第1話 『魔女』
数ある作品の中から覗いてくださり、ありがとうございます。
絶望の世界で生き抜く少女達の物語。
しばしお付き合いくだされば幸いです。
夢を見ていた。
闇の中、崩れ落ちる城。不気味に光る、獅子の凶刃。
横たわる数多の兵士達の亡骸と、目の前で奪われた仲間達。
小さな身体で剣を振るえども、憎き敵には届かない。
これも全て、魔女という呪いがもたらした災禍。
絶対なる正義の鉄槌を前に、私は何も守れはしなかった。愛する母ですらも。
意思は砕かれ、肉体は朽ち、やがて、目の前が暗くなる。
――ロザリー……わたしの事、忘れないで。ずっと、大好きだよ。
小さな魔女が私に囁く。
絶望の淵に聞こえた、いつまでも消えない最期の言葉。
それは、いつかの魔女狩りの記憶。
夢から醒めてもなお、夜明けは未だ訪れない。
一筋の涙が、今日もまたこぼれ落ちた。
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「はあっ、はあっ……」
凍えるような寒さと、厚い唇から漏れる白い吐息。
一振りの長剣を携えた少女が、ぼろ切れを纏い闇夜を走る。
「……魔女狩りは今夜。そんな事、絶対にさせない」
暗闇の中に消える、凜とした声。彼女は長い黒髪を振り乱し、深い青の瞳でその先に広がる恐怖をにらみつけた。
「……っ」
その脚が大地を蹴る度に、彼女の太腿にまたがる大きな傷が一つ叫びを上げる。それは、どこかで今も虐げられる魔女の嘆き。無念に散った声なき声。
「待ってて、今、助けるから……」
“魔女狩り”。それはこの世界において当然のように蔓延る、悪魔に魂を捧げたとされる少女達 “魔女”を粛正する為の習わし。
この世に魔女が現れて以来、幾度となく繰り返されてきた悪しき風習ではあるが、そこに疑問を持つ者など存在しない。人類を支配する本能とも呼べる異端への拒絶。それが、現在の世を支配する唯一の教義なのだから。
「くっ!」
脚の傷が再び疼いた。今も幻痛のようにその身を焼く、かつての魔女狩りの記憶。
今まさに、そんな過去の自分が救いを求めているのだ。誰一人として、見捨てるわけにはいかない。それこそが今、彼女が生きている唯一の意味と言ってもいい。
「もう、あんな思いは……誰にも……」
その傷と共にいつか刻んだ確固たる想いが、地獄を足掻く彼女へと力を与える。
そう、私は魔女。世界の歪みとされる、それそのもの。
立ちはだかるは、決して抗うことのできない絶対正義の掟。
ならば私は反逆する。
暗澹たるこの悪夢を、ただ一人終わらせるために。
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ここは没落した王国、ローランド。魔女の国と世界からあだ名され、侵略という行為によって正教の裁きをもたらされた国。今では墓標のように立ち並ぶその街並みはかつての栄華とはほど遠く、まるで色彩を失ったかのようであった。
そんな静寂が支配する街の郊外。決して裕福とは言えない者達の住まう区画にて、ある親子が慎ましくも日々を暮らしていた。
「アニエス、今日はもう休みなさい。あまり根を詰めると、身体を壊すよ」
「ええ、もう少しで終わるから。ありがとう、お父さん」
小作農らしきくたびれた中年の男が、小さな明かりの中を机に向かう年頃の娘を気遣い声を掛ける。家計のため昼は農作業、夜はこうして勉学にいそしむ娘へと募るのは、父として何もしてやれない歯がゆさのみである。それは当然、無遠慮な言葉となって彼女へとぶつけられる。
「お前もそろそろ成人するんだ。無理して都会の大学など行かず、結婚して家庭を持つ事も考えてはどうかね。年頃の娘がいつまでもフラフラしていては、みんなから白い目で見られるだろう」
