僕
僕がまだ中学生の頃の話しです。
自分は、歴史という分野にすっかりはまっていました。家に帰れば、歴史の教科書を開き、休日になれば、図書館で日本史、世界史、問わず多読していました。時には、参考書を購入したりして、様々な知識を得ていました。
ですが周囲からは、それに対しあまり好意的な目で向けられることはありません。窮屈ではない程度に、自分から距離を置き、皆平然と生活していました。
当時の自分は、目立ちたいという欲はなく自らが持つ歴史への関心、熱意、能力に自負心を抱いていました。故に、孤高な人間と思われ誰も親近感が沸かなかったのだと思います。
そんな孤高で、軟弱そうな人間だと見られたのか、クラス内で自分に対し、いじめが始まりました。
始めは、消しカスを投げ飛ばしたり、陰口を言ったりと品の無いものでしたが、次第にとどまることはしらず、過激になっていきます。恐怖だけを感じ、そこから逃げることしか考えられない自分は、抵抗も言い返すこともできないままでした。形容しきれない絶望と悲しみを味わい、やがて恍惚だった歴史にも段々と興味は薄くなりました。
心は白紙一枚の様な、破れやすく、壊れやすかった自分にはあまりにも、辛く、苦痛でした。
そのいじめの原因の中心が、歴史へのあまりにも強い好奇心と、脆弱な自分自身だと独断で解釈すると、今度は趣味であった歴史に、自分の怒りを八つ当たりさせました。図書館にもいかなくなり、購入した参考書は、親に全て預け、何もかもを完全に解脱しました。
後悔も勿論ありました。ですが、衰弱しきっていた自分には、とうにただの戯言ととしか感じられませんでした。
急な変貌に動転したのか、親はすこぶる心配していましたが、特異点も無ければ、担任に自分をいじめる生徒を戒めるようにと伝え、戒めた途端彼らが逆恨みをし、余計にいじめが悪化するのではないか、という不安と恐怖で言うことはありませんでした。
耐えるしか方法の無かった自分は、等々閉鎖的な感情も抱くようになりました。元々孤独であり、自負だけに過信していた自分に一人の救世主も味方も現れませんでした。
結局、いじめはそれからも断続的に行われました。
それから時は経ち、とある休日の夕刻。
僕は、空調の効いた部屋で怠惰そうに、テレビを見ていました。気が引かれる様な番組は一切とない為に照明とテレビの電源を切りました。最近の自らが行う行為に、憂鬱や苦味を感じているのです。
いつもなら張り切って図書館にいる時間、恋しくもなければ、逆に思い出すだけでも目障りでした。すると、自分は何を思いついたか、突然に胸の真ん中を強く叩き始めました。歴史で治らなかった分、今度は体に怒りをぶつけ始めたのかもしれないし、無理矢理にでも目障りな気持ちを紛らそうとしたのかもしれません。様々な万感が積もっていたので、あの時、何が答えだったか、今の自分でもよく理解ができません。
散々に自らを痛みつけた後、軽く息があがり軋むほどに、胸倉が悪くなりました。このままではダメだと思い、気分転換に外にでようかと、重い足取りで玄関に向かいました。
自分の家は祖母、祖父の家と隣合わせに建てられています。その二つの家々から隙間から見える西に沈む夕日も、一段と斬新で自らにとっては、美しく見えます。そして外に出ると、風は妙に何かを促すかの様に激しく吹き荒れていました。空を見上げれば、鳥たちは大きな群れを作り、ひたすら南へと飛んで行きます。そんな幻想的な風景に浸りながら、夕日を眺望する為のポジションへと足を進ませました。
すると進むにつれて、今度は祖父達の家から歌が聞こえました。
風に音程は囚われてしまい、ぼんやりとしていて、曖昧な為によく聞き取ることができなかったのですが、何か懐かしいものを感じ、気づけば一歩二歩と自然に歌の方角へ歩んでいました。
近付くにつれ、音程も聞き取れるようになってゆくと同時に、歌いながら縁側で腰を据え、お手玉をする祖母の姿が視界に入ってきました。
「万朶の櫻か襟の色〜花は吉野に嵐吹く〜大和男子と産まれなば〜散兵線の花と散れ〜」
意味はよく理解はできませんでしたが、何の歌かはすぐにわかりました。それは軍歌。ならば、惹かれても仕方がないな、と捨てた筈の歴史への本意を無意識に露わにしていました。
静かにそれを見つめていると、おのずと祖母はこちらに気づいたか、視線を自分に向けてきました。
すると、祖母は唐突に固まりました。歌っていた軍歌は止まり、風の音だけがその場を支配します。
祖母はまるで、懐かしいものを見つめている様でした。潤みが既に無くなりかけていた祖母の目に再び、煌めきが戻り、一瞬驚愕しました。
「徹……さん?」
それは、自分に言ったのでしょうか。聞いたこともない名前に、少々、狼狽えました。
そしてその声は、まるで若々しい響きでした。呼びかけるようにも発した祖母の声は、震え、滴る水のような、儚さを感じました。皺のある頬に、一筋の涙が通り、口は開きっぱなしでした。
非常に子供の様な、みっともない顔でもありました。祖母は、直ぐさま正座していた足を崩して草履をはくと、こちらに一心不乱に近付いてきます。
のろのろとした緩慢な小走りでしたが、目の前まで来ると、突然自分の肩をガッシリ掴みました。激痛が迸るほど大袈裟には強く掴んではいませんが、もう離すまいという強い意思が心の奥底に、濁流の如く流れ込んでくる感覚が体全体に伝わりました。
それは、ただの先入観なのかもしれない、ですが、確信はできました。ただならない悲しみと孤独感。しかしそれは、同情が叶わないほどに分厚く、盤石な壁でした。不意に何故か、不思議と、自分と同じものを感じていました。
没頭していた、大好きだった趣味を、孤独から生まれた何の生産性もない、いじめで失い、そしてどうしようもなかった、後も先もない無限の悲しみ。
同列にいうのは祖母からしたら迷惑なのかもしれませんが、とにかく今は我に返すことが端的に重要なことでした。逆に自分は祖母の肩を握り返すと、必死に揺さぶり始めました。
「ばあちゃん! ばあちゃん!」
八十にもなる高齢者です。懸命な自分の声が行き届くかも分かりません。ですが妥協は許容できませんでした。
何回か、繰り返していると、点々と自らを見つめていた祖母の目に段々潤みは消失して行きました。その後にハッと意識が覚醒すると、
「ごめんねぇ。なんか懐かしくって懐かしくって」
と、先ほどまでとは大違いな、楽天的な表情をみせ、あの若々しく聞こえた声が、いつもの老婆らしい若干、震えぎみの声へ変わりました。突発な出来事なので、まるで騙されているような錯覚に陥りそうになります。すると、祖母はまた縁側へ戻って行き、同じように座布団へ正座をしました。
次第に夕方を報せるカラスの鳴き声も、山の向こうへと消えて行き、空は本格的に夜へと移行し始めました。今日は満月。それを知ると自分は気分が異様に高揚しました。しかし、東の空にある満月を見ながら祖母はただ、しわくちゃな笑顔を浮かべていました。
何を考えていたのかも、その時の自分には到底理解することはありませんでした。