初めの場所
まだ近くに敵の存在は感じない。大丈夫だ、集中しろ。
俺の視線は、山の方向、木々の合間を縫って、移動できそうな空間に向く。
視線だけでなく、全ての意識もその空間に向ける。二本の木の間。あの、場所へ。あの、空間へ。俺は、俺と、ミアは、いる。落ち着け。大丈夫だ。あの木の間だ。目を瞑る。二本の木、そしてその間の空間が、頭に浮かぶ。他にはなにもない。そこに、俺とミアは、いる。
すとんと落ちる。
浮遊する。
目を開くと、俺とミアは二本の木の間にいた。
ふう、と息をつき、後ろを振り返る。
湖とナツメが見えた。
「ミア、すぐ戻るから」
言い残すと、俺は再び集中力を高める。
ナツメの隣の空間を視認する。
さっきまでいた場所。みんなと。
記憶が空間移動を手助けする。
すとんと落ちる。
浮遊する。
「わ、すごいわね」
急に現れた俺に、ナツメが驚いた。
「手を繋ぐぞ」
と断りを入れ、ナツメの手を持った。ナツメの手は柔らかい。なんとか邪念を振り払い、集中力を高める。
二本の木がある。ミアがいる。その隣の空間を視認する。
目を瞑り、頭に浮かべる。大丈夫、さっきのイメージがまだ残っている。
すとんと落ちる。
浮遊する。
目を開くと、俺とナツメは、ミアの隣に立っていた。
「やるじゃない」
手を離しながら、ナツメは俺の方を見た。
俺は大きく息をついた。結構疲れるんだよこれ。
「大変だとは思うけど、頑張って。あと一度、距離を取れれば、そこからは慎重に歩いて逃げましょう」
ナツメが小声で言った。
俺は無言で頷き、ミアの手を握った。
視線は木々の合間を縫う。
背後で、声がした。
振り向くと、湖のほうに人影が蠢いている。
「ひ」
ミアの口を、ナツメが塞いだ。
「大丈夫よ、ミア。まだ私たちには気づいていない」
言いながら、ナツメはひと際大きな木の陰、湖から見えない場所に俺たちを誘導した。
「あんたも、大丈夫よ。落ち着きなさい。さっきのように、ミアを移動させなさい」
こいつはなんでこんなに落ち着いてるんだよ。
俺は、焦りを抑えながら、次の移動ポイントを探す。
握る手に、汗を感じる。ミアのか、俺のか。いや、お互いのか。そんなことはどうでもいい。
山の方、できるだけ遠く。クワガタのはさみのような二本の枝、その下にある空間を視認する。じっと。ミアと、俺は、そこに行く。そこに、いる。意識の全てをその空間へと落とし込む。落ち着け。ミアと俺は、そこにいる。そこ
がさりと、湖とは違う方から音がした。
ーーーなんだ。やばい。落ちつけ。
すとんと落ちる。
浮遊する。
はっと目を開ける。
ばさりと、鳥が上空に飛び上がった。
くわがたの枝は、はるか先にある。
後ろを振り向くと、わずか数メートルの距離にナツメがいた。ナツメのすぐ後には大木が、そして、さらに向こうには、湖と
「いたぞ!」
湖のそばにいる、黒いローブをきたものたち。
失敗した。
黒服たちは、走ってこっちに向かってくる。
「クロウ、こら、クロウ!」
男たちが、近づいてくる。やばい。
「こら、きもクロウ!しっかりしなさい!」
ナツメが、俺のほほをたたいた。
「お、おう。ナツメ」
「何とぼけてんのよ」
「来た、嫌、駄目」
ミアが、へたりと座りこんだ。
ミアを無理矢理立たせ、ナツメは走り出す。俺も続く。
「あんた、ミアを連れてどっか遠くへ移動しなさい」
「は、お前は?」
後ろで、再び音がした。何かが爆発したような。確認している暇もない。
「三人移動するのは無理でしょ、あんたの魔法じゃ。ミアを置いてけっていうの!?」
「いや、さすがにお前、いや、でも」
どうしたらいいんだよ!わかんねえ!ああ、俺はなんで失敗したんだああ。頭が回らねえ。
爆発音が近くなる。
急にナツメは立ち止まり、そばに落ちていた木の枝を取ると、瞬時に凍らせる。
「何してんだ!?」
「は?戦うのよ。爪楊枝にでも見えた?」
怒った口調で、ナツメはよくわからん冗談を言った。
俺は、ナツメの手を握った。
ナツメの手は、震えている。
「はっはっは」
妙に可笑しさがこみ上げて来た。
ナツメが俺を睨む。
「お前も、緊張するんだな」
こいつも人間なのだ。
「当然でしょ、このきも」
ナツメが怒鳴りつけた。最早クロウの原型もない。心地いい。
「とにかく、俺とミアだけで逃げるのはなしだ」
俺はミアとナツメの手を強く握ると、目を瞑った。
爆発音がすぐ背後でした。
ミアの手が、やたらと熱く感じる。まあいい、とりあえずは、だ。どこでもいい。どんかく、行け、行くぞ!