「そうだね。いい人、早く見つけないとね。でも私、モテないからさ」
「まったく……おまえは器量が良いのだから、男を振ってばかりいると変な噂も立ちかねないぞ。ただでさえここは魔女の国などと呼ばれているというのに、どこからか猫まで拾ってきて」
「ミミの事は今関係ないでしょ」
一辺倒の小言を繰り返す父と、それを軽くあしらう娘。どこにでもある家庭風景のようだが、どこかその関係はぎくしゃくしていた。本来ならば母の役割まで背負うそんな父の苦労。娘としては早く楽にしてあげたいと思うこそ、こうして勉学に励むのである。
「ところで、最近どうなんだ? あの子とは……」
「どうって?」
「言っただろう。あまりあの子と友人として以上の関係を作るなと」
「ううん、エリーとは何もないわ。心配しすぎよ」
「そうか……」
彼女は明らかに嘘をついている。この親子の不和の原因、それは、娘の抱えているある秘密にあった。この話題にさらに踏み込めば、明らかに不機嫌となりさらなる反発を生むだろう。それは、“教え”に背くという事。その先は想像するのも恐ろしい。
「お父さん……色々心配かけて、ごめんね」
「あ、ああ、別にいいんだ」
たまに見せる素直な一面。やはり何よりも愛しい娘だからこそ、漠然とした焦りは日ごとに募るのだ。
(私の稼ぎさえあれば、すぐにでもこの国を出られるものを……すまない、アニエス)
すると突然、乱暴に扉を叩く音が鳴り響いた。こんな夜更けに何事かと、男は慌てて飛び出す。
「まさか、またあの家の主人か? アニエス、奥にいなさい」
うんざりしながら男が扉を開くと、そこに現れたのは銀色に光り輝く鎧を着た十数名の兵士と、厳かな純白の祭服に身を包む聖職者の姿。神の名の下に正義の御旗を掲げる、正教徒達である。
「夜分遅くに失礼。農夫のベルモントとは、あなたですかな」
「え、ええ。聖職者ともあろうお方が、私共のような庶民の家に一体どのようなご用件で……」
男は中でも最も目を引く温和そうな初老の男性に向け、平身低頭に対応する。彼は助祭と呼ばれる中位の聖職者。この辺り一帯の礼典を取り仕切る、司祭に次ぐ存在とされる。
「ふふ、そう驚かなくともよい。単刀直入に言います。何でもこの家に、性愛における不純を働いた者がいるそうですね」
「そんな、めっそうもない! そ、そのような者、決して私は存じ上げません!」
慌てふためく男の反応に、兵士達の口元から不潔そうな歯が覗いた。あまりに突拍子もない宣告である。男は大切な我が一人娘を思い浮かべ、大きくかぶりを振った。
「密告があったのです。アニエス゠ベルモント。この家の娘が、魔女であるらしいと」
「……っ!」
聖職者は淡々と言い放った。それは地獄の始まり。この宣告を受け、これまでに逃れた者はいない。
おそらくあらゆる質問、責め苦、理不尽な証言によって、我が娘は瞬く間に魔女とされてしまうだろう。密告したのは最近揉め事のあった近隣の住人であろうか。というのも、娘が仲の良かった同性間の友人を誘惑した事が発覚し、両親が怒鳴り込んで来た事があったのだ。
「原因はお分かりですね。でしたらそこをお退きなさい」
「ああ……」
男は膝から崩れ落ちた。彼らが性愛の道を厳しく取り締まる事は有名である。確かに娘は幼い頃からそういった類いの傾向があった。もはや言い逃れをする事もできない。
「魔女は人類に仇なす存在。よって、我らがガーディアナが粛正します」
ガーディアナ教。それは、この世界においてただ一つの正しき教え。彼らが黒と言えば白でさえも黒となる。
「そんな……私が、魔女……」
その様子を心配そうに奥の部屋から見つめていた少女は、思わず後ずさった。しかしその拍子に、飼っていた猫の足を踏んでしまう。ギャッ、と声を上げる猫。
