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飛び込む人魚は夏の青

「ねぇ、土屋くん」
「ん?」
「あたしね、人魚なんだ」
辺りはひどく静かだった。
 夏休みの教室には、ひっくり返されて机の上にのっけられた椅子の森と、俺と、彼女しかいない。静かと言ったって、てんで無音というわけではないのだけれども。風がカーテンを内側に膨らませれば運動部の掛け声がなだれ込んでくる。廊下の向こうからは吹奏楽部の演奏だって聴こえてくる。けれど、視界の中に姿を見つけられない誰かの出す音は、ひとつずれた次元から届いているような感覚がした。そういう意味で、この場の静寂を破れるのは俺か彼女だけだった。そしてちょうどいま、彼女がその静寂をぽしゃんと破った。
「なに?暑さで頭沸いてんの」
 右手に持っていたシャーペンを置いて、頬杖をつく。向かいの席に座る彼女も、いつの間にか書類作成の手を止めている。
「仕事サボんなよ電波ちゃん」
 端的に言うなら、人工甘味料のようなおんなのこ。肩くらいまで伸びた髪をきれいに切り揃えていて、前髪も同じように眉上のぱっつん。制服の下にはいつもパステルカラーのキャミソールを着ている。四つくらいボタンを外した胸元からいつもその色が覗いていた。ぷ、とまるく膨らませた風船ガムの合間の彼女の言葉はいつもどこかにゃちにゃちしている。ヘルシー志向の一般女子高生から厭われる、カラフルなお菓子のようなクラスメイト。委員会が一緒になるまでは、会話を交わすこともなかった。
「今日の空は青いでしょ。土屋くん、さっきから窓の外を見てたでしょ」
彼女は薄ピンクのぷっくりした唇をゆがめた。窓を全部開け放っているのに、蒸した空気はじめっと重い。教室の中はなんとなくうす暗く思われた。
「外なら見てたよ。こんな天気のいい日になんだってわざわざがっこ来てんのかなって」
シャーペンを指先で回しながら軽く答える。じぃじぃと、電線がたわんでいるのやらセミが鳴いているのやら、どちらともつかない音がする。
「気を付けないとねぇ、だめだよ。空が青い日は人魚の歌が空から降るの、飛び込んだら気持ちが良いよって、誘ってんの」
 彼女の声は甘ったるく、鼓膜にざらりと砂糖が残る。ふぅっとあからさまに溜息をついて、視線を合わせた。黒目の面積の大きい彼女の瞳は猫じみて、やっぱりどこか人工物のようだ。
「人魚ってのは海にいるもんじゃないんですか」
 ふざけた調子で言ってやる。彼女は不機嫌な顔をすると思ったのに、むしろいっそう笑みを濃くして視線を返してきた
「人魚は空を泳ぐんだよ」
「そんな人魚見たことない」
「きみは、人魚が海を泳いでるのを実際にその目で見たことがあるのかな」
「ないけど」
「ほうらね」
彼女は組んだ手に顎を載せて、得意げに笑う。小さな爪に光の筋が走っていた。
「だけど、御伽噺の人魚はみんな海にいるだろ」
「御伽噺じゃなくて、あたし現実の話をしてるんだよ」
「都合良くない?」
「現実が全部御伽噺のセオリーに沿ってるほうが、都合良くない?」
面倒くさい電波女、と肩を竦めようとしたところで、彼女の言葉が先に来た。
「現実はセオリー通りじゃないんだよ。そうでしょ、だってそうならさ」
 ひっくり返った椅子の脚、そこにへばりついた埃のにおいがする教室だった。
「土屋くんは青い空に飛び込みたくなるようなにんげんじゃないはずだもんね」