すとんと落ちる。
脳内に映像が流れる。
ぼろぼろの小屋。荒れ果てた畑。小さな納屋。黒い小動物。俺は、その小動物をだっこしている。ここは。
浮遊する。
「最初に着いたところね」
ナツメの言葉に、俺は目を開いた。
周囲を見渡す。
荒れ果てた土地、今にも壊れそうな民家、後ろには、納屋があった。
ずいぶん懐かしいような気もするが、昨日ここを発ったばかりである。
「ここに移動したのか」
「三人でね」
ナツメは、そばでぼうっと立っているミアの頭をなでた。ミアは、ナツメと俺の方を交互に見ると、へたへたと地面に座り込み、くしゃりと笑った。
俺は、はあ、と息をついた。
「お疲れね。あなたのおかげで最悪の事態は免れたわ」
「最高の状況、ってわけでもねえな」
「何贅沢いってんの。三人で移動できて、知ってる場所にこれた。及第点以上よ。それに、はふーで飛んだ距離を考えると、順調に行けば集合地点の山まで二日もかからないわ」
とりあえずは、か。しかし、エンリーと離れてしまったのは確かだ。それにしても、結構な距離を、しかも三人移動させるなど、経験のないことだった。ミアの手がやたらと熱く感じたが、まあとにかく火事場の馬鹿力というやつだったのか。もうできる気がしない。
朝日が優しく俺たちを照らしていた。
俺は、雄大に聳える山を見た。
今から二日であの麓に行かなければならない。エンリーたちが待っている。
「お前、すげえな」
毅然とした態度のナツメを見て、言った。
「何が?」
ナツメは、訝しげに俺を見た。
「いや、さっきまで震えてたのに」
「あれは、武者震いよ。武者震い!それに、切り替えが大事よ」
「あ、そうだ。ちょっとだけ待ってくれ」
俺は、昨日の夢を思い出して、民家の裏にある納屋に入った。
「何してんの?」
「いや、確かここに」
手作り感満載の、古びた小さな机があるはずだ。
山積みになった藁を押しのける。そこには、真ん中がぺしゃりと割れた木製の机があった。引き出しがかろうじて開いた。
「あった」
「なによ、それ」
俺は、引き出しの中から古いノートを取り出した。
「何が書いてあるの」
ページをめくる。最初の三ページしか、使われていない。
「日記だな。内容はずいぶんいびつだが。しかも、ほとんど元の世界と同じ言葉だ」
「そういえば、ミアとのコミニケーションにもなんら支障はないわね」
ミアは、不思議そうに俺たちを見た。
「昔、副世界『ブルー』の人たちとあったことがあるわ。なまりのようなものはあったけど、言葉の壁は全く感じなかった」
「ふーん。なんだ、世界の創造主みたいなのが一緒だったとか、そんなんか」
「安直な意見ね。たぶん、『魂の記憶』が関連しているんじゃないかしら」
「魂の記憶?」
「あんた転生学部でしょ。エンリーとあんたとの差はなによ」
うるせえ。俺の気持ちなどおかまいなしに、ナツメは続ける。
「『魂の記憶に基づく世界構築の類似性』は、高校の授業でやったわよね。魂には一定量の記憶メモリがある。それは、人間の無意識下や潜在意識とよばれるものの一部を構成している。循環する魂は、その記憶メモリをもとに、同じような世界の発展を次の世界でも齎す。たしか、『レッド』と『ブルー』の二世界間の比較のみによる仮説だから、信憑性はまだ薄かったはず。『前世持ち』が特に指示していた説だったかしら。あまり興味なかったから詳しくは覚えていないけど。エンリーがいればね、こういうとき」
