと後悔が滲んでいた。
「あ、あ……」
兵士達は皆、不完全な治癒により生死の境を彷徨っている。しかし、彼らは大いなる光の加護の中にあった。そこには苦しみも、怒りも、恐れもない。次に目覚めた時は、今度こそ人の生をという聖女の慈悲である。
ただ、残されたこの農村はどうなるのであろう。願わくばと、誰も罪に問われない事を祈り、ロザリー達はその村を立ち去るのであった。
忘れたい過去。忘れてはいけない記憶。それらを胸に刻み、私は歩き出す。いつまでも泣き止まないこの子と共に。
もうこの子には私しかいない。そして、私にもこの子しかいない。
でも、一人ではない。
私はパメラを力強く抱きしめ、この醜い世界の最果てを目指した。
―次回予告―
この世界に安寧など、ありはしない。
ならば、泣こう。気が済むまで。
聖女の心に住まう魔女は、そう囁いた。
第10話「心の声」