グラウンドを渡ってくる蒸した風が、突き出した爪先を持ち上げようとしていた。

昔から妙な歩き方をするせいで、靴の先端、さらに内側ばかりが擦れる。すると靴底がほんの少し剥がれているのが常だった。風はその隙間からむわっと侵入してきた。昇ってくるそれに顔を押し上げられる。途端視界を埋め尽くす空。チューブから絞り出して叩きつけたような原色の青には雲ひとつ浮いていない。埃のにおいの代わりに、熱とじんわりした若葉のにおいがしていた。
「あーあ。ほら、セオリー通りに行かないんだ」
向かいに座っていたはずの彼女は消えて、目の前にはただ青いばかりの空が広がっていた。身じろぎすると、かしゃんと背中で音がなる。そのさらに向こうから、彼女が言った。
「教壇の前に集まって、おんなじようなおとこのこと騒がしくて。セオリー通りなら、土屋くんみたいなおとこのこはそんなとこに立たないよ」
 首だけ捻って振り向けば、金網越しに彼女が見えた。屋上の錆びた入り口扉に寄りかかって、こちらをみている。庇の下で、表情はよく見えなかった。
「…は?なにこれ」
 ようやく自分の唇から洩れた声は随分弱く、間が抜けていた。金網は澄んだ頭上と違って重く濁った金属の色をしている。俺の指はいまそこにかかっていて、折り曲げた節に沿うように金網が食い込む感覚がした。
「お話のなかなら、そんなとこ立っちゃうのは黒いもさ髪の瓶底眼鏡君とかだよね」
彼女が入り口扉から背中を離して、タン、タンと軽やかにこちらに近づいてきた。腰で折り込まれた短いスカートがそのたび揺れる。
「あのね土屋くん。人魚のあたしが教えてあげよう」
 ぱちくりと彼女は瞳を瞬いてから、秘密話でもするかのように声を潜めた。くるんと上向きの睫毛のせいで、瞬きはずいぶん大仰な動作に見えた。
「きみはにんげんだから、あの青には飛び込めやしないよ。落っこって、死ぬだけだよ」
 頭の芯がじんじんと痺れるようだった。金網の外側のほんの狭いコンクリートからはみ出した爪先は、相変わらず風に煽られる。自分の鼓動の音が耳の奥で響いて、そのたび彼女が鼓膜に残した砂糖をとろかしていくようだった。
「死ぬって、物騒だな。意味が分かんないんだけど。俺、そんなキャラじゃないんだけど」
溶けた砂糖は飴になって、耳の中に流れ込んで固まっていく。そのせいで自分の震えた言葉はくぐもって聞こえる。

「ありがとーございましたぁ」

コンビニから出る俺を追う、店員のだらしない礼。それも水の中から聞こえてくるみたいに曖昧に聞こえた。自動ドアが閉まる瞬間に電子音のチャイムが鳴って、うしろから漏れ出ていた冷気がぷっつんと切れる。途端、もんわりと湿った空気が絡みついてきた。金網も、彼女もいなくなっていた。代わりに足元には熱されたコンクリートが広がっていて、靴底を焼く。立ち上る陽炎が眼前の道で揺れていた。
「なんなんだよ」
掻き分けるように暑さのなかを歩きだす。そのとき右手でがさりと音がして、白いビニール袋がそこに在ることに気が付いた。持ち上げて中身を取り出せば、汗を掻きだしたばかりのペットボトル。開けたキャップをそのまま投げ捨て、一気に中身をあおった。スポーツ飲料の爽やかな甘さが喉を滑る。顎に伝った汗だかスポーツ飲料だかの雫を拭ったところで、前からやってくるその男に気が付いた。
「あれ?土屋じゃん」
 あ、と思ったときには手遅れで、彼はもう手をあげていた。すかさず空のボトルでそれにこたえる。
「あー、久々」
 彼女の言葉を借りれば、教壇の前で集まって一緒に騒ぐ、そのなかのひとり。夏休みに入ってから連絡すらとっていなかった。学校の休み時間、教室での馬鹿話、それらは長休みに持ち越せるほどの持久力を持っちゃいない。
「あれ?なんでお前制服着てんの」
 彼の語尾にはカッコつきの笑いがみえる。黒いタンクトップから覗く腕は二の腕まで万遍なく日焼けていた。耳元には何時の間に開けたのかまるいピアスが引っかかっている。
「あー、委員会のしごとで」
彼女は今この空間でも、どこか近くにいるのだろうか。往々にして、この男含むクラスメイトは、彼女のような同級生から集団における重力を奪い、浮遊させる能力を持っている。ついでに、彼らのその能力のターゲットは移ろいやすい。人魚なんだよなんて、名乗った彼女が。そんな名乗りを、聞いた自分が。知られてしまわないようにと思った。
「はぁ?委員会って、夏休みなのに?」
 けれども、それならもっと巧く隠せばよかった。途端嘲るような調子がにじんだ彼の表情に、ひゅっと五臓六腑が落ちる。
「いやっ、俺だってじゃんけんで負けたんじゃん。覚えてない?」
表情をできるだけ緩めてすかさず両手を振った。彼は鼻から息を吐く。
「三森きいこと一緒になったって言ってたやつだろ。よくやれるよなそんなん」
臓物のなくなった空洞に、塊入りの氷水を流し込まれたような感覚がする。彼の茶けた髪の根元の黒がやたらと目についた。
「あとから、文句言われんのダルいからだよ」
彼の髪にはべたべたとワックスが塗りたくられていて、それはぎちぎち太陽光を反射した。目に、痛い。きっと俺も、自分の髪にも眼球にもワックスを塗っておくべきだった。
「俺なら絶対やんねえよ」
「俺だって」
声が上ずった。舌がもつれる。やっぱりきっと潤滑油としてワックスが、必要なのだ。
「はいはい、まぁ頑張れよ、優等生」
重力がなくなる!彼の言うことになにか返そうとしたところで、言葉が出ない。唇に詰まったのかもしれないと、噛んでみる。言葉の代わりに、舌の上にはじんわり鉄の味が染みた。

