第8話 『二人』
「ん……」
目を覚ますと、隣には美しい女性がいた。
いつもあるのは無機質な部屋で一人迎える、望まぬ朝。
「そうだ。私、自由になったんだ……」
聖女は改めて思い返した。昨日の自分の身に起きた事を。
そして同時に、彼女に起きた事も。
隣に誰かがいる。その体温がこんなに温かいなんて。全てを失い、それでも自分へ温もりをくれるこの人こそ、本当の意味での聖女なのだろう。
「ロザリー、おはよ」
ロザリーの鼻先を、少女の吐息がくすぐる。
ちゅ。
筋の通った鼻に、おはようのキス。気分はまるで新婚さんだ。
「ふえっ」
ちょっとした刺激で目覚めたロザリーは、いつもの癖で飛び起きた。朝の訓練に遅れては一大事だと。
「朝よ、みんな起きて!」
微睡みの中にいた少女は、その声ではっきりと目覚める。そして、キョトンとした顔でロザリーを見つめた。
「……もう、起きてる」
ロザリーは周囲を見渡し、はっとした。まだ自分は現実から目を背けているらしい。もう、日常を共に過ごした仲間はいないのだ。
ガーディアナへの反抗作戦の際、ロザリーの組織“逆十字”は壊滅した。そのことを何気ない日常の中で、今やっと現実として感じてしまった。思えば非日常の出来事が続き、心がずっと張り詰めていたからだろう。
「ロザリー、泣いてるの?」
思わず顔をそむけ精一杯こらえたが、ロザリーの声は震えていた。
「何でもないわ、ごめんなさい」
この子に余計な心配をさせたくはない。ただでさえこの子は、今の境遇を作ってしまった罪の重さに心を傷つけてしまっている。自分が泣いていてはまた己を責めるだろうと、ロザリーは頭を切り換えた。
「さ、起きて。朝ごはん、食べましょ」
「うん」
逃亡の途中、森の中であばら屋を見つけた。幸い、それはすでに放棄されたものであった。今の身の上としては堂々と買い物などできない。よって今は父ブラッドから教わったサバイバル技術で乗り切るしかないのだ。
今回は周辺の森でとれた山菜やキノコを炒めたものに、香草をあしらったサラダを用意した。デザートは野いちご。とても質素な食事だったが、この子はとてもおいしそうに食べてくれる。
ロザリーの言うこの子、セント・ガーディアナと呼ばれていた少女は、生まれてからずっと狭い籠の中で生きてきた。ロザリーとは比べ物にならないほど裕福な育ちだが、そこに自由はなかった。
彼女はいかなる時も、教皇リュミエールによって常にガーディアナの力としての存在を強制されてきたという。その一つに、魔女狩りも含まれていた。ロザリーも浴びた光、浄化の力によってマレフィカは一時的に無力化する。
その暗い行く末を知る彼女は、次第に心を失くした。そして、洗脳教育によって自発的な行動を抑制されている為、常に誰かに救いを求めていたのだ。
しかし、今こうして初めての自由を手にする。未だその罪に心囚われているが、ロザリーによって初めて生の意味を教えられ、広い世界を知った。そのことがこの上なく嬉しいのだろう。ロザリーも、彼女の笑顔を見ているだけで心が救われる気がした。
「おかわりはないけど我慢してね」
「ん、平気」
「ちゃんとよく噛むのよ。ほら、こんなにこぼして、もう」
ロザリーの悪い癖、小言癖とでも言うのか、つい出てしまう。でも、そんな言葉にも彼女は笑顔を返してくれる。
((ああ、どうしてこんなに可愛いの……。もぐもぐ、もぐもぐ、ふふ……))
そんなダダ漏れとなった思考が、ふいに聖女へと届いた。これは稀に発動するロザリーの異能、感応によるもの。聖女はこの声が聞こえる度に、いつも聞こえないふりをしてあげるのだ。
(ロザリー……これさえなければ、すごくカッコいいんだけどな)
――ふふっ、こういう所、昔から変わってないんだね。
あれから、心の声もずっと一緒だ。二人だけの逃避行も、彼女にとっては賑やかな三人旅なのである。
――そうだ、聖女様。ちょっと野いちごで口の端を汚してみて。
(うん?)
聖女は言われた通りに、かぶりつく振りをして野いちごの汁をほっぺにつけてみた。
((あっ、口の端、汚れて……どうしよう。でも、気づいてないし……えい!))
