もとの世界へ 一部完
ずきりと、肩が痛む。
寒気がする。
激しい頭痛が襲う。
吐き気を催す。
両手、肩に、それぞれぬくもりを感じる。一人じゃない。ナツメが、エンリーが、ミアが、そばにいる。
ゆっくりと目を開く。
ぼんやりと、石像が遠くに見える。そのそばに、少年が立っている。
足下に目を移す。
地面には、見たこともない幾何学模様の方陣が描かれている。
これで帰れるのか。
ぼやけた視界に、少年が近づいてくるのがわかる。
ナツメはーーー
ぐったりとしている。俺がなんとか肩で支えているが、意識は朦朧といしてるのだろう。
俺が、なんとかしなくてはならない。俺が。
方陣に手をかざす。しかし、方陣起動に必要なことばはなんだ。こんな方陣見たことない。
「すごいね。4人の移動。魔力が暴発してる」
少年が、ゆっくりと近づいてくる。
「でも馬鹿だね。さっきも言っただろう?方陣内から方陣に干渉することはできない」
糸がきらりと光る。腰の辺りを、その糸がかすめる。
紙が切れた音。ポケットに入れていた日記の紙がはらりと舞う。
少年は、にやりと笑う。
「クロウ、ナツメ、エンリー、いつ、なにをしてるとき、どこから、この世界来た?」
ミアが、少年に聞こえないよう小さな声で言った。
どこ?大学のグラウンドで魔法実践学の授業を受けていて。意識が朦朧とする。いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「ミア、方陣発動の古言はなんですか?私が」
「エンリー」とミアはエンリーのことばを制すと、優しく微笑んだ。
「みんな、ありがとう。いっぱい、楽しかった」
俺は、ミアの手を強く握り直した。
「み、ミア、まちなさ」
ナツメが顔を上げて、ミアの方を見る。
ほぼ同時に、俺の左手から、ミアのぬくもりが消える。
そこにミアはいない。
ミアは、方陣の正面に立っていた。小さな体。地味な色のワンピース。腰まで伸びた長い髪。前髪を留めた赤いピン。キレイな形をした額。ひまわりのような、笑顔。
そして、方陣に、手をかざす。
「待て、ミア!待て!」
左手を伸ばす。さっきまでミアが握っていた、左手。届くはずもない、左手。
「かたがた別るとも、行き巡りても逢わむとぞ思ふ」
優しくも、儚くも、ミアは、流れるように詠んだ。
待て。待ってくれ。ミア。
空間が歪む。
ぐるぐる回る。
感じたこともない圧力が、体にかかる。
苦しい。
ーーー大丈夫。あの子は私がーー
落ちる。
すとんと。
浮遊する。
風が冷たい。
左手には、なにもない。
体の節々が痛い。頭痛と吐き気はとどまらず、どさりと地面に倒れる。ちくりと、芝が顔にささる。
帰って来たんだ。ミアを残して。
月明かりがやたらと眩しい。
エンリーもナツメも、俺のそばで倒れていた。移動のときに受けた衝撃で気を失っている。ナツメの方は、一刻も早く病院に行かないと危険だ。
「ようやくかい。まあでも、ええタイミングや」
背後から、聞き覚えのある声がした。独特のイントネーションは、忘れようと思っても忘れられない。
「アリ、か」
月明かりに照らされているのは、ニット帽を目深にかぶったいかにもちゃらそうな男。
「そうや。一週間ぶりぐらいかの」
一週間しか立っていないのか。ずいぶん久しぶりに感じる。なんでアリがこの時間、ここに。しかし、今はとにかく。
「ナツメが、やばい。救急車を」
アリは答えず、俺に近づいてくる。
「お、お前、何を」
アリが、俺の上着のぽけっとを弄りはじめる。体が思うように動かず、振り払えない。
アリは、俺のポケットから日記を取り出すと、
「これやこれ!はああああようやくや!」
と喜びの声を上げた。
頭が働かない。こいつは、何を言っている。
「すまんかったな、クロウ。でもこれでーーーー」
上ずるアリの声。頭痛が、激しくなる。
「『魂の循環ルート』、一つ確定や!」
ぼやける視界に、月明かりがぐらりと揺れる。
アリの後ろ姿が、遠のいていく。
意識が、遠のいていく。
サイレン音が、微かに聞こえたような気がした。
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「クロウ!」
母さんの声。
白い天井。
独特の匂い。
俺は、病院のベッドの上にいた。
母さんが、耳元でなにか言っている。
母さんの隣には、転生学科のガマガエルに似たおばさん教授だ。
がばりと起きた。全身がずきりと痛む。脳が動き出す。なぜ教授が。しかしそれよりも。
「ナツメは!?無事か!?」
「怪我は残りますが、命に別状はありません。まだ目を覚ましていませんが、すぐに会えますよ」
右側から、女性の声がした。白衣を来た女性だった。黒髪をポニーテールにたばねた、美しい女性だ。って、今はそんなことよりも、
「エンリーは!?」
「エンリーさんも、体に別状はないですよ」
がま教授が丁寧な口調で言った。
「そうですか」
と二人の無事を知り、俺はひとまず安心し、再びベッドに体を預けた。
ーーー大丈夫、あの子は私がーーーー
ミアのことは、あいつを信じるしかない。
そして、もう一度。
眠気が再び襲う。欲に抗えず、落ちる。
病院に運ばれてから5日目、食事も充分に取れるようになったころ、訪問客があった。
がま教授と、精悍な顔つきをしたメガネをかけた男性と、それに、白髪をオールバックにしたダンディーなおじさんだった。
がま教授が言う。