 指が伸びてきた。

 戻ってきた金網の隙間から、彼女が手を突っ込んでいた。蛍光にさえ見える真っ白いその指の腹で、前髪の毛先を擦り合わせる。
「土屋くんの金髪は綺麗だね。根元の色、全然見えないよ」
彼女の手がさらりさらりと髪の中を滑る。そうして耳まで下りて来たかと思うと、唐突に耳たぶをつままれた。
「ピアスは、開けてないんだね」
「今度開ける」
 自分でも思ったよりすぐに、答えが口から飛び出した。彼女の手は季節に似合わずひんやりとしている。そういえばいつだか、しっかり冷やしてからなら安全ピンでもピアス穴を開けられるだとかきいたような。
「土屋くん。髪から色を抜いたって、思考は頭から抜けていかないよ」
 彼女は俺の耳たぶから指を離した。
「耳に穴を開けたって、声は出ていかないんだよ」
彼女はあんまり近くにいて、ワイシャツにキャミソールの輪郭が透けてみえた。その下がさらに透けて見えたなら、鱗の痕でもあるんじゃなかろっか。脳味噌の内側に、電波ちゃん思考が湧いた。
「あのさ」
抜けていかないらしいので、仕方がないかと思われた。
「あんた人魚なんだろ」
ちゃくちゃくと彼女がガムを咀嚼する音がする。甘い香りが淡く鼻腔をくすぐった。 彼女の唇の隙間からぷうっと風船が膨らんで割れる。ソーダの薄い膜が唇に被る。彼女はそれを舐めとって、口内に戻した。それから、ひっそりと答える。
「そうだね、あたしは人魚だよ」
冷えた手が、今度は頬に触れた。俯いた視線の所在に困って、彼女の襟口から覗く鎖骨をなぞった。
「人魚だってゆうんなら」
りんと風鈴のような音が遠くで鳴った。
「俺のこと連れてってみてよ」
彼女の手が輪郭をなぞって、俺の顎を押し上げた。大きな瞳が目の前にある。
「連れてかないよ、土屋くんはにんげんだから死んじゃうよって言ったでしょ」
彼女の細い眉が垂れた。
「ねえ、本当は君がそうしてしまいたいのも知ってるけど」
汗ひとつにじんでいないのに、その手のひらは頬に吸いつい付くようだった。
「そうしたくて出来ないのも知ってるけど」
ちゃくちゃくの合間の、にゃちにゃちの言葉。鼓膜にざらりと砂糖が残る、しつこい甘い声。
「あたしは君を連れてかない」
それらが突然質量を持って意味を伝えた。フェンスの外側に足はまだ在るのに、その質量でもって突き飛ばされたみたいだった。
「…そっちが呼んだくせに」
ひく、と頬の肉が引き攣った。その感覚が唇をあげて笑ったことによるものだと、自分でも気が付かなかった。視界の隅を前髪が陽に透けてちらつく。
「あたしは人魚だけど。今脚でここに立ってるよ。空に誘う人魚はあたしじゃない」
金網越しの彼女の瞳が光に揺れる。
「あたしは土屋くんのこと見てたよ。ずっと」
 彼女の指が、再び俺の髪を撫でた。すると、その指の触れたところはもう陽に透けない。真新しいきんいろのコーティングが剥がれて、雨に腐ったような黒髪が戻ってきていた。は、とした。丸みを帯びた視界が、歪曲して矯正される。
「黒いもさ髪の瓶底眼鏡だった土屋くん」
 彼女の手が離れる。指先にほんのり灯したように赤みがさして見えるのは、単に血の流れのせいなのか、たったいま俺から奪っていった色がついたのかわからない。
「あたし知ってるんだよ」
気が付いたら、金網は消えていた。気が付いたら、彼女の添加物たっぷりの笑顔を見下ろしている。その細い首は俺の手の中で軋んでいた。両手で絞めるには細すぎて、うなじで指先が組めてしまう。
「この、社会不適合者」
 吐いた言葉はたちまち屋上のタイルに落ちてはじけて、シミをつくるようだった。
「いいよね。それで、生きてきたんだろ。生きてこれたんだろ」
ヒビの入った自分の声は崩れそうに震えた。彼女の唇から一瞬風船が細く膨らみかけて、すぐに萎む。失敗した縦笛みたいな、弱い呼吸の音がする。
「怖がりだね」
 それでも彼女はそう言った。指に力をこめると、彼女の喉の管を塞ぐ感覚が確かに手のひらに伝う。彼女の指先は青白く透き通る。結局、血の流れのせいなのか、俺が色を奪い返したのか、わからない。
「社会不適合者が、社会不適合者のくせに。なんでそのまま生きてんの?」
彼女の脇腹にあてがって地面についていた膝を、ず、と擦る。連動して彼女の身体も動く。彼女の細い黒髪が数本散るように切れた。
「なんで生きてんのって、ゆうくせに」
 ひゅうひゅうと。薄桃色の唇から掻き消えそうな疑問符が漏れる。
「なんで君は死ねないの?」