「あっ……」
ロザリーはさりげなく、その汁を指でなぞって舐めとった。
「ほっぺ、付いてたわよ。食事はお行儀良く、ね」
「ご、ごめんなさい」
((勢いで舐めちゃった。ちょっと気持ち悪かったかしら……でも、甘酸っぱい))
心の声の狙い通り、再びそのクールな振る舞いからは微塵も感じられない甘々な思考が漏れ出す。
――ね、かわいいでしょ?
(もう、あまりからかっちゃダメだよ……)
そんなやりとりの中、ぐう、と聖女のお腹が鳴った。やはり寒いこの時期は食べられる物が少なく、食べ盛りの彼女にとってはこの食事も十分とは言えないのだろう。
((可愛い音……じゃなくて、ごはんが足りないのかしら……))
想定外な事に、聖女の食欲はその体つきからするとかなり旺盛であった。聖女は自分だけ隠し事をしている状況が後ろめたくなり、照れながらも正直に告げる。
「ロザリー、やっぱり私、おかわりほしい……」
「しょうがないわね。はい、私の分」
「わあい!」
少しわがままなお姫様。いや、ロザリーはこの旅の中で、聖女をむしろ手の掛かる妹のように思っていた。
((あの子達も、まだ生きていたらこんな風に……))
ロザリーは母国ローランドにおいて最年長のマレフィカということもあって、年下のマレフィカの面倒をよく任されていた。そのため、気がつくとたくさんの子供達の姉の様な存在になっていたのである。
けれどガーディアナの侵攻の際、そのほとんどを守れずに自分だけが生き延びる。半身をもがれた。いや、そんな言葉では表現できはしない。怒り、憎しみ、あらゆる負の感情が彼女を強くした。
そして今、共に戦った仲間まで失った。ロザリーはガーディアナを心の底から憎んでいた。
((……ガーディアナ、ガーディアナ、ガーディアナ!))
「――ロザリー」
「……っ!」
ロザリーは無意識に恐ろしい目をしていたらしい。ふと我に返ると、不安げな顔をした“聖女”がそれを見つめていた。
このガーディアナの象徴とも呼べる存在。本来はもう、自分の手で殺していたはずの少女は、ロザリーのこういった表情を見逃さない。
そして必ずこう言うのだ。
「ごめんなさい……」
ロザリーは自戒した。この子に罪はない。それはさんざん分かっている。まず自分が変わらなければ、この子も変われないだろう、と。
「ねえ、もう謝るのはやめて。あなたは何も悪くないのだから」
「でも、でも」
いっそう曇る表情に、思わずロザリーは聖女を抱きしめていた。
「確かにガーディアナは憎いわ。けれど私はあなたを守る、今まで守れなかった人たちの分まで。だから、あなたも私を信じて」
「……うん」
その日はすぐにあばら屋を出た。こういった空き屋はすぐに捜索の手が伸びるだろう。当分は逃亡生活になるが、手持ちの資金などほぼ持ち合わせてはいない。不安と共に広がるのは、二人の行く先を暗示するような曇り空。
「少し、急ぎましょう。雨が来るかもしれない」
「うん。ついていく!」
二人は、いくつもの森を抜けた。だんだんと人の住む地を離れ、おのずと野獣の生息域へと入る。ロザリーは襲いかかる野生の獣から、聖女を守りながら落ち着ける場所を探した。
「ロザリー、大丈夫? 私の力、使う?」
「いえ、あの光は目立つわ。誰が見ているか分からない。ここは私に任せて」
「わかった。でも、もし魔物が出たら、私が浄化するね」
「ふふ、頼もしいわ」
この世界において、最も恐ろしいものは人間であろう。彼女の言う魔物と呼ばれる存在は、すでに過去のものである。
魔王の時代、原生生物の多くはその影響から魔物と化した。しかし魔王亡き今、冒険者などの手によってその数は徐々に減りつつある。まして、ここガーディアナにおいては神聖な聖女の加護により、すでにほぼ見る事はない。
「私ね、魔物退治なんかの仕事もやってたんだよ。それだけは、ちょっと胸を張ってもいいかな」
「そうね、とっても偉いわ。魔物と化した生物を救えるのは、倒してあげる事だけ。それが魔女の力の、本来の使い道ね」
「わーい、褒められちゃった!」
そんな大いなる存在と、今こうして手を繋いでいるというのだからおかしな話だ。ロザリーは彼女の加護の下、怪我も負うことなくその場を切り抜ける事ができた。
山が近いのか、急に雨が降り出した夕暮れ。獣の返り血と雨でぐしょぐしょになった二人は、少し開けた土地に出る。そこには広がる農地と、いくつかの民家があった。
かなり気温も下がってきている。ロザリーはこのままでは自分はともかく、聖女の身が持たないだろうと案じた。
「どうする? 村があるようだけど……私達、目立つわね」
