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第84話 『邪心の魔女』

 ガーディアナ中枢、マグナアルクス。その天空に座す聖女の部屋。

 まるで時間が止まったかのように、その部屋はそのままの姿で今も帰らぬ主人を待ち続ける。広大な床は塵一つなく徹底的に磨き上げられ、寝床にはにはシワ一つ刻まれていない。棚に並べられた絵本や、壁に飾られた彼女の肖像画の数々もそのままの姿で保管されている。そして信徒の子供達に贈られた聖像(イコン)も、同じ一点を見つめつつ空虚な時を刻むだけ。


 ただ、その部屋には時折、清掃を命じられた女中の他に何者かが出入りしている形跡があった。厳重に閉ざされた扉も意に介さず、直接この場所へと現れる事のできる人物などただ一人。空間をも超越する女帝、エトランザである。


「ふん。相変わらず、子供のような部屋だ」


 足跡の付かないよう、彼女は黒のストッキングのまま冷たい床を歩く。


「さて、今日はどの本にするか」


 子供染みた部屋だと内心馬鹿にしているはずの彼女は、聖女の読む絵本に特に興味を持っている。ガーディアナ国立図書館に行けばいくらでも読めるだろうと思われるかもしれないが、彼女が何を読んでいるのかを知る事が重要なのである。

 そして彼女は今日も、聖女を通じて教皇の妻たる素養が何なのかを学ぶのだ。


「ふーむ、これもアルファ゠G゠ストリングスか……全部で20冊もあるぞ。聖女め、随分と気に入っていたようだな」


 厳しい検閲をくぐり抜け教皇から与えられた書物はそう多くはないが、書棚にはとりわけこの作家の作品が多い。読んでみると当たり障りのない普遍的な物語が多く、なるほど、聖女に余計な知識を付けさせまいとする努力がうかがえるというものだ。


「ふふん、だがエトは知っているぞ。聖女の侍女から聞いた話だがこの作家、何かしらの謎かけのような物を巻末に残しているんだ。それ一つ一つは何の意味もないが、作品全てを読むような熱心なファンであれば浮かび上がってくるものがある。それを読み解こうと聖女もまたここに筆を入れているのだが……ふふっ、奴の見当違いな答えにはいつも笑ってしまうな」


 例えば、空と海、そして星。その始まりは? との問いに対して、彼女はそら! と自信満々に答えている。


「馬鹿め、これは共通言語にするんだ。スカイ、シー、スター。つまり始まりはS。このように一つの本から、こうして一つの文字が現れる。これをつなぎ合わせるのが正しいはずなんだが……」


 エトランザは今日も読書そっちのけで、夢中になって謎解きを始めてしまった。


「……全てに通じる26の葉、その最後に位置するものは? 26の葉? うーん、全てに通じる……。ん、言葉? 共通言語は……おお、26文字! となると最後の文字はZか! いや、これでは簡単すぎる。ならばアルファベートのTだな! ふっふー!」


 このように、どの問題も子供にとっては熱中できるレベルのもので、大人である検閲者などは本気で取り組む訳もないだろう。そうして順当に答えていった先、エトランザの前に謎の20字の文字列が残された。


「STUAISS.YAMIOGUDRNIA……なんだこれは。二問目にアルファベートで解くというヒントまでくれているのだ。ここまでは合っていると考えよう」


 ドットが答えになる問題があった事が唯一のヒントにはなるが、このままでは意味不明である。


「ふむ、確か最初の二冊の答えはST。これは確かデビュー作とその続きだから合ってると思う。後書きにもそう書いてあるし。けど、そっからは聖女が順番をぐちゃぐちゃにしてて分からん! エトはそこまでこいつのファンじゃないんだ……ん、待てよ、ドットがあるという事は」


