三角形
「迎え撃とう。この音の様子だと、まずドス一人が追って来ている」
ナツメが俺たちを振り返りながら言った。
煌煌と月明かりがナツメを照らす。舞台照明のように。
迎え撃つ。相手は殺人犯。大きな斧を振り回し、幾重にも縛った縄を力づくで抜け出した。ミアの移動魔法は、不確定要素が多い。湖で、三人が危機的状況に陥った時、俺の移動魔法になんらかの干渉をした。俺を助けるためにサミを飛ばした。使用例はこの2例のみで、かつ本人も使用条件や魔法の詳細をよくわかっていないらしく、この状況下では戦力の計算に入れるべきではない。リーネは、ことばを相手の脳内に飛ばすことができるが、それは大きな武器にはならない。あとはナツメの氷柱と。
「クロウ、移動は、できる?」
へとへとの体力、緊迫した状況、俺ができるのは。
「一回か二回、かつ長い距離は無理だ」
「2回、頑張って。もう少し、ええ、あそこにしましょう」
ナツメは走り出した。俺たちは後に従う。
木々の少ない、開けた場所までやってくると、ナツメは止まった。月明かりが眩しくすら感じる。
「時間がない。クロウとミア、私、リーネの三つに別れる。クロウとミアは左側の茂みに。真っすぐ行った奥にリーネ。私は、右手の茂みに隠れる。クロウたちとリーネの距離は30メートル以内、つまりクロウが一回で移動できる距離。ここまではいい?」
全員が、無言で頷く。全員?誰か忘れているような。まあいい。
「クロウ、ドスがあんたたちの方へ向かったら、あんたとミアは、あんたの魔法でリーネの方へ移動する。ドスを混乱させて、新たなミアの匂いを追ったところを私が刺す。もしドスがリーネの方へ向かったら、クロウ、リーネの方へ移動して、リーネを連れて、またもとの位置に空間移動する。あとはさっきと一緒。リーネの匂いの移動に混乱したドスを私が刺す。オッケイ?」
背後の音が大きくなる。近い。
「急いで、持ち場に」
ナツメが言うと、それぞれがナツメの指示した茂みに向かう。ひらけた空間を中心に、三角形をつくる。俺とミアがいる位置と、リーネの位置までの距離は20メートルほど。月明かりだけとはいえ、視認できる位置にある。移動魔法を使うのになんの支障もない。対角にいるナツメは、少し遠い。ここからはよく見えない。
これでは移動魔法でナツメのところへ行けない。
あれ。待てよ。
大きな足音が、俺の思考を乱す。枝、草葉を、無造作に折り、踏み散らす乱暴な音。
ミアが、俺の手を握る。微かに震えている。
月明かりに照らされて、巨体が現れる。
足を止めると、鼻をふがふがとさせる。やはり、ナツメの推測通り、匂いを辿って来たらしい。ただ、問題は誰の匂いを辿って来たか、である。以前から知っていたミアか、捉えられていたリーネか。
それともーーーー
こっちへこい。間違っても、向こうへは行くな。
ドスは、不適に笑うと、再び声を上げる。
そして、俺とミアに背を向けて、ナツメの方へと歩を進める。
くそ、どうする。
ナツメの場所が視認できない。大声を出して注意を引くか。いや、そうなるとミアに危険が及ぶ。たいした武器もない。俺が行ってなにになる。ナツメに策はあるのか。あいつのことだ、自分の方に向かってくる可能性を考えなかった訳ではないはずだ。だからこそ三つに別れて、ミアとリーネは俺が移動できる位置において。
って、いや、おい。あいつなんか策はあるのか。いや、どうする気だよ。糞みたいな自己犠牲か。なんで俺は今頃気づく。くそ。
「ナツメがやばいわよ、どうするの」
いつのまにかそばに来ていたリーネが言った。
足音が段々と遠のいて行く。ナツメは走って逃げているのか。
「お前はミアと一緒にここを離れろ」
「は?どこよ。みんなでナツメを追うんでしょ」
「それじゃあナツメの策が台無しだ。とにかく、さっき寝てたところでいい。あそこまで戻れ。俺がナツメを連れてくる」
「なんでよ、あんた一人行って、どうなるのよ」
「とにかく、戻れ!」
怒鳴りつけるような声になっていた。感情の昂りを抑えられない。ミアが心配そうに俺を見ている。リーネは、一瞬たじろいだが、また何かを言い返そうと口を開く。俺はそれを遮るように、
「すまん。とにかく、聞いてくれ。これはナツメの想定内だ。二人の足じゃ追いつけないし、ナツメだけなら、ナツメと合流したときに、俺の移動魔法で距離を稼げる」
捲し立てた。
「ミアだって使えるじゃない」
リーネが食い下がる。
「ミアの魔法は、不確定要素が多すぎる。だから、だめだ」
「なんでよ、いいじゃない。前だって助けてもらったくせに」
「たしかに助けてもらったが、ミア自身に危険がおきても使用できないかもしれない。勝手な推測だが。それに、敵の狙いがミアである可能性が高い。とにかく時間がない。わかってくれ。必ずナツメは連れ戻す」
俺は走り出した。背中から「クロウ」とリーネの声が聞こえた。不満と心配の両方が入り交じった声だった。
茂みに足を取られながら、枝に肘をぶつけながら、走る。
ドスの足音はまだ先だ。追って来ていたときよりも、移動速度が速い。
足ががくがくする。疲れと、恐怖と、何の恐怖だ。ドスと相対するかもしれないことに対してか。それとも、ナツメが危険に陥っているかもしれない、ということに対してか。とにかく、早くナツメに追いついて、無事を確認したい。
息が切れる。もっとランニングとかしとけばよかった。腹減った。おにぎり食いたい。ナツメ。ナツメ。どこだ。
ドスと思わしき音が近くなる。もうすぐ、追いつく。
途端に、音がやんだ。
森に静寂が流れる。
動悸だけがただただ五月蝿い。
突然、ドスの咆哮が響いた。
なんだ。ナツメは、無事なのか。
なだらかな勾配を登る。
大木が見えた。傾斜に合わせて片側の根がむき出しになり、幹はバランスをとるようにぐにょりと曲がっている。その大木の向こうに、大きな黒い陰があった。
足が、止まる。
その陰が、見覚えのある服を持っている。それは、俺も着ているもので、たぶん俺の着ているものよりも、一回りサイズが小さいものだろう。半分に割け、ぼろぼろになったしみだらけのそれは、ナツメが着ていた体操服であった。
頭痛がする。寒気がする。鼓動が早くなる。
くそ、くそ、もう、どうでもいい。どうにでもなれ。くそ!