「ミミ、だめっ!」
「いたぞ! 捕らえろ!」
成人を迎える前の少女達。その中でもとりわけ美しい者達は魔女である可能性が高いとされる。哀れ、この家の少女も十六、七の、比較的美しい姿をしていた。癖のあるブラウンの髪と、気の強そうな同色の瞳。農作業に明け暮れる、いとけなさを残しつつ成熟した体。男達は目配せをし、意味深に頷いた。
「来ないで、来ないでぇ!」
取り押さえようとする兵士達に、非力ながら抵抗する少女。
魔女は基本的に同性愛を好むと言われている。さらに自由の象徴である猫を飼い、聖職者に反抗的な態度を示す彼女はほぼ間違いなく魔女とされた。そこからさらに証拠を挙げるべく、その身体に刻まれた魔女の印を探られる。
「暴れるんじゃない、すぐ終わるからよ」
「いやあぁぁ!」
魔女の乳首。これは魔女が持つという特有の痣の事であるが、彼女の身体にそれらしいものは見当たらない。だが末端の兵達にとってそれはどうでもよかった。彼らはただ、それを理由に欲望を満たしているだけなのだ。
「アニエスっ!」
「おとなしくしていなさい。娘の罪は、あなたの罪でもあるのですよ」
「うう……」
そんな暴虐に、父親である男はただ怯える事しか出来ずにいた。彼らに渡せるような高額の賄賂もなく、ここで刃向かえば有無を言わさず魔女である証拠となるだろう。もちろんその先待っているものは、生きながらの火刑である。
「貴様にも本物の愛というものを教えてやる。光栄に思うがいい」
「ひっ……」
兵士達は競うように鎧を脱ぎ、隆々とした肉体を見せつけた。
聖交。理由はどうあれ、それそのものは子を宿すための神聖なる行為である。だが、その熱した鉄のような何かは、少女の網膜に否が応にも恐怖を焼き付けた。
「いや。いや……お父さん、たすけて」
「アニエス、すまない、すまない……!」
娘の縋るような声に、父は目と耳を塞ぐ。さらに人を救うはずの聖職者もそれを見て見ぬ振りをし、兵士達の勝手を許した。このような行為は本来、刑罰こそあれ、保身の為に黙認する者達によりすでに常態化して久しい。ここローランドにおいて、異端に対し人の道を示すための行いは罪にすら問われないのである。
「――――っ!」
少女の悲痛な声が響き渡る。男達にとっては一瞬の事かもしれないが、彼女にとっては永遠とも思える長い夜の始まりであった。
「う、うう」
「さあ歩け。まだ傷が痛むだろうがな……クク」
背後から兵士達の嘲りが聞こえる。彼女のように教義に反した者達は、こうして魔女としての烙印を押され、見せしめとしてみすぼらしい恰好にて街を歩かされた。
「たすけて……誰か、たすけて……」
集められた人々は、それに対し容赦なく石を投げる。自分達にまで疑いが掛けられる事を恐れ、改めてガーディアナへの忠誠を示すのだ。
「この魔女めが! 人に化け、俺の娘ををたぶらかしやがって!」
「そうよ! 神に懺悔し、その罪を償うのよ!」
彼女はうつろな表情で、かつて共に過ごした人々から罵声や暴力を受ける。
そこに、救いなどない。なぜなら自分もまた、かつて同じ事を他者にしたのだから。
全ては巡り巡る魔女の咎。募るのは、魔女という存在への憎しみだけ。
「うああっ……!」
そんな中、密かに思いを寄せていた少女の投げた小石が、彼女の頬を掠めた。
鬼気迫る両親に促され、葛藤の果て、少女は生きるという道を選択したのだろう。
「エリー……」
思い返すのは、彼女とのささやかな蜜月。冗談でかわした、愛してるという言葉。
けれど、それでいい。どうせ自分はもう助かりはしないのだから。濡れ衣の魔女は小さく微笑んだ。