「クロウさん、こちらのお二人、知ってらっしゃるわよね?」
知ってるも知らないも、知っていないといけない人たちである。
メガネをかけた方が、
「大学のとても有名な教授」
オールバックの方が
「それと、ええと、大臣をしている方です」
記憶というのは曖昧なものである。教授も大臣も役職は覚えていても、名前は思い出せない。
「大学総長のウィーラー教授とヴィドール法務大臣です」
がま教授の言い方には、なんであなた知らないの?という文が後ろについているのがわかる。そうか、大学総長だったのかこの人は。
表情の硬いがま教授とは反対に、ウィーラー教授は優しい顔をしている。
「クロウくん。まあ、とにかく今回は大変だったね。そしてーー」
ウィーラー教授が、頭を下げた。
「すまなかった」
「私からも、ほんとに」
続いてがま教授も頭を下げる。
「えっと、状況がつかめていません」
「私が説明しよう。君には知る権利がある」
とウィーラー教授が話し始める。
「最近、転生学科の学生が一人、姿を消した。君もしっている人物だろうが、アリ・ロードンだ。彼は幼少より『前世』のことを話しており、いわゆる『前世持ち』だと主張していた。そして彼は、前世持ちが集まった組織『輪廻』に所属していることがわかった」
やはり、アリが俺を利用して何かしたのか。なんとなくわかってはいたが、急に寂しくなる。しかし、『輪廻』は確か。
「『輪廻』はずいぶん前の内乱以降なくなったんじゃ」
「いや、完全になくなったわけではなかった」
「アリは、僕たちがグラウンドに戻って来たときに」
「そこにいたのか!?」
ヴィドール大臣が、目をぐわりとさせて言った。すごい目力だ。気圧される。
「え、ええ。日記を、持っていって」
「日記!?日記とはなんぞのものぞ!?」
なんだこのおっさんの圧は。有無をいわせない。
「ええっと、少し長くなりますが」
と俺は日記についての説明を始めた。
魔法実践学の途中で、今まで見たこともなかった映像が頭に入り込んで来たこと。
畑、大きな木、木造の家、黒い犬。
エンリーとナツメと、その映像の場所になぜか移動してしまったこと。そこで日記をみつけ、いろいろあってなんとかこの世界に戻って来たこと。
「そして、その日記をアリが持っていったんです」
「アリは、なんかいっておらんかったか!?」
「ええと」
思い返す。夜のグラウンド、眩しい月明かり、ニット帽を被ったアリ。
「ようやくかい、まあでもええタイミングや」
アリのイントネーションを真似するが、気恥ずかしい。真似する必要もないのだろうけども。
「あと、俺のぽけっとから日記を見つけてすごい喜んでいた。それと、すまんかったのう、と言って」
確か、こう言ったんだ。
「『魂の循環ルート』、一つ確定や」
ヴィトール大臣は、鼻から大きく空気を吸い込むと、そのまま大きく吐いて、言う。
「『輪廻』は他と組んだか!しかし、お主が日記を持ち帰った功罪はまだ分からんぞ!アリはテンションのあまり言ってしまったんだろうが、それは我が国にとっても、まあ、うむ」
ウィーランド教授にまあまあとなだめられ、ヴィトール大臣は興奮を抑えた。
「実はもう一つ、話さなければいけないことがあるんだ」
ウィーランド教授は、神妙な面持ちで続ける。
「アリの特殊魔法は、精神感知、つまりテレパシーのようなものだ、と入学資料には記載されていた。しかし、幾人かの証言をもとに考えると、記憶またはなんらかの映像を飛ばし相手の脳に入り込ませる、という魔法ではないかと推察されている」
つまり、あの見たことも行ったこともないはずの場所の記憶が現れたのは、アリから飛ばされたものだった、ということか。
「それと、我が大学から、アリ以外にもう一人出奔したものがいる」
アリ以外に?誰だ。俺が知っている人など大学にほとんどいないが。
「魔法実践学を担当していた、アルバ・エバンゴール教授だ」
「あの、マッチョな?」
俺が言うと、がま教授が、「そうです、あの筋骨隆々の」と言い直した。
「彼の特殊魔法は、魔法力を一時的に増幅させることができた。そして彼の魔法痕が、君の肩に残っている」
「僕は、アルバ先生に魔法をかけられたのですか?」
「そうだ。講義の途中で、気づかぬうちに。アルバの増幅魔法、そしてアリの記憶の埋め込み魔法、その結果、君は君のキャパシティーを超えた人数を別世界にきみもろとも移動させることになった」
「二人がぐるだったということですか?」
「そういうことになる。アルバが『輪廻』の一員なのかどうかは定かではないが、少なくとも君たち三人を別世界に移動させることにおいては、二人はグルであったと考えられる」
今更驚きはしなかった。それよりも、どうりで俺が三人同時に移動させることができたわけだ、と妙に納得した。
「アルバの能力は、普通その範囲内で力を増強させる。しかし、今回の君の場合、あまりにも過度に力が増幅させられている。つまり、限界を超えている。いいにくいことではあるが」
嫌な予感がする。
ーーーとにかく、あなたは無理をしてはいけない。無理をして、死んではいけないの
ーーーがたのきている君の体じゃ
消えない肩の違和感。まだ生きている。死んではいない。死んではいないが。
「君は、近いうちに魔法が使えなくなってしまう」
ウィーランド教授が、沈痛な面持ちで言った。
魔法が使えなくなる。
魔法が。
大きな石が胃の中に入っているような、とにかく、どうしようもなく、重かった。