足を踏み出す。みしり、と枯れ葉を踏む音がする。
虫の泣き声がやたらと大きく聞こえる。それ以上に、心臓の音が大きく聞こえる。
ドスの背中がだんだんと大きくなっていく。
ドスはまだ後ろを向いている。
一発ぐらいなら。
くそ、くそ、くそ、もっと、俺が強ければ。
もう遅い。
「クロウ、落ち着きなさい」
次の一歩を踏み出そうとしたとき、聞き覚えのある声とともに、腕を掴まれた。
ぞわりと、全身の毛が逆立つ。昂る感情は、恐怖ではない。喜びか、よくわからんが、とにかく、俺は振り向いた。
そこには、ブラジャー姿のナツメがいた。
昂る感情は、それは、なんだ。
「じろじろ見てんじゃないわよ。またすぐ追われるわ。離れるわよ」
ドスの様子を確認する。ドスは服を引き裂き、再び地団駄を踏んでいる。かと思うと、近くの木を殴り始めた。
「いらついてるわね。解消されたら、また追ってくるわ。早く」
ナツメとともに、走り出す。
走りながらに、俺は訊ねる。
「匂いってのは」
質問を察して、ナツメが答える。
「血ね。昨日私がドスをアイスブレイドで差したときの、返り血。水浴びしてないから、体にもしみつているわ。だから、またたぶん追ってくる。ミアとリーネはちゃんと逃がした?」
「リーネが言うことを聞いてくれてたらな。とにかく、お前、私一人が犠牲になれば、みたいな、くだらん自己犠牲はやめろ」
「もうしないわ」
木を叩く音がやんだ。ドスは再び匂いを辿り始めるだろう。
「さっきあんたを見て、ほっとしちゃった。私、まだ、生きたい。だから」
ナツメは、こっちを見てにこっと笑った。暗闇だからわからないが、たぶん笑った。
「だから、助けて」
「助けなさい、でいいんだよ」
らしくない。
「ははは、そうね。助けなさい、クロウ」
この状況でよく笑えるものだ。が、弱気なナツメを見るよりはよっぽど安心する。
ドスとは、少しは距離が取れたか。さて、どうする。
ナツメの息が荒い。かなり走って逃げていたのだろう。
「匂い、か。水があれば洗えるのか?氷は?」
俺は訊ねた。
「氷?」
ナツメは、走りながらに枝を折り、氷を纏わせる。それを、顔に当てる。
「氷を自身の体に貼付けるようには出せないの。これだと、匂いは消えそうにないわね。水分の絶対量が足りない。匂いを確実に消すなら、クロウの火で皮膚をあぶった方がいいかもしれない」
「いや、それは、やめとこう。死因が変わるだけで結果は変わらんぞ」
どうする。川は、遠いか。都合よく湖でもあればいいが。そもそも今更洗ったところでどうにかなるのか。
駆け足で傾斜を下る。
段々と、勾配がなだらかになっていく。
今まで走って来た場所の、いびつに、そして雑多に生えていた木々とは違い、この辺りの木々は、不自然にも等間隔に、かつ整然に伸びている。
「っつ」
段差に、つまづく。
段差?いや、これは。
「石垣ね」
暗闇でわからなかったが、おれがつまづいたのは、人工的につくられた石垣であった。苔が生しており、かなりの時の流れを感じる。
「ここは、まさか、いや、チャンスね」
「なにがだ?」
「たぶん、廃村ね。古びた石垣に、明らかな植林」
「廃村?家とかは残ってないぞ」
「そりゃ取り潰すでしょ。でも」
ナツメは、周囲を見渡す。
背後に、ドスの音が近づいている。
光が、月明かりが、スポットライトのように、あるものを照らしている。
照らされているのは、地面に小さく盛り上がったなにか。薄い鉄板が蓋のように覆い被さっている。
「井戸が残っている可能性は高い」
ナツメは、にやりと笑った。久しぶりに見た、自信に満ちた顔であった。




