別れ
「パパ!」
静かな森にリーネの声が響いた。
リーネの視線の先には、月明かりを背中に、フードを目深に被った男が大きな羽を広げて飛んでいる。
疲れがどっと押し寄せる。立っていられず、膝をつく。
パパ、と呼ばれた男は、つまり「不可侵の商人」であるわけだが、ゆっくりと地上に降りてくる。
ナツメはもちろん、ようやく音に気がついたドスも、口をあんぐりさせて、羽の生えた彼を見ている。
「リーネよ、お前は本当に手のかかる子だ。さ、帰るよ」
彼は飽きれた口調でそう言うと、リーネの方へ歩み寄る。
顔がちらりと見える。おじさん、というよりは、青年に見える。柔和な目をしている。この状況でも、焦りがない。リーネ以外には無関心にも見える。
「パパ、違うの。借りがあるのよ」
「借り?」
「そう。彼らに命を助けられたの。借りがあるの。『不可侵の商人』に借りがあってはならない。でしょ?」
リーネのことばを受けて、男はため息をつくと、リュックサックをおろすように、背中から羽をおろした。
その様子をじろじろと見ていた俺に、男は言う。
「これ、いいでしょ?魔法道具『空飛ぶ羽』ネーミングは僕が決めたんじゃないからね。ちょっと重いのと、魔力消費が大きいってのが難点。百万ターラーで売ってるよ」
「パパ!」
「はいはい。ごめんごめん。で、ええっと、助ければいいのね。パパだってそんなに馬鹿じゃないよ。彼だね」
男はドスの方を見る。そうだな、彼なら、などとぶつぶつ呟きながら、マントのポケットからガムを取り出す。
ドスは、ようやく敵だと認識したのか、大声を上げ、どすどすと男の方へ向かって行く。
「急いで!」
リーネのことばに、はいはい、と返事をしながら、男はガムを口に入れる。
ドスが右手を振り上げる。
男が言う。
「止まれ!」
ドスは、右手をおろさない。なにかに支配されたように、動かなくなってしまった。
「君は、帰る。いいね?ほら、言ってみて。かえる」
「カエル?」
「そう。帰る。うちへ、帰る」
「ウチへカエル」
「女の子、怖い。男の子、怖い。みんな、怖い。人、怖い。外、怖い。だから、うちにいる」
「ヒト、コワイ。ソト、コワイ。ダカラ、ウチ二イルコワイコワイハヤク、カエル!」
ドスは、ミアや俺、ナツメを見て震えだす。
「そう。じゃ、ばいばい」
「バイバイ」
ドスが、一目散に走って行く。
あんなにも逃げ回って、死にかけて、井戸にまで落として、それでもどうにもならなかったドスが、あっさりと去って行く。
「パパ!ありがとう!」
リーネは、男に抱きつく。男は、リーネの頭をなでる。
「ありがとうございます。本当に」
ナツメが、座り込んだまま頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ馬鹿娘を助けていただいて」
男も頭を下げた。
空が白んできた。
長い夜だった。
物腰柔らかに、彼は小さな紙をそれぞれに丁寧に渡す。
ダイス・ローン。個人商人。6桁の数字。記載されているのはこれだけである。
「ダイスさん?これは」
「ああ、えっと、クロウくんだね。ぼくの名刺さ」
「個人商人?っていうのは不可侵の商人のこと?」
ナツメが訊ねた。
「不可侵の商人、というのは、通称で、しかも団体じゃないんだ。世界間を行き来きすることの許された個人事業主さ。まあ、組合みたいなのはあるんだけどね。あまり詳しくは話せないけど」
「パパの名刺は貴重なのよ?大切に持っておきなさい!」
リーネが偉そうに言った。
「『不可侵の商人』は商売以外で世界に干渉してはならない、と聞いたけど」
「それは勘違いでさ。ただ、『不可侵の商人』内に、世界との干渉における規定が多いからそう言われるようになったんだよ」
ナツメの質問に、ダイスは答えた。早口で続ける。
「ちなみに、さっきのは、魔法道具、『催眠ガム』だよ。ことばに匂いを付けて、対象に言うことを聞かせるのである。簡単な命令しかできないのと、知能が低いものにしか効果がないのが難点。効果持続期間は人によりけりだけど。Cクラスの商品だから、君たちでも買える。6個入りで30万ターラーだよ!」
到底大学生に買える値段ではない。不可侵の商人が取り扱っている商品なんて、そりゃ高いか。ダイスの商品説明は続く。商品はクラス分けされているらしく、Cクラスは誰でも買えるらしい。ちなみに空飛ぶ羽はBクラスで、ライセンスが必要だとか。
