はふーと長老
夕方というには少し早いような、日の傾き具合である。風は涼しく、散歩にはちょうど良い。
なんて暢気なことを考えていても、心の内では結構焦っている。
「エンリー、お前怪我してるぞ」
エンリーの膝から血が出ていた。
ナツメが目をひんむいて、エンリーの膝を見る。
「エンリー!なんで言わないの!?」
こいつのエンリーへの過保護な愛は何だ?
「あ、こっちにくるときに膝を打ってしまって。いえ、かすり傷ですので、大丈夫です」
エンリーは右ひざを隠すように手で覆った。しかし、ナツメがその手をのけて、膝を凝視する。そして、右手をかざす。薄い氷の膜が、出血を止める。
さすが医学科である。
「これで大丈夫よ」
ナツメは優しくエンリーに微笑んだ。
「ありがとうございます、ナツメさん!」
エンリーも微笑んだ。
「ナツメって呼んで。学年なんて関係ないわ。私年齢は一つ下だし」
「え?」
年齢が一つ下?
「あれ?言ってなかったかしら。私二年飛び級してるから、あなたたちの一つ下よ。学年は一つ上だけど」
超エリートじゃねえか。
「な、ナツメ」
エンリーは、照れながら言った。
「エンリー」
ナツメは、エンリーの頭をなでると、再び優しく微笑んだ。エンリーも微笑む。いいのか、エンリーよ、そいつは年下だぞ。
「で、ナツメよ」
「何よ」
相変わらず俺には冷たいし、ため口である。が、ここで年齢の話をしていても小さな人間だと思われるだけだ。もちろん学年では俺が下だし。ん?そうか、俺は学年ではこいつより下なのだ。どう接したらいいんだ。
「な、ナツメさん」
「なんで急にさん付けるのよ」
「いや、学年は上だし」
「あんた、ずっと私のこと呼び捨てで呼んでたじゃない。年齢が下だとわかったら急にさん付けって、どういう思考回路してんの?てか呼び捨てで呼んで、って話してたわよね今」
ふむ。むかつきはするが、言い返す言葉もない。
「ナツメよ」
「だから、何よ」
「お前の肩に付いているその丸いふわふわしたのは何だ?だんだんと大きくなっているが」
「へ?うわ、何これ!」
ナツメは急いで肩に付いた綿毛のような何かを払いのける。
手のひらサイズまで大きくなったそれは、ふわふわとオレンジ色の空に浮いた。
「な、なんでしょうかあれは!?」
「この場所を知る手がかりよ、逃がさない!」
ナツメの右手に冷気が溜まるのが分かった。
「待て、降りてくるぞ!」
ふわふわと浮いたそれは、ゆっくりと俺たちのところへおりてくると
「はふはふはふ!」
妙な鳴き声でないた。
近くで見ると、綿毛の中に、黒い目が二つある。口は見当たらないが、綿毛に埋もれているのだろう。
ナツメの周りをふわふわと浮いている。
「なんだ、こいつは」
「さあ?」
ナツメは自分の周りを飛ぶそいつをうっとおしそうに見ている。
「か、かわいい!」
エンリーが目を輝かせて言った。
「そ、そうか?」
お世辞にもかわいいとは言えない。たんぽぽに目が付いたような、変な生き物である。
「はふはふ!」
エンリーを見て、多分、そいつは笑った。
「はふはふ!はふはふ!」
エンリーが真似て言う。すると、「はふはふ、はふはふ!」とそいつは返事をした。
「おいで、はふー!」
エンリーの中ですでに名前は決まったようだ。
はふーは、再びナツメの肩に止まった。
「うげ」
ナツメは嫌な顔をして、はふーを見た。エンリーは、はふーの綿毛を手でつつきながら、にこにこ笑っている。
「おい、なんだかでかくなってるぞ!」
「ちょ、なによこれ!」
ついにはナツメを綿毛の中に取り込んだ。それだけに収まらず、はふーはさらに大きくなると、俺とエンリーをも包み込み、ふわりと浮いた。
「なんだ、これは」
今日何度目かの同じ台詞を俺は吐いた。
「だ、大丈夫ですよ!は、はふーは悪い子ではありません」
とか言いながらも、エンリーは俺の袖を握っていた。少し震えながら。それを見たナツメは、俺を睨んだ。そして、エンリーの空いた方の手を自分の袖に掴ませた。なんなんだよこいつは。