列はやがて、街を横断する河にかかる石橋へと辿り着く。ここは彼女達にとって地獄へと通じる、アケローンの河。
「さあ、この上へ立ちなさい。これより、魔女への最後の神判を下しましょう!」
ひんやりと冷たい橋の欄干に裸足で立たされる少女。大勢の人々の前で、彼女は最後に試される。ここにそのまま沈めば人である証拠として無罪。もし浮かび上がれば、異能を使う魔女として有罪であると聖職者は語った。
「ですが恐れる事はありません。魔女である事が確かであっても、彼女には我らが聖女、セント・ガーディアナ様による浄化の裁きが下されます。さすれば二度とこの地に災いは降りかからぬことでしょう」
「おお、さすがは聖女様だ!」
「セント・ガーディアナに栄光あれ!」
聖女。それは人々にとってこの世界唯一の希望。であると同時に、魔女にとっては最も恐ろしい存在であった。なんでも彼女の裁きは犯した罪の深さに応じて、身を焼くほどの痛みが襲うという話だ。もちろん一人としてその神罰から逃れた者はいない。少女は自らの犯した罪に怯え、改めて恐怖した。
「さあ神よ! この娘が魔女か人か、真実の姿をここに示したまえ!」
聖職者は両手を振り上げ、仰々しく天を仰いだ。
「そんじゃ、俺達のためにここで死んでくれ。割と良かったぜ、濡れ衣の魔女さんよ」
「きゃあっ!」
兵士はそれだけを耳元で告げ、彼女を橋の上から突き落とした。この儀式は、あの行為に対する口封じの意味もあるのだろう。
「たすけっ、たすっ!」
河へ落ちた少女は冬場の水温の冷たさも相まって、すぐにパニック状態に陥った。だが手を伸ばしても伸ばしても、誰も助けてくれる者はいない。最愛の、友人でさえも。
「ぐぶぶ、ごぼっ……」
やがて体力も精魂も尽き、身体が思うように動かなくなる。そうまでして生きようとする意味が、だんだんと分からなくなったのだ。それほどに彼女の尊厳は、あの時に破壊しつくされてしまったのだろう。
(もう、どうでもいい……。もう、こんな世界、嫌だ……)
彼女達の多くは、そこで自ら沈みゆく事を選択する。私は決して魔女などではないと。せめてその思いだけで、窒息という苦しみに耐えるのだ。
あぶくだけが浮き上がり、彼女の姿は水面に消えた。少しすると、先程の喧噪が嘘のような静寂に包まれる。そこで初めて、人々は魔女などいなかったのだと嘆き悲しむ。そんな事は百も承知である彼女の父親は、今にも狂わんばかりに泣き叫んだ。
「ああっ、アニエスっ、アニエスっ……!!」
「おお、なんという結末。神よ! これも全ては憎き魔女の祟り。純潔なこの少女が悪魔の呪いから解放され、永遠の眠りをもちて赦されん事を!」
聖職者の叫びに祈りを捧げる群衆。しかしその中に混じり、ただ一人冷ややかに事を眺める少女がいた。
「ガーディアナ……」
その少女はただ歯を食いしばる。あろう事か、全ては魔女の仕業らしい。この一連の行程、全てが彼らの娯楽として生まれた物であるにもかかわらず。
((まだ若いのに気の毒に))
((次は私の番かも……どうしよう))
((可哀想だが、自分には関係のない事だ))
((愚かな。教えに逆らうからこうなるのだ))
死を見つめる人々に渦巻く様々な感情。しかし、少女は決して見逃しはしなかった。それらの心に混じりひとかけら、歓喜の感情がある事を。だがそれも仕方のない事。他人に刃が向いている間は、彼らの安全も約束されているのだから。
「ふっ……まるで地獄ね」
少女の笑い声が漏れる。それはしめやかな場に似つかわしくない、どこまでも乾いた笑いであった。
「今笑ったのは何者です! 我らガーディアナの神聖な儀式を愚弄する気か、出て参れ!」
聖職者の怒声にどよめきが起きる。人々は自分ではないと、その声の主から避けるように距離を置いた。