「私、ドレスのままだ。ふふ、誰がどう見ても聖女だね」
「笑い事じゃないでしょう……。仕方ない、忍び込んで雨を凌ぎましょう」
幸いな事にこの雨の中、外に人の姿もなく、二人は寂れた酒場の近くに潜んだ。
『酒場・ボアズヘッド』と書かれた看板も落ち、かつては賑わっていたであろう店も、がらんどうとしている。営業していないのであれば、人も当然近づかないであろう。
「助かったわ。こっちよ」
隣の納屋が開いていたため、ひとまず二人はそこで雨を凌ぐ事にした。
「そのままだと風邪を引くわ。さ、早く脱いで」
「ロザリーは?」
「私は濡れてもいい服だから。ほら、はやく」
ロザリーは、ぎこちない手つきで聖女のドレスを脱がす。白の生地に、金の装飾がふんだんに施された誰もが目を惹くドレス。腰回りの柔らかなフリルは雨に濡れ、ペタリと肌に張り付いていた。
その先に、うっすらと透ける純白の下着が見える。細かな刺繍が幾重にも重なり、ガーディアナの仕立て技術の確かさがうかがえる一品だった。
「きれい……」
じっ、とそれを無意識に眺めていたロザリーに気付き、聖女は恥ずかしげに目線の先を隠した。
「あ、そんなに……見ないで」
「え、あっ! ごめんなさい、つい……」
何がつい、だ。ロザリーは赤面した。年頃の少女の下着を口をあけて見とれていたなど、エロ親父ギュスターを悪く言える立場ではない。
しかし無理もなかった。それを身につけた彼女はあまりにも無垢で、純粋に美しかったのだ。人ならざる神秘的な造形美。彼女の肢体はそんな芸術性を秘めていた。
ドレスを脱いだ聖女は顔を赤らめながら、その場にうずくまる。
「寒い……」
隙間から吹く寒風。ロザリーも冷たくなった鉄製の装備を脱ぎ、ランタンを掛ける鉤に衣服を干す。そして同じように膝を抱えながら、服からしたたる水滴を眺めていた。
((これから、どうしたものか……))
全てが行き当たりばったり。決断力に欠ける自分に嫌気が差すと同時に、ロザリーはひとりでに震える膝を押さえた。動いていないと自然と不安がこみ上げてくるのか、聖女を誘拐したという大それた現実に、ほんの少しばかりの恐怖が滲んだ。
「ロザリー」
すると、聖女はまるで誘惑するかのようにロザリーの前に立った。再び純白が眼前へと現れ、慌てて目線を外す。無垢な反応を見せた先程とは打って変わっての態度に、ロザリーは聖女の真意が読めずそれを見る事ができない。
「ど、どうしたの……?」
「ロザリーの手、とっても暖かいの思い出したの。じゃあこうすれば、もっと暖かいよね」
聖女は、無理矢理ロザリーの丸まった胴体と脚の間に向き合うように入った。二人はそのまま、抱き合うように密着する。
「あ、あなた……」
心臓の鼓動が聞こえた。聖女はとても冷たかったが、つまりそれは聖女にとってロザリーが暖かいという事。ロザリーはそのまま、しばらく彼女を暖めた。
「何が暖かいかって、これだ」
聖女は、ロザリーの胸の間に手を入れた。それは氷のように冷たくて、ロザリーは思わず素っ頓狂な声をあげる。
「ひゃあ!」
「ぷ、あははっ」
聖女は面白がってロザリーの胸に手を這わせた。そして、ロザリーの下着の上から、より暖かいその内部へと容赦なく氷の手は這った。
「んっ……」
「あっ、ごめん、冷たかった?」
急に出た艶めかしい声に、聖女は少し悪いことしたとその手を引いた。ロザリーは真っ赤になってうつむく。すると、聖女はいたずらに自分の体をそこへと押しつけた。
「ふふっ。じゃあ、わたしが暖めてあげる」
「ああ……なんてこと」
聖女は、そのままロザリーを抱きしめた。聖女の胸も次第に熱を帯び始める。どうしようもなく恥ずかしいが、生存本能が互いの熱を求めた。
「二人なら、もう寒くなんてないよ。だから、きっと何があっても大丈夫」
「ええ……そうね。ごめんなさい、弱気な所みせてしまって。あなたには、隠し事なんてできないみたい」
「うん。わたしは、ロザリーの事なら何でも分かるの。あなたがしてほしい事も……」
「それはどういう……」
聖女の柔らかな身体に包まれ、ロザリーは動く事ができない。高鳴る胸は、互いにその鼓動を伝える。
「少しだけ、魔力を解放するね」
すると、二人の体内を暖かな何かが駆け巡った。その熱は次第に下腹部へと集まり、火照るように熱い疼きをもたらす。
「これは……あの時の、力の共振……? でも、こんなのっ……」
「いいの。恐れないで」
魔女同士の邂逅は、時に力の共振による快楽をともなう。彼女達が同性愛を好むと言われる性質は、まさにこの現象による所が大きい。
((だめっ、耐えられないっ……!))