ナツメはとうに聞いている様子はなく、ミアの方を気にかけている。ミアは明らかに憔悴している。
「大丈夫?ミア」
ナツメが声をかけた。
木の根本に座り込んだミアは、小さく頷いた。肩で息をしている。明らかに、限界が近づいている。
寒い。ふと、思った。ナツメに至っては上半身下着姿である。
肩が、太ももが、首が、痛い。張りつめていた糸が切れ、体が悲鳴を上げ始める。
パパ、何かないの、とリーネはダイスの方を見た。
「私の初めての友達なの!」
リーネのことばを受けて、ダイスはローブのポケットから小さな瓶を取り出した。蓋を開け、ミアの口元へと持って行く。
「回復が早くなる。飲んで少し休みなさい。ほら、君たちも」
「ありがとう」
疑うことなく、俺とナツメも小瓶を受け取った。
一口で飲み干す。さっぱりとした甘みがある。途端、一気に眠気が押し寄せる。
ダイスは、それともう一つ、と言うと、今度はポケットから大きめの布を三つ取り出した。あのポケット、どれだけ容量があるんだ、などと疑問が沸いたが、質問する気力すらなく。
布は、ひとりでにそれぞれの体に巻きつきはじめた。巻き付かれた途端に、ふわりと浮いた感覚になる。そのまま、体を預ける。やばい、気持ちいい。
「その布は、僕からの贈り物だ。睡眠のための最上の環境を提供してくれる。布は伸縮自在、形もある程度なら変えることができる。服にもなるということさ、ってもう寝ちゃうかな」
睡眠欲に抗えない。ことばが入ってこない。
「まあいいや。とにかく、娘を助けてくれてありがとう。我々の世界間移動の時間が近づいている。さ、リーネ、寝ないうちに早く」
視界がぼやけている。
「ミア、ナツメ、クロウ、本当にありがとう。楽しかった。私たちは友達よ!旅を続けていれば、また会える。今度会うときは、『不可侵の商人』になっているわ。とにかく、またね」
「え?リーネ、『不可侵の商人』を目指すのかい?」
「そうよパパ。そう決めたの」
「だって、散々いやだって」
「こんなにも面白い旅は初めて。それに、世界を廻ればまた会える」
「パパとはぐれて死にかけてたじゃないか。パパは賛成しないな。勉強もうんとしないといけないし」
「うるさい!」
本当に五月蝿い。
「とにかく、みんな、ありがとう!またね」
リーネは、行ってしまうのか。リーネっぽいというか、しめっぽさがなく、溌剌としている。必ずまた会える、と根拠なくリーネは確信しているのだろう。
駄目だ。落ちる。もう無理だ。
気持ちいい。
見覚えのある山があった。
白い綿毛が、一本、宙に浮いている。ひらひらと、飛んで行く。ピタリと、その綿毛が空中で停止した。少しの間を持って、再び動き出すと、また、ひらひらと飛んで行く。かと思えば、また止まる。しばらくして、動き出す。また、止まる。よく見ていると、綿毛は等間隔を作って止まっては動きを繰り返している。綿毛を追うように、自分も動く。自分、というより、これは。
不意に、視点が横へ振れる。もくもくと丸い綿毛が目に入る。はふーである。ぼんやりとした目である。精霊にも疲れがあるのだろうか。それよりも、エンリーはどこだ?長老が安全な場所に待機させているのか。はふーの中で、透明化しているのか。誰かに捕まった?いや、さすがにそれはないと思いたい。いるのか?どこかで透明化しているんだよな?エンリー。エンリー、どこにいる?
「エンリー」
斜めから差す太陽の光はまだ優しい。
隣を見ると、大きな布にくるまったナツメとミアが、まだ眠っていた。まるでみの虫のようである。
「リーネ」
ミアから寝言が漏れた。
よく見ると、涙の跡がある。
『不可侵の商人』は、世界間を行き来する。いつか、また、会えるだろうか。
ひらひらと、白い綿毛が、ミアの頬をなでるように落ちて来た。途端に綿毛は黒くなり、ぼろぼろになった。
「ナツメ!クロウさん!ミア!」
聞き覚えのある声がした。
俺が見上げるよりも早く、ナツメががばりと起きて、
「エンリー!」
と声を上げた。
上空には、はふーと長老がいた。
ゆっくりと降りてくる。
「ナツメ!」
はふーのなかから、声がする。声の発生源が見えないというのは、なんとも不気味だ。
早く透明化を解けよ。