そこにいたのは、ボロ切れを纏う、長剣を携えた長い髪の少女が一人。その姿は魔女狩りに遭った魔女を連想させる、どこかみすぼらしいものであった。
「神聖、ね。ふふ、ふふふっ……あはははっ」
少女は彼らをあざけ笑うようにそのまま河へと飛び込んだかと思うと、ボロ切れだけを残し、先程の魔女と同じように暗い水面へと消えていった。
「くそっ、探せ探せえ!」
松明の明かりでかろうじて見えるのは、ゆらゆらと黒髪を漂わせながら川の底を蠢く影と、ぶくぶくと、不気味に昇る水泡だけ。
「魔女だ。水底の魔女が、笑っている……」
誰かが言った。供物を捧げられ、本物の魔女が喜びの声を上げたのだと。
いくつもの命を飲み込んだこの川には、いつからか魔女が住むようになったという噂もあながち間違いではない。若くして散った、悲しみのオフィーリア達。ここに居ると、まるでそんな彼女達の嘆きの声が聞こえてくるようである。
「ええい、何をのたまうか! 我らには聖女様の加護が……」
「く、来るぞ、魔女が来る……!」
その影はやがて、つもりに積もった復讐の念を背負い、世界へと這い出した。ただれた傷口から、鮮血が吹き出すかのごとく。
「もう大丈夫よ……辛かったわね」
感情を押し殺した声と共に、川岸から二人の少女が現れた。一人は先程沈んでいった罪無き少女。そしてもう一人は、人々の恐れを背負う、水底の魔女。
「き、貴様、もしや……」
「……そう、あなた達の望む魔女は、ここにいる」
彼女は正教徒に向け鋭い眼光を飛ばすと共に、その手に握る長剣を闇夜に掲げた。
「正教ガーディアナ……。たとえ神が許そうと、私は許さない! 地獄へは、お前達も一人残らず道連れにしてやる!!」
剣を振り抜き、煮えたぎるような怒声を放つ少女。その顔立ちは、長い黒髪から滴る水に濡れこの世のものとは思えない美しさであった。
「なんと……」
聖職者は絶句する。彼は自身に弓引いた言葉よりも、その瞬間彼女そのものに魅入られていた。
中でも皆の目を引いたのは、レオタードのようなアンダーウェアに包まれた肢体である。遠くからでも分かる豊満な乳房と、露出した肉感のいい太腿についた大きな傷跡が、松明に照らされ闇夜の中でも主張する。それは真なる魔女の印であるかのようにグロテスクでエロティック。そう、彼女は魔女特有の、見る者を一目で惑わす蠱惑的な姿をしていた。
「「魔女だ……、魔女だあっ!」」
やがて我に返ったのか、次々に人々の叫び声が上がった。と同時に、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う群衆の中を、鈍色の鎧をまとった男達が現れる。その肩当てには皆、十字架を逆さにしたような紋章が刻まれていた。
「待たせたなロザリー、こちらは任せろ!」
そう黒髪の少女を呼ぶ、鈍色の軍勢のリーダーらしき大男。彼らはじっとこの時を待っていたのだ。少女を人質にされぬよう、息を潜め、やがて来る反撃の刻を。
そんな怒気と共に歩み寄る謎の集団に気圧され、群衆達は少女の父親を残してほとんどがその場から消えた。
「敵は悪逆、ガーディアナのみ! 皆の者、掛かれぇ!」
彼らのリーダーである白髪老齢の大男が叫ぶと、男達は一斉に正教徒達へと斬りかかった。
「くっ、奴らが噂の反逆者共か! かかれ、かかれえっ! ここで奴らの首を差し出せば、司祭様もさぞお喜びになろう!」
聖職者は一瞬怯んだものの負けじと号令をかけ、橋の上では激しい戦闘が始まる。
ここ魔女の国ローランドにおいて、魔女狩りをことごとく阻止する組織があるという事は聖職者の間では有名だ。しかしその手口は極めて鮮やかで、未だ検挙出来ずにいる。こうした魔女狩り狩りの存在は、驕りの中にある教会にとって唯一の汚点であった。