 セント・ガーディアナ。それは、ずっとずっと聖女の事ばかりを考えている彼女だからこそ導き出せた言葉。


「ST.GUARDIANAが埋まった……しかし、こんな偶然があるか? ならば……」


 残るはISSYMOUIの8文字。エトランザは興奮し、この文字列をさらなる文章になるよう組み替えていく。するとすぐに、あまりにもピタッと当てはまる文章が現れた。


「ST.GUARDIANA I MISS YOU」


 それを口にしたエトランザに、ぞわりとした悪寒が走る。


「こ、これって……」

「エトランザ、ここで何をしている?」

「ぴいーー!!」


 彼女はさらに信じられない声を聞き、ひな鳥のような悲鳴を上げた。音もなく背後に忍び寄っていたのは、彼女の崇拝する教皇リュミエールであったからだ。


「きょ、教皇様っ!?」

「何をしているのだと聞いている。場合によってはお前であろうと……」

「ち、違うんです! エトはただ、謎解きに夢中で……」

「謎解きだと……? 貸せ」


 リュミエールは絵本を取り上げ、子供の遊びとしてはふさわしくないその言葉の意味を考えた。


「聖女、あなたが恋しい……。何かの暗号か? いや、そうではない。検閲に掛からぬよう、ここまでして伝えたかったこの思いは確かだ。信仰から聖女への愛が止まらぬのも無理からぬ話ではある」

「エトは、この絵本に関する噂を聞いて、自分でも確かめたくってここに……!」

「ふむ、ここはでかしたと言っておこう。もしこれに聖女が気づけば、作家とはいえたかが一国民に特別な感情を抱く所であった。流通からこの書籍の出所を抑え、厳重に処罰を加えよう」


 ほっと胸をなで下ろすエトランザ。口から出任せとはいえ、今の言い訳は上出来だ。


「しかしエトランザよ。この所、ずいぶんと姿を見せぬな。なぜ私との謁見の場に来ない」

「そ、それはっ……」

「まさか、面倒などという事はないだろう。そのように、瞬く間に空間をも飛び越えるお前が」


 エトランザの広い額から脂汗がにじむ。第二の聖女擁立に失敗した今、彼女は立場的にも苦しい状況にあった。さらには、聖誕祭当日に起きた事件の状況証拠も確実に揃ってきている。ここで空間転移について触れるという事は、すでに黒と確信を持っての事なのかもしれない。


「どうだ。何か、心(やま)しい事でもあるのではないのか? 邪神の申し子、エトランザよ」

「そんなっ、エトは、エトは確かに呪われた子ですが、あなた様に弓引くような事は決して! ただ、私も恋しくて、ずっと胸が張り裂けそうで、でも、絶対に届くことがないあなたを見るのが辛い時だって……!」

「ほう、それで聖女を手に掛けたと?」


 エトランザは絶句した。心臓が握りつぶされたかのように鼓動を止め、目の焦点がまるで合わない。目の前の最も愛する人の姿は、最も残酷な悪魔か何かに見えた。


「ふっ、冗談だ。小さくとも女というもの、そういった感情の一つや二つ隠し持っているものだ。その程度の奸計、聖女ならば笑って赦しもしよう」

「ち、違うんです! エトは絶対に……」

「もうよい。だが、本当に無実を証明したいのであれば、分かるな。……もう後はないぞ、エトランザよ」


 そう言うと、教皇は聖女のベッドを軽く直し部屋を出て行った。

 凍てついた時が、再び動き出す。


「はあっ、はあっ!」


 誇張でも何もなく、一生分の恐怖を味わったのではないか。そんな地獄を彼女は再び生き抜いた。いや、これは生かされたのだろうか。


「もう、隠しきれない。ううん、教皇様は、全部知ってる……知ってて、エトを……」


 それでも処刑しないのは、まだ利用価値があると踏んだのか、それとも、最後の愛情か。もちろん賭けるなら後者だ。エトランザはどこまでも自分の都合の良い世界へと逃避した。


「そう、そうよ! あの方はエトを愛してるから、こんな事をしたって許して下さるんだ! だったらエトも、その全てにお応えしないと……っ!」


 しかし自分だけの浅知恵ではまた同じ事の繰り返し。ここは再び、あのガーディアナきっての知恵者に頼るべきだろう。


「じいじ……助けて……」


 聖女の部屋に消えるか細い声。エトランザは縋るような気持ちでマルクリウスの下へ向かう扉を切り開くのだった。






 ここはガーディアナ元老院に併設された枢機卿邸、パラティウム・マルクリウス。ガーディアナ随一とも呼ばれる世にも豪奢な邸館にて、束になった報告書に目を細めているのはもちろんこの家の主、マルクリウス゠バルトロナイである。