綿毛の中からは、ぼんやりと外が見えた。電柱ほどの高さをふわふわと浮いている。点在する民家はどれもが廃墟のようで、広がる田畑も荒れていた。鳥はちらほら飛んでいるが、人の気配はない。
開けた場所を過ぎると、今度は森に入って行く。
「どこにいくんでしょうか?」
エンリーが不安そうに言った。
「とにかく、今落とされてはひとたまりもないわ。ここはおとなしくしておきましょう」
俺たちは、はふーの中で座り込んでリラックスモードになった。綿毛がふわふわで、上等なソファーのようである。うつらうつらしているうちに森を抜けると、大きな山が現れた。オレンジ色眩しい夕日を背中に、雄大にも美しく聳えている。
「あれ、あれは人じゃない?」
ナツメが指差す。
50メートルほど離れた山の麓に、確かに小さな人影のようなものがあった。影は、ふっとそのまま消えた。
「ナツメ、お前髪留めが」
落ちかかっていた。
「え?何?」
ナツメが髪留めを触ろうとする。
「あ」
髪留めが取れると、綿毛のすき間から落ちていった。
「はは、まあ、ドンマイ」
髪留め一つぐらい、と軽い気持ちで俺は言った。
「パパにもらった髪留めが」
落ち込んだ様子のナツメに、女の子らしいところもあるんだな、と少し感動を覚えた。なんだか少し肩を怒らせているような。でも、俺のせいではないよな。うん。
エンリーは、ポケットから何かを取り出し
「これをどうぞ、ナツメ」
ナツメの髪に、赤い髪留めを結うと、にっこりとナツメに笑いかけた。
ナツメは、エンリーをぎゅっと抱きしめる。
「ありがとうエンリー。あなたは女神かなにかよ。そうに違いない。そうでなければ、いや、そうでないということはないわ」
面倒な言い回しでエンリーを誉め称えると、ナツメの機嫌はすっかり戻った。
はふーは山を旋回し、広がる樹海を進んで行く。
柔らかい夕日、風の音。
相変わらず人の気配はない。
睡魔と戦っていると、突然止まり、ゆっくりと下降していく。
地面につくと、はふーの綿毛がどんどんと縮小していった。
ようやく俺たちは綿毛の外に出た。山から少し離れた、樹海の真ん中であった。
驚いたのは
「はふーはふ−!」
「うぎゃあああああ!」
はふーがたくさんおり、そのどれもが蛍光灯に集る蛾のように、ナツメのもとに集まったことである。
「はふー、はふー!」
はしゃっぐはふー。俺とエンリーは、呆然と見ていた。どうしよう。
「はふ、はふーーー!」
他のはふーとは違う、低い声がした。声の方を見ると、そこにもやはりはふーがいた。しかし、このはふーだけは口元の場所がだいたいわかった。白い綿毛の中に、口元を象るように、茶色い髭のような毛が生えていた。
「はふふふふ!はあーふ!」
じゃべるたびに、その茶色い髭がもごもごと動いた。ナツメのもとにいたはふーたちが、一斉に離れていく。長老みたいなものか。
「ナツメ!」
「だ、大丈夫ですか、ナツメ!」
俺とエンリーはナツメに駆け寄る。
「大丈夫よ」
ナツメはぜーぜーと呼吸が荒く、せっかく止めた髪留めが再び取れかかっていた。
「すまんかったのう、客人ら。さて、これはこれは珍しい。あちらの世界のものたちか」
髭をもじゃもじゃと動かしながら、長老は言った。
俺たちは口をあんぐり開けた。
「ことばが、というか、あちらの世界もの?なんでわかるんだ」
俺は訊ねた。
「わしも世界間を渡ってきたからのう」
俺たち三人は、顔を見合わせる。
「どうやってこっちに来たの!?」
ナツメが訊ねた。他にも疑問はあるだろうに。現実的思考なやつである。
「つまり、私たちは世界間を移動していた、ということですか」
エンリーは、他人事のように冷静に言った。大物なのか、ただの能天気なのか。
「あ、いや、忘れてくれ。いってはいかんことじゃった。わしはただの精霊じゃ。本当に。まじじゃよ」
髭の着いたはふーは、急に慌てだした。視点が右へ左へとうろうろしている。なんだこいつは。
うっすらと、暗闇が樹海を覆い始めた。
夜がやってくる。