ミアの過去
少年が現れてからずっと、少女は震えていた。
偽りの平穏にもたれかかる。少女のことを思えば、本当はもっと早くに言わなければならなかったのだろう。
起きろ、俺は、言わなければならない。それがなんらかのトリガーになろうとも。震えながらに俺の腕を持つ少女のために。
「ミアは、ミアはなぜ湖のそばで立っていた?なぜ、お前を睨んでいる?なぜ、震えて俺の腕を持っている?」
少年は、あごを少しあげ、見下ろすようにミアを見る。
ずきりと肩が痛んだ。俺は反射的にその部位を抑えた。
少年は、目を細くして俺を一瞥すると、再びミアの方を見て、言う。
「もちろん君たちだけでなく、ミアも一緒に戻って来てほしい逸材だ。もしよければ、一緒に行動できるようパートナーに」
「違う、俺が聞きたいのは、お前が、ミアに、何をしたのか、ってことだ」
少年は一度目を閉じ、そしてまたゆっくりと開く。
「僕がミアと出会った時、彼女の力はとても不安定だった。不安定な移動魔法ほど、危ないものはない。急にいなくなったと思えば、こっちが移動させられるときもあった。しかし、僕はミアを諦めなかった。ミアは、自らのみの移動に加えて、他者と一緒に移動すること、はたまた、他者のみを転移させることもできる。ただでさえ珍しい移動魔法術者で、かつこんなにも多様な移動が可能なものを僕は見たことがなかった。彼女は特別だった。だからこそ、その移動魔法を安定させなければいけなかった」
「御託はいい。ミアに何をしたの?」
ナツメが、ぎろりと睨んだ。
少年は、にっこりと笑い、言う。
「魔法使用条件の確定を急いだんだ。ただそれだけさ。特殊魔法の使用条件は先天的なものだと今までは考えられていたが、最近の研究ではそれが一概ではないということが証明された。まだまだ不安定な魔法使用者に対して、曖昧な使用条件をこちらから確定してあげることで、魔法を安定させることができる」
「こんな幼い子どもの魔法使用条件を外的に誘導して確定させた?どこが安定なのよ。とんでもなく不安定なことをしたわね」
ナツメが、睨んだままに言った。
「ミアの、ミアの魔法使用条件はなんだ?」
「ミアには、兄がいた。その兄の身に危険が迫っている。初めてミアが移動魔法を使ったとき、まさにその状況下だった。それを魔法使用条件として、確定させた」
「お、お兄ちゃんは、あのときに、もう」
ミアが、震える声で言った。
「胸くそ悪い話ね、あんたたち。兄を痛めつけて、ミアに無理矢理魔法を使わせたのね」
「僕たちもそこまでは非道じゃないよ。というか、ミアの兄は、もう死んでしまっていたんだ。だから、これは仕方なくではあるが、ミアには兄が生きているように装い、危険な状況にある、と暗示をかけた」
「ただの暗示じゃないでしょう。どうせ魔法を使って、より鮮明に兄の危険がミアの目に映るようにしたはずよ」
「どちらにせよ、後にミアは自ら兄の死を悟った。その結果、再び魔法が暴走し、偶然にも君たちに出会うことになった。しかし、これは僥倖であったと思っている。ミアにとって、新しい『お兄ちゃん』ができたのだから」
少年は、俺の方を見た。
「ミアの村は、お前らが魂狩りしたのか?」
「さっきも言ったが、魂狩りは中興世界の押上げには仕方のない犠牲なんだ。ミアの村のものたちも、もちろんお兄ちゃんも、いずれは新たな体を手に入れることになる」
「お、おじさんも、おばさんも、お兄ちゃんも。みんな、村の人たちも、いっぱい、楽しかったのに!」
ミアの声が、部屋中に響いた。
感情が、伝染する。
悲しみ。
ミアの目から、涙がこぼれている。
ミアが、これほどまでに苦しんでいる。悲しんでいる。
「お前らのやってることが、総世界にとってどうなのかは俺にはわからない。ただ、とにかく、俺は、許せない」
「同意見よ」
「交渉決裂ね。くっくっく」
少年が笑いを押し殺す。
「何が可笑しいの?」
「情緒不安定が1、手負いが2。方陣の中。何ができるのかな?」
「手負い?俺はまだ」
「君が一番重傷かもね。次に無理をしたら、って、自分でさすがにわかってるか。まあいいや、とにかく、どうせ、なにもできないから」
少年が右手を大きく上げた。きらりと、虚空に何かが光った。ほぼ同時に、ナツメが、右足で地面を二回踏みならした。
「余所見せしまに女郎籠より逃げ出でにけり」
エンリーの声とともに方陣が解ける。
少年が、右手を振り下ろした。
俺はミアを抱え、後ろに大きくステップをふむ。
そのとき、ぽたりと、頬に水滴が飛んだ。
水滴?いや。
血だ。
血しぶきとともに、物体の影が浮いている。あの物体は。
あれは、手。
ナツメのうめき声が、響いた。