「ふあ……」
聖女はロザリーの耳の近くで、吐息と共に嬌声を漏らす。と、同時に、ロザリーは下半身にある違和感を覚えた。すっかり聖女の体も同じくらい熱くなっていたが、さらに熱い何かがロザリーの下腹部を濡らしたのだ。
小刻みに揺れる体。すると二人から湯気が立ち上った。
「んっ、んんーっ!」
少し高い、熱を持った声が響く。そのまま深く息を吐きながら、聖女はロザリーに全体重を預けた。雨ではない湿り気が、ロザリーの股間へと流れていく。
「もしかして……」
「ひゃうっ」
その体が一つ強く跳ねる。
聖女は、大変な事をしてしまったと我に返った。慌ててロザリーから離れると、ぐっしょりと塗れた黄金色の液体が地面へと滴り落ちていくのが露わになる。そう、彼女は明らかに失禁していたのだ。
「ごめんなさい、違うの……」
聖女は震えながら、かぶりをふった。その目には涙を一杯にこらえている。だが、この行為が生理的なものであるとロザリーも分かっている。とても責める気にはなれなかった。
人は命の危機がある時、安堵感を覚えると無意識に脱力する。それは、どこか夢心地であった自分も同じだ。このアクシデントがなければ、むしろ自分がどうなっていたか分からない。ロザリーはまたしても優柔不断な自分を恥じた。
「いいのよ。大丈夫、大丈夫よ……」
落ち着かせるように、ロザリーは聖女の頭を抱いた。その瞬間、ロザリーは納屋の入り口に人影を見る。
「おーい、誰かおるのか? ……おおっ」
人がいないと決めつけたのは早計であった。さっきの聖女の声に気付き、住人が様子を見に来たのだ。目撃者は、すっかり頭頂部が禿げ上がった白髪の老人。上等なガウンを着込んでいるが、この寂れた酒場の主人だろうか。
「あのっ、私達は怪しい者ではっ!」
慌ててロザリーが訂正する。しかしこの状況、見るからに怪しいに決まっていた。彼は白髭が顔面の下半分を覆ったいかめしい顔つきでこちらを睨む。それはそうだ。女同士、下着姿で抱き合う二人組。どちらにせよ通報は避けられないだろう。
「雨に打たれたか、そこじゃあ寒かろう、入ってこい」
しかし老人はまったく動じる事もなく、優しい言葉をかけ酒場の方へと戻っていく。
「ロザリー……どうしよう」
「そうね、どうしようかしら……」
((ああ、あんな所を見られて本当に私、どうしたら……!))
ロザリーは結局、真っ赤になった聖女を少し落ち着けてから酒場へと向かった。
――あーあ、もう少しだったのにな……ふふっ。
心の底でいたずらに笑う声。そこにいたのは、もう一人の聖なる魔女。
彼女の熱は、この寒空の中でも冷めることなく燻り続ける。いつか失った、“最愛”を完遂するために。
―次回予告―
人を信じるという事。それは何かを得、何かを失う行為。
少女は人としての名前をもらった。
そして、人である証と引き替えに、また一つ何かを失った。
第9話「ロザリーとパメラ」