「しかし反逆者共め、まさか本物の魔女とまで手を組んでいたとは……。いや、この練度、それだけではない。奴らまさか、ローランド騎士団の亡霊か……!」
聖職者の顔からはそれまでの余裕が消え、焦りすら滲んでいた。それもそのはず、男達は死と隣り合わせの覚悟と共に、抜き身を相手の急所めがけ容赦なく振り抜いていく。その勢いに面を食らったガーディアナの兵士達は、次第に為す術もなく倒れていった。
「ま、待て、誤解だ! 俺たちは何もしちゃいない! あの女は自分から……」
「問答無用ォ!」
「ごぶっ」
老齢の大男のさらに頭上から繰り出される巨大な鉄塊。彼は命乞いをする敵兵の兜ごと、その頭部を叩き割った。
「さすがね、ギュスター。私も急がないと……」
魔女、いや、ロザリーと呼ばれた少女は、その隙にぐったりとしている救出した少女の蘇生を試みる。
「ふっ、ふっ……お願い、諦めないで!」
ロザリーの熱い手が、すでに冷たくなっていた少女の柔らかな胸に確かな鼓動を伝える。すると次第にその心臓は、生きたいという願望を叶えるかのようにとくん、とくんと小さく動き出す。
「そう、生きて……生きるの」
次にロザリーは大きく息を吸い込むと、少し厚めの唇から少女へと生命の息吹を与えた。
「んっ……」
背徳的な瞬間。こうして魔女を救う度、その唇は柔らかく甘美な世界を知る。そして何度かの行為の後、ロザリーの懸命な願いは少女へと通じた。
「がはっ、ごほっ……!」
「はあ、はあ……良かった……」
ロザリーは少女の顔を横に向け、大量の水を吐き出させた。これでひとまず命は救う事ができたようだ。後は、傲れる者達への断罪のみ。ロザリーは正教徒達へと再び憎しみの目を向けた。
「ガーディアナ……」
橋の上では、戦いもほぼ終わりを迎えていた。だが最後の一人、その場を取り仕切る聖職者と思わしき男は、逃げ場のない橋の上で自ら飛び降りるという算段をとった。
「ひ、ひいい!」
派手な祭服をまとったまま大きな音を立て勢いよく河に飛び込んだ聖職者は、バシャバシャと沈まないように手足を大きく動かし、滑稽な姿を見せながら浮かび上がる。どうやらそのまま遠くへと泳ぎ切るつもりらしい。
「くっ、逃がしたか!」
橋の上からその様子を伺っていた老兵は、ロザリーの方を一瞥する。すると、やはり彼女は水面を足掻く聖職者の元へと向かっていた。
「沈まないのね……あなたは」
「な、何だ貴様! ええい、穢らわしい魔女め、近寄るなっ!」
ロザリーの長い黒髪は濡れ、顔にぴったりと張り付いている。その隙間から覗く瞳は、底のない憎悪に塗れていた。まさに、まごう事なき魔女である。
「私達は、魔女解放を掲げるレジスタンス、“逆十字”。あなたも聞いた事くらいは、あるわよね」
「か、神の十字を転覆させし、罰当たりな賊が……! 貴様等には、いつか聖女様による裁きが下されるであろう!」
「……そう、それは楽しみだわ」
ただ、溜息交じりに放たれる言葉。男は冬時の水の冷たさよりも、ロザリーの凍えるような視線に震えた。
「私は、全ての魔女をこの地獄から救ってみせる……。たとえ、聖女が相手だとしてもそれは変わらない」
「何という事を! 聖女様、この無法者に罰をっ……」
「罰を受けるのは、あなたよ!」
ロザリーは男に向け、剣を振り下ろした。しかし水中で思うように力が入らず、その刃は彼の肩口を切り裂くに終わる。
「ぎゃあああ!」
「うっ」
絶叫が響く。ロザリーは返り血に思わず目を背けた。このまま上手く喉元を突けば苦しまずにあの世へ送る事もできるだろう。しかし、動揺してか狙いがうまく定まらない。
((おのれぇっ……! この世をかき乱す魔女……反逆の魔女めぇっ!!))