充分詳しいと思うのだが。そういえば、『前世持ち』の話は一度エンリーとアリとしたことがあったな。アリは今何しているだろうか。
「それで、なんであんたはそこに日記があるのがわかったの?」
「ああ、昨日、夢ででてきたんだ」
ふーん、とナツメは、興味があるのか、ないのかわからない相づちを打った。
「魂の記憶かもしれないわね。まあ、とにかく行きましょう」
ナツメが小屋を出た。
ナツメの大きな背中に、俺とミアは従った。
魂の記憶。俺の前世は、この家に住んでいたかもしれない、ということか。とりあえず、魂の記憶について今度エンリーに詳しく聞いてみよう。
「そういえばお前、なんでそんなにエンリーのこと好きなんだ?」
「は?」
俺の質問に、ナツメは、少し歩を緩める。
「は、ってなんだよ」
「なんでもないわよ。敵の警戒でもしてなさい」
荒れた畑を横切り、山に向かって一直線に森に入って行く。
「大丈夫だろ。視界も悪いし、敵は俺らがいた山の向こうを探索してるだろ」
ナツメは、何も答えずに黙々と歩く。
ミアは、ちらちらとナツメの方を見ている。ナツメは、苛立、というか、怒っている、というか、見るからにマイナスの感情を纏わせていた。
少しの沈黙を持って、ナツメは淡々と話し始める。
「三つ下の妹がいたわ。私が言うのもなんだけど、妹は私なんかよりもよっぽど天才だった。魔法の才能にも優れていたし、何より博識だったわ。基本的には人見知りなんだけど、学問的な話題になると急に饒舌になったわ。周りが気にならなくなるほど夢中になるのね。家では、両親も、うちは学者一家なんだけど、妹の話を楽しそうに聞いたり、意見を言ったりしていた」
ナツメは、遠い目をする。
「妹はとにかく純粋で。悪意という言葉から最も離れた人間だった。そんな妹がどうしようもなく好きだったけど、同時に、どうしようもなく嫌いだった。ちょうど思春期に入った私は、妬いていたのね。冷たい態度をとったりもしていた。そんなときだった。なにこれ、話しだすと、止まらないわね」
自分自身にあきれたようで、ナツメはため息をついた。
「いいよ、続けろよ」
俺が促すと、ナツメは大きく息を吐き、言う。
「三年前、妹はいなくなった。というより、消えた。部屋から、こつ然と。必死に探したけど、どこにもいなかったわ」
虫の鳴き声が五月蝿い。
「え?で?」
「は?」
「いや、だから、それで?なんでエンリーがそんなに好きなんだ?」
「あんた、馬鹿?流れでわかるでしょ!?エンリーもそういうところあるでしょ。妹に似てるところがあって、面影を見たのよ!かわいいの!そこまで言わせないでよ!」
ああ、そうか。そういうことね。
ミアが、くすくすと笑った。
「ミアもそう思うわよね?クロウは馬鹿よ。ほら、ミア、言って見なさい。馬鹿クロウって」
「何教え込んでんだよ」
「馬鹿クロウ」
いたずらっぽく、ミアが言った。
ナツメは、高らかに笑った。ミアも続いて笑う。
なんだよ。馬鹿だよ。うっせえよ。ああ、エンリーなら俺を慰めてくれるのに。
汗が額に溜まっているのが分かった。長老の言う、「真昼」が近づいていた。