首に当てていた手を、引きずった身体を、屋上の縁から追い出した。

「あーあ」
 彼女が落ちる。
「あたし、君にキスしてほしかっただけなのにな」
遠のいていく彼女がそう言った。いつの間にか金網は戻ってきていて、俺はそこに額を押し当てて下を見た。
 ひどくのろのろと、視界のなかでその一瞬が起きた。
 押し出された彼女の身体。踵の揃った足と足の隙間から見えたグラウンドが、青色に遮られた。つややかな、青色だった。濡れたように。いや、確かに濡れて、てらてらと光る青色の膜は、はじめふくらはぎの輪郭に沿ってその内側に張られた。それからすぐに、まるで彼女がぷ、とガムを膨らせたときに似て、膜は拡張して彼女の足を包み込む。短いスカートから伸びていた細い脚はもうその形を忘れて、代わりに泳ぐ魚の半身を取り戻していた。濡れた青には菱形の鱗がきれいに並んでいる。制服のスカートはふわりと広がって、丸みを帯びた腰にそのまま溶ける。
「御伽噺じゃないのにね、こんなとこばっかりセオリー通りなんだもんね」
 文字列としての形はもはやない、彼女の言葉が耳に届いた。驚くほどはっきり見えた彼女の顔は、笑っていた。
落ちた?
「あぁでも、気持ちが良いよ」
 飛び込んだ。
見ていられなくなって、外したピントを空に向けた。
あぁだめだと、確信した。
鮮やかという概念が目を刺した。沁みる。たちまち涙が両目から溢れて、世界の色彩という色彩が蕩けだす。蕩けた色彩は、原色の青は渦を巻く。彼女の魚の青も、きっとそのなかにあった。だって彼女は、その中を泳ぐ人魚だ。目を閉じたって、溢れた涙が瞼の裏まで青く染め上げていた。

「やっぱり、連れて行って欲しかった」

 教室の静寂を、俺のその声がぽしゃんと破った。椅子の森と、じめっと蒸された埃くさい空気。屋上も金網もなかった。向かいの席もか空だった。未記入のまま無造作に積まれた委員会の書類だけただそこにある。
 カーテンが膨らむ。次元の違う運動部の掛け声と、視界を埋める真っ青が一瞬飛び込んできて、風がやむとまた隠れた。
 けれども俺の目にはまだ、鮮烈な青ばかりが残る
その青、メインの原案。大学入ってから書いた小説の中でいちばんすき

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