「ふうむ、今月もアバドンからの報告はなしか……。あの男め、不死とはいえ死の風には随分と手こずっているようだな。その野心を考えればこそこの足止めも意味があるが、もしやすると離反という事も……。しかしそうなると聖女に続く痛手だな。嘆かわしい事にあれほどに隆盛を極めた我が国も、ついに停滞期へと突入したようだ」


 司教座を模した作りの部屋で、深々と椅子に腰掛けつつ深いため息をつく老人。

 その先には複数の使用人と共に、ここらでは見慣れないイヅモ風の着物を着た少女の姿があった。その花魁のような出で立ちの彼女へ向け、マルクリウスは語り続ける。


「アバドンは奴の吉報を待つとして、この大陸も後はアルテミス、クーロン、そしてアルベスタンを残すのみとなった。それらを押さえれば新大陸を出し抜きアトラスティアのコアを掌握できるというに、未だ内紛続きのガーディアナでは今一つ決め手に欠ける。ここは、二分する世界、そのどちらにも属さぬ諸君らイヅモ国に期待したい所だが……」

「えっへん、実にお目が高いですにゃあご老人。ウチら黄金の国イヅモは何者にも与しない第三勢力。ですが商機とあらばいつでも駆けつけますにゃ。いつもニコニコ猫に小判、トイチで貸しますイヅモ金融!」

「ふっ、金には困っておらんよ。ただ諸君らには霊力とやらの引き出し方を教えて貰いたい。我らは魂という不確かな物に信仰がなくてな。やがて来る災厄に向け、そちらの観点からも自衛する必要があるだろう」

「お安い御用にゃ。報酬にちょいとばかりまたたびを……」


 だらしなくよだれを垂らし、不気味な笑みを浮かべる異国の少女。しかしそんな交渉の途中、文字通り割って入るかのような亀裂が空間に走る。


「じいじーっ!」


 突然そこから飛び出してきた子供に、驚いた異国の少女は正体を現したかのよう、おかっぱ頭から三角の耳を出し、長い尻尾を直立に逆立てた。


「にゃ、にゃんなのにゃあ!」

「おお、エトランザ様。いつもながら突然ですな、心臓に悪くございますぞ」

「じいじ、話がある! まだくたばるのは早いぞ!」


 マルクリウスへと詰め寄るエトランザは、同時に部屋中にただよう不思議な力を感じた。魔物のような、それでいて人のような気配。世界には獣と人の特徴を持つ亜人という存在がいるというが、それとも違う。


「で……なんだこいつは。じいじのペットか?」

「それはこっちのセリフなのにゃ! お前こそその広いおでこは何なのにゃ! ウチのイヅモ様の真似をするにゃ! シギャー!」

「ふぎゃ、今デコって言ったか!? 貴様、八つ裂きにしてやる!」


 ゲートを作ろうとするエトランザに、猫のように爪を立て応戦する少女。多額の保険は掛けているものの、ここで暴れられてはたまらない。マルクリウスは彼女達を仲裁すべくその間へと入った。


「まあまあお待ちくだされ。その方は私の客人でしてな、遠くイヅモより訪ねられた御庭番(おにわばん)という……つまりは幕府の要人でございます。さらに彼女は我らのような人でもなく、獣が魂を宿したあやかしなる存在であるとか」

「えっへん! 我こそは天現いづも様が一番槍、猫又のミヤビ太夫(だゆう)様にゃ! これでもおんとし百年を生きる大妖怪ぞ、恐れおののくがいいにゃ!」

「ふん、知らん。じいじ、猫を飼う趣味などあったんだな」

「ええ、孫が迷子になっている所を拾ってきましてな。帰り方も分からぬと言うので、しばらく私が面倒を見ておるのです」

「ふーん……猫の手だろうが何だろうが利用しようとするの、ほんと悪い癖だな」

「それはお互い様でありましょう」


 マルクリウスは手慣れた様子でエトランザをなだめ、自分の席へと座らせてあげた。


「それで、私に要件とは?」

「そうだった! だがまずはこの野良猫をどこかにやれ。盗み聞きされるとかなわん」

「ウチは由緒正しい芸妓にゃ! これでもあやかし花街のナンバーワンなのにゃ!」

「ほほ。ではミヤビ殿、先程の件、頼みましたぞ。言い忘れたが、フランシス卿を亡き者にした貴殿らには個人的に感謝しておる。あの堅物のみが私の政敵と言っても過言ではなかったからな」