ナツメの右手が、ぼとりと地面に落ちる。手首から血が噴き出す。
「ナツメ!」
ナツメは、なんとか右手部分に氷を纏わせる。
少年が右手を動かすたびに、ひゅんひゅんと、音がする。きらりと、時折光るものが見える。
「まだ仲間がいたのか。なるほど」
笑みをこぼしながら、少年は言った。
少年の右手から出ている糸のようなもの。それは、地面にあたるたびに、その表面をえぐった。
「氷で止血か。器用だねえ。でも、君さえ潰せば」
少年が再び右手を振り上げる。
俺は持っている氷柱を少年に向かって思いっきり投げた。
少年は、左手を向かってくる氷柱にかざす。青い炎が手のひらから射出される。
氷柱が一瞬にして溶ける。
ーーー間に合え
ナツメと少年の間。視認する。
目を瞑る。
すとんと落ちる。
浮遊する。
ずきりと痛む肩を抑えながら、目を開く。膝をついたナツメが、目の前にいる。黒髪は乱れ、右手はない。
ーーーナツメ
ナツメの目が、涙で溢れている。
「君でもいいか」
すぐ後ろから、少年の声が聞こえた。
俺は、目を瞑った。
「クロウ!」
ナツメの声。
ーーー終わりか。
ごりごりと、地面が削れる音。
背中に痛みはない。
「やるねえ。魔力の暴走にしても、すごい潜在能力だ」
さっきよりも少し遠くから、少年の声が聞こえた。
目を開くと、ナツメが肩で息をしながら、無い右手を少年にかざしていた。ナツメの右手首から出た氷は、起用に俺をよけ、少年と俺の間に巨大な氷塊を作っていた。
少年は後ずさりしたようで、さっきよりも距離ができていた。
「でもね」
少年が、右手を大きく振り下ろす。
いとも簡単に、ナツメの氷塊がまっぷたつになる。
倒れ込むナツメを俺はなんとか抱え、ミアとエンリーのいる場所まで後ずさる。
「透明化の子は、この辺りかな?」
少年が右手を振り下ろすと、きらりと俺のそばで糸が光った。
「惜しい。もう少しでまっぷたつだったのに」
うれしそうに、少年は笑った。
頬から血を流したエンリーが姿を表す。
俺は、ナツメの体を肩で支えながら、右手でエンリーの手を握った。恐怖からか、エンリーの手は震えていた。
左手で、ミアの手を握る。ミアもまた、震えていた。
「なぜ、なぜ俺たちの命を奪おうとする」
ただ、帰りたいだけなのに。もとの世界へ。
「一つは、君たちが知りすぎたこと」
「お前がぺらぺらしゃべったんだろうが!」
「それでなくてもさ。ドスとサミ、二人の存在が知られただけでも、君たちを生きて帰すことはできない」
ドスとサミは、俺たちの世界の犯罪者、死刑囚だ。それを知ったから、ただそれだけで、殺されなければならないのか。
「それと、一つだけ話していないことがある。君たちの世界は、僕たちの考え方に賛同していないんだ。現状、敵だと考えられている。そこに優秀な人材が、特に世界間移動ができるものがいると困るんだよ。だから、仲間になるか、それか、死ぬか。いや、まあ実際はどちらにせよ仲間になるんだけどね」
「どういうことだ?」
「死者のほうが、思想を吹き込みやすい」
少年が、顔を大きくゆがめて笑った。正体を表すかのように、邪悪に。
ーーーこいつが、サミとドスを
全身が総毛立つ。怒りが恐怖に変わりそうになる。
なんとか恐怖を抑え、一点を見つめる。少年のはるか後方、ミアが言っていたであろう、もとの世界に帰るための「それ」、謎の方陣を。
「どうすることもできないよ。ガタのきてる君の体で、君の魔法力じゃ」
ーーーうるせえ
肩が、ずきりと痛んだ。なぜ肩が痛んでいる。誰かに何かされたのか?ナツメの妹、ノアに言われたことばを思い出す。「あなたは無理をしてはいけない。無理をして死んでは、いけないの」
ーーー無理をして死んではいけない?
右手を振り上げる少年が、目の端に見えた。
ーーー4人死ぬか、1人死ぬか、どっちにしろおれは死ぬじゃねえか!
急に怒りがこみ上げてくる。なんの意味もない占いを残したノアに対してか、目の前の、くそ生意気な少年に対してか、理不尽なここ数日の出来事に対してか、視線の先にある、わけのわからない模様に対してか。
ただ、ここに、救えるかもしれない命がある。救いたいと思える命がある。
ーーー楽しかったな
三人のぬくもりを感じながら、思った。
丸、四角、三角、無秩序に秩序立てられた方陣。
視認する。
目を瞑る。
すとんと落ちる。
浮遊する。
目の奥にするどい針をさされたような、激しい頭痛が襲う。
吐き気を催す。寒い。立っていられない。
両手、肩には、人肌がある。
一人じゃない。
生きている。
ゆっくりと目を開く。
少年は、部屋の奥にいた。
いや、違う。俺たちが、部屋の奥に移動したんだ。