まただ。裁きには不必要な感情が頭に流れ込む。怨嗟にも似た、自身へ向けた攻撃的な激情。
((神よ、どうかお救いください! 正義は我らにあり! 正義は我らにありぃぃっ!!))
「わ、私は……」
これは、ためらい……? そんなはずはない。相手は何よりも憎き敵。これは、自らが望んだ行いのはず……。
「あがっ」
その時、細身の剣が聖職者の頭上めがけて突き立てられた。男は瞬く間に物言わぬ骸へと変わる。あれほど渦巻いていた感情も消え、それにただ呆然とするロザリー。
「悪いですが、剣の回収をお願いします。ロザリー」
橋の上を見ると、穏やかな顔をした金髪の青年がこちらを覗き込んでいた。返り血に濡れているにも関わらず、彼はまるで何事もなかったかのように涼しい顔をしている。
「え、ええ。ごめんなさい……キル」
キルと呼ばれた青年は、水着姿であるロザリーをあまり見ないように手を振った。おそらく、とどめを刺せないと踏んでの行為であろう。そんな仲間の判断に、ロザリーはどこか情けない感情を覚えた。
(また、やってしまった……)
岸へと上がったロザリーは、青ざめた少女を介抱する。幸い彼女は意識を取り戻し、不安げにこちらを見つめていた。
「……ここ、は……?」
「地獄……。かもしれないわね。あなたにとっては」
「生きてるの? 私……」
「ええ、そうよ。私達はレジスタンス。教会の敵であり、あなた達、魔女の味方」
ロザリーは微笑みながら、彼女の頬を撫でた。
「助けてくれたの? どうして……」
「ふふっ、理由なんて必要?」
しばらくそのまま二人は見つめ合う。真っ青な顔に隠れてはいるが、彼女の瞳は潤み、その唇は先程の温もりを噛みしめていた。
「…………」
少女は溶けるような表情でロザリーを見つめた。彼女にとって、それは絶望から自分を救い出してくれた騎士そのもの。同性を恋愛対象とする彼女にとって、ロザリーはまさに年頃の少女の描く理想像であったのだ。
「じっと、してて」
「え……?」
少女を襲う、くらくらするような欲求。二人の顔は接近し、無意識かその唇同士は互いの熱を求め合うかのように少しだけ開く。
(きれい。ううん……綺麗、すぎる。まるで……)
しかし、その唇は触れあう直前で止まった。そして突然ある事に気付き、次第に少女の表情は変化していく。
「あなた、もしかして、魔女なの?」
黙って頷くロザリー。その告白が何を招くのか、彼女は痛いほどに理解している。
((魔女、魔女、魔女……))
まず芽生えたのは畏怖。ありありと分かる冷たい感情。ロザリーには他者の感情に対し鋭い感受性があった。根拠も確証もないが、なぜだかはっきりと分かるのだ。もしこれが自分の魔女としての異能であったならば、あまりにも心許ない力である。
「大丈夫よ。私は……」
そっとブラウンの髪に触れる、暖かな手。しかし少女の冷たい瞳は、否応なしにロザリーの心を刺した。
「いや。触らないで……」
少女にとって救いであるはずの、ぬくもりを与えるはずのその手は、容赦なく払いのけられる。
「嫌……いやっ! 私は違う。私は魔女なんかじゃないっ! 何で助けたの!? 生きて帰ったら魔女にされる……! 本当は死にたかったの! 魔女として生きるくらいなら死にたいのっ!」
そう錯乱する少女に、ロザリーはただ、うつむいて返事をする。
「そうね……だから、一緒に行きましょう、地獄ではない所へ。私達が保護するわ」