「フランシス……カッパ頭の坊主の事にゃ? くくっ、イヅモ様に刃向かうとそうなるのにゃ。お主もゆめゆめ忘れぬように」


 ドスのきいた台詞を残しつつ、彼女は高下駄を鳴らし部屋を後にした。そのおしろいの残り香に鼻をゆがめるエトランザ。


「さて、人は払いましたぞ。ここには私の息の掛かった者しかおりません、何を話そうが心配無用でございます」

「そうか……実は、教皇様に聖女暗殺計画の事がバレてしまったんだ。エトはもちろん認めなかったが、このまままでは確実に……」

「ふむ。処刑、でしょうな」

「ひいーっ!」


 マルクリウスは淡々と口髭を触りながら言ってのけた。それを受け、涙目となったエトランザは子供のようにだだをこねる。


「計画は完璧だったんだ! 殺す事まではできなかったが、結果邪魔者はいなくなった! いや、本当は殺すつもりもなかった……そう、そうだ、エトは何もしてない! やったのはあの髪の長い女だ! あの叛逆の魔女が全部悪いんだ!」

「エトランザ様、そう心配なさらずとも大丈夫でしょう。教皇様もあなたまで失う訳にはいかぬと分かっておられるゆえ、すぐにでもそうはせぬのです。ならば、その叛逆の魔女という存在と唯一関わりあるあなたに何を望んでおられるか。もうお分かりでしょう」

「ああ……」


 枢機卿の言葉は重い。その口から自分と同じ見解を得られ、エトランザはようやく安心する事ができた。


「後が無いのは私も同じです。我々の手がけた第二の聖女もまた、何者かによって誘拐されてしまった。だがあの事件は軍部との痛み分けに終わり、結果バルホークもしばらくの謹慎となりました。そのため、現在これ以上の粛正は難しい状況にある。つまりは動くならばそれまでが刻限。エトランザ様、その力で事件の状況を撹乱したように、行方をくらませた聖女を連れ戻す事もまた、あなたならば容易なのではないですか?」

「この私に、聖女を連れ戻せというのか……?」

「我らの縋った第二の聖女はもういない。これは言わば、私の野心であった。セント・ガーディアナは唯一無二の力を持つが、どうも私には御しきれない所がある。いや、私の方にこそ彼女を認めきれぬ心があるのでしょう。彼女には、私の孫娘とちょっとした因縁があってですな、祖父としてのエゴとでもいいましょうか、どうにも可愛くないのでございます」


 意外にも理性より感情を取った彼のその言葉に、エトランザは思わず興奮し同調する。


「ああ、分かる。奴といると、自分の中にある人間の嫌な部分を突きつけられたような気になるからな。あれなら、同族のソフィアの方がまだマシというものだ」

「左様。カノンの教えに反発するような事を平然と口にする神経、あれは生来、教皇様に甘やかされてきたせいでもある。つまりは聖女の出奔も全て、あの方本人に責任があると言えなくもない。無事に帰って来たならば、ただの家出で済む話。身内の恥であるゆえ、事は大きくも成らぬ道理」

「くっ、背に腹は代えられぬということか……」


 結局、全ては振り出し。いや、以前より立場を悪くしただけの状況に唇を噛むエトランザ。それでも、命があるだけまだいいと考えるべきか。


「ただ、万全を期すにはそれに伴う手土産も必要かと。実はですな、現在我々が統治するローランドにおいて、叛逆の魔女らしき者達による武力行為があったのです。それらにどんな言い分があろうとも、カノンは民による自力救済を認めていない。その後ロンデニオンにおいて行われたという奴らに対する裁判もまた、ガーディアナの不在により一方的な判決となった。これは我々に対する宣戦布告と捉えてもよいくらいですが、はっきり言いまして相手はたかが小娘、偉大なる宗主国としてはあまり大事にはしたくないというのが心情」