「こんな世界、もう戻りたくない……。消えて……消えてよ……。そもそもあなた達がいるから、魔女なんかがいるから、こんな事になったのよ! 全てはあなた達のせいよっ!!」
「ごめん、なさい……」
まるで聞こえていないと言ったように、彼女はただ、ロザリーを激しく拒絶した。それほど魔女というものは真に忌み嫌われているのだと、行き場のない思いにロザリーはただ苛まれる。
「二人とも、風邪を引きますよ」
「あ……」
橋の下へと降りてきた仲間達によって、二人に暖かい布が掛けられた。そんなちょっとした優しいぬくもりにすら、今は涙が出てくる。ロザリーは一人立ち上がり、溢れるものを隠すようにその場を離れた。
「ロザリー?」
「キル、その子をお願い……。私は、先に帰るわ」
そう、私は魔女……。こんな世界を生き延び、何も変えられず、冷たい水底であがくだけの……。
************
あの凄惨な魔女狩りから、数日が過ぎた。
派手に暴れた結果か、反逆の魔女への恐怖からか、教会による新たな魔女狩りの情報もここしばらく鳴りを潜め、ロザリーは仲間達とつかの間の平和を過ごしていた。
そんな、戦いに疲れた心を癒やす穏やかなひととき。レジスタンス組織、逆十字の本拠地にて、今回の報告書を眺めながらロザリーはつぶやく。
「濡れ衣の、魔女……か」
気になるのは少女のその後だが、結局あの少女はやはり魔女ではなかった。今後は父親と二人、追っ手のかからない遠く辺境の地へと移住する事となったらしい。派遣から帰還した伝令兵がもたらした情報である。
「ロザリーよ。あの娘の言った事、まだ気にしておるのか?」
「……いいえ。魔女でないなら、それが何よりよ」
どこか自虐的な物言いをするロザリーを、逆十字団長、ギュスターが気遣う。前回、兵を指揮していた老齢の大男である。
「魔女であろうとなかろうと、同じ人だ。少なくともワシらはそう思っておる。いや、こんな事を口にするのも野暮というものか」
「大丈夫、ありがとう。もう慣れっこよ。私は、私だもの」
魔女として忌み嫌われてなお、彼女はこう強がるのだ。それが、彼女の確固とした誇り。かつての魔女狩りを生き延び、残酷な世界を知るがゆえの言葉である。
――あなた、もしかして、魔女なの……?
ロザリーは未だ心に残るあの少女のまなざしを振り払い、仲間達に笑いかけた。
「さてと。作戦の成功を祝って、今夜は何か美味しいものを作るわ。みんな、何がいいかしら? さあ、好きなものを言って!」
「やったあ! 今日は隊長お得意のハンバーグがいいです!」
「でしたら、オムライスも! ケチャップで名前とハートマークなんか付けて!」
「ええ、分かったわ。まかせて!」
皆、ロザリーの明るい言葉に一様に喜んだ。彼女の手料理、それは母の味である。剣などより包丁を握る方が向いているなどと、そこにいる誰しもが思うほどに。
「ふんふんふーん」
ロザリーは陽気な鼻歌と共に、下ごしらえを始めた。
冷たい世間の風も何処吹く風。自分は、自分の信じた道を進むのみ。そんな決意に満ちた彼女の顔に、皆は魔女というものの持つ強さを知る。
彼女は後に、この暗黒の時代に夜明けの光を灯す事となるだろう。
姫百合の騎士――。それは後の世にて、常に美しく誇りに満ちたその姿になぞらえ、彼女に付けられた称号である。
―次回予告―
物語は、人知れず始まる。
悲しみは、人知れず終わらせる。
それが魔女である彼女の、ただ一つの願い。
第2話「決意」