「くどいぞ、もっと分かりやすく言え」

「ほほ、そうでしたな。つまりは聖女を連れ戻すついで、あなた様に闇へと葬ってもらいたいのです。その、叛逆の因子共を」


 闇に葬る。その言葉の響きは、憔悴していたエトランザの脳内を甘美に駆け巡った。溜まりにたまったイライラを解消する方法は、やはり破壊に限る。


「くくっ、いいな。その方が分かりやすくて好きだ。それで、どんな奴らだ?」

「首謀者である叛逆の魔女は無名の兵ですが、ロンデニオンでは英雄として担がれている模様。だが何より、その一味にはかのアルテミスの王女も加担しているとか。その事実を明らかにすれば、本格的なアルテミス攻略の鍵ともなる。その者だけは願わくば生け捕りにしていただけるとありがたいのですが……」

「ふん、誰に言っている。エトは最強だぞ? そんな奴、一瞬だ」

「なんと頼もしい。それでは、早速ご準備を。ところで、いつもの護衛は付けないのですか?」

「コキュートスか。連れては行くが、戦いには使えん。奴らは少し訳ありでな、叛逆の魔女と会わせる訳にはいかんのだ。もしかしたら寝返る可能性もある」


 困ったようにため息をつくエトランザ。やはり正道にて邁進する小賢しい魔女を相手取るには、心の底から邪道に手を染める者にしか務まらないのだ。


「そうだ、新たにロストチャイルドに配属したオクタヴィアという8人組だが、じいじの所で面倒を見てはくれないか? 元は第二の聖女候補生だった者達だ、縁はあるだろう?」

「良いですが……私に魔女を匿えとは、何とも複雑な……」

「お前の孫も魔女だろう。ゆえに、じいじにしか頼めないのだ」

「ほほ、痛い所を突きますな。ただ、孫娘の玩具になっても文句は無しでございますよ?」

「構わん。もしエトがいなくなれば、奴らは……」


 ふと見せた弱気な表情。その年齢でそこまでの覚悟をしている事に、マルクリウスは感心すると同時、かすかに哀れみを抱く。


「じゃあな、じいじ。これで最後になるかもしれんが、達者でな」

「何を縁起でもない。我らガーディアナは不滅。共に救済の時を駆け抜けましょうぞ」


 いつものマルクリウスを見て少し落ち着いたのか、微笑んだエトランザはゲートを開き邪教の神殿へと帰っていった。

 思えば、彼女が生まれてから今日まで、ずっと面倒を見てきた。そんな彼女を戦場に送り出すというのは、感情が枯れてもなお切ないものである。


「悲しいかな、いつぞやの覇気もどこへやら。ついに女帝も堕つるか……それとも最後の意地を見せるか、どちらにせよこれで政局はまた一変しよう」


 全ては愛する教皇によってかき乱された彼女の運命。そんな皮肉に、流石のマルクリウスも一人眉をしかめた。


「さて、これはまた急がねばならんな。新たに司徒を派遣したアルベスタンにもそろそろ動きがあるだろう。あの男の信心は疑わしいが、その実力は確か。かの国を手中にすれば、難攻不落であるクーロンへの包囲網が完成、戦力を集中し総攻撃を仕掛ける。そして残るは……」


 机の傍らに広げた作戦地図。マルクリウスは手にした駒を、エルガイアの中央に位置する小国へと進めた。


「ロンデニオン……前時代の遺物、レジェンドの王国よ。私とて、かの時代を生き抜いた老骨。一極した力の持つ危うさなど骨身に染みておる。ただな、それを人に振るえるか、そうでないか。その卑情さが時として必要となる事もあるのだ」


 それがやや極端な思想である事は自分でも理解している。その口調は、大義のため自身に言い聞かせているようでもあった。


「我々は勝つ。勝つべくして。そして全ての危機をも乗り越えるのだ。それからの時代は、あの子達若い世代が造ってくれよう。……のう、儂の可愛いマリスよ」


 マルクリウスは机に飾る写真立てを見つめ、シワに隠れた目をさらに細めた。そこには時間が止まったかのように、彼と仲睦まじく並び笑う一人の少女の姿があった。ただ、その一見屈託のない笑顔に秘められた邪心に気づかない彼ではない。


「どうしてそんな顔をする。昔のように、笑っておくれ……」


 彼は一人となった途端、誰にも見せない顔を露わにした。

 まるで時代に一人取り残された、寂しそうな背中をした老人。それもそのはず、彼は最愛の孫娘の心を未だ掴めずにいるのだ。


「そうか、聖女か。あれが、お前を」


 魔女である自身の孫娘を可愛がる一方、率先して魔女を弾圧するという矛盾。それは自身の秘匿すべき事実を覆い隠すための欺瞞。なればこそ、彼は生まれながらにして特別たる聖女に対する怒りを静かに募らせていくのだった。


「女帝がやれぬとあれば、次は儂が……。くく、くくく、あまり人間を舐めて貰っては困るぞ、セント・ガーディアナよ……」






 ガーディアナ各地に、隠れるよう複数存在する邪教イルミナの神殿。

 ここしばらく点々と移動を繰り返し潜伏するその一つへと、エトランザは沈痛な面持ちで帰還した。

 着くなり早々、眼帯を身につけた側近の一人が甲斐甲斐しく身の回りの世話を始める。幼い風貌だが、どうやら彼女がコキュートスという直属部隊の一人のようだ。


「お帰りなさいませ、アルビレオ様。随分と遅いお帰りで」

「ああ、今はエトランザでいい。ちょっとマルクリウスの所へ行ってきた。色々と便宜を図ってくれたお礼に、こちらからオクタヴィアを送りたい。今すぐ用意させろ」

「かしこまりました、エトランザ様。それと、こちらが今回の伝達事項です」


 エトランザは彼女から書類を受け取ると、一通りそれに目を通し舌打ちした。


「ケリュケイオンの双子も未だ帰らぬか。奴ら、ソフィアを連れ帰らぬばかりか、もしかすると……」


 可能性があるとすれば、彼女達も叛逆の魔女によってほだされた線が濃い。一度対峙をしたから分かる。あれは魔性だと。このコキュートスの4人も、未だに彼女の事を忘れられずにいる程に。


「流石のエトも奴ら双子二人を同時に相手したくはないな……。特にシェリル、あいつだけは……」


 エトランザはサンジェルマンの研究所で見た彼女の姿を思い浮かべ、寒気と共にぶるぶると首を振った。


「それで、奴らの居場所はまだ追っているな?」

「はい。放った草によると、彼女達はアルベスタン近郊の集落にて潜伏している模様。現在、近辺の信徒が転送の祭壇を用意しているとの事です」

「分かった。準備が整い次第向かうぞ。お前達は近場の神殿にて待機だ」

「お一人で行かれるので?」

「ああ、お前はともかく、他の三人がな。心配するな、エトは絶対に勝つ」


 眼帯の少女は皆まで言わず、その決意を受け止めた。

 邪教の神殿には必ずと言っていいほど、ある彫像が飾られている。山羊の頭をし、胸部を露出させた女性の像である。これは邪教の母であると同時に、儀式の際に使用する呪物でもある。

 エトランザはそれに向かい、暗い記憶の片隅に残る同じ姿をした母の死骸を思い浮かべた。


(ママ……エトは必ずやり遂げる。全てを呪って死んでいったママの分まで、教皇様の愛を独り占めにしてやる。だから、地獄で見ていろ……貴様の作った、この最強の女帝を!)


 邪心の魔女は遠く異境の地に向け、研ぎ澄ませた魔力を巡らせた。親子二代に渡る、聖女に対するありったけの憎悪を込めて。


―次回予告―

 日々の暮らしに追われる中、突如として襲いかかる凶事。

 ティセは滾る決意でそれに立ち向かうも……。

 不毛の地に君臨した女帝は不敵に笑う。


 第85話「嵐の前」

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