後篇
翌日の放課後、私は阿久津くんと連れ立って新聞社を訪れた。出迎えてくれた沢口さんは30代後半の優しげな顔立ちの男性で、挨拶と共にお悔やみを言った。隼人が階段を踏み外したのはここで取材を終えて帰る時で、救急車を呼んでくれたのは沢口さんだった。事故のことは翌日新聞を見て知ったらしい。
「先日、部長が沢口さんに尋ねた事と、その返答内容をもう一度お伺いしていいですか」
「もちろんだよ」
彼にも言ったんだがあくまで噂ということを考慮してほしい、という前置きとともに沢口さんが話してくれたのは、とても驚くべき内容だった。
当時沢口さんが入学してすぐに新聞部に所属した頃、科学準備室に幽霊が出るという噂を聞いた。何でも部活帰りの生徒が数人、科学準備室の外を通って帰る際に中からこの世の者とは思えない悲痛なうめき声を聞いたそうだ。しかも、それは一度や二度ではなく、さらに去年も同じような声を聞いた生徒がいるという。(ここで沢口さんはまだ若かったから、と照れ笑いをして)興味本位で何度か科学準備室に足を運んだけど幽霊に出会えなかったので、代わりにたくさんの生徒に聞き込みを行ったところ、大鏡にまつわる噂をがたくさん出てきた。
その内容は、隼人と阿久津くんが調べたような異世界に連れて行かれるものや、未来の自分が見えるもの、悪魔を召喚するものなどが大半だったが、ただ一人だけ変わったことを言う人が居たという。
「その人はこう言ったんだ。『あの大鏡は、強く願えば行きたい時に連れて行ってくれる。たった1度だけ、同じ時間の同じ場所に』。その人の言葉は伝聞の形を取っていなかったから、印象に残っているんだ。結局、他に同じ事を言う人が居なかったから新聞には載せなかったけどね」
「その人は今…?」
「先日隼人くんにも同じことを聞かれたのでね、知り合いに調べてもらったんだが…一昨年病気で亡くなっていたよ」
「…そうですか…」
明らかに落胆した私を阿久津くんはチラリと横目で見てきたけど、結局何も言わなかった。その後、他の七不思議について一通り話を聞いた後、私たちはお礼を言って新聞社を後にした。帰り道はお互い一言も口をきかずに黙々と街頭に照らされた道を歩いた。私はある考えに気を取られて、彼の思案に沈む表情には全く気付かなかった。
その翌日から、私は何事にも精力的に取り組んだ。遊びも、勉強も、部活も、家の手伝いも。何かに夢中になっていれば、余計な事を考えずに済んだから。いつのまにか私は3年生になっていて、祐子と同じクラスになった。夏には学力は中の下くらいだった成績が上位に食い込むぐらいに目に見えて向上し、志望校のランクを上げないかと何度か教師に打診されたほどだ。だけど、私はそのすべてに首を振った。
だって、来年の今頃は、私はここには居ないのだから。
今度は、私が、隼人を助けに過去へ行く。
どちらか一人。そう予感していた。二人とも助かる未来が全く見えなかった。
隼人が死ぬか、私が死ぬか。その二択しかないのなら―――答えは一つだ。
隼人が居なくなってから、私にはマンションの下から5階を見上げる習慣ができた。5階の一番はしっこ。家に帰るたびにどうしても彼の部屋を確認してしまう。隼人の部屋はいつでも真っ暗だ。それがこの上なく悲しくて寂しい。
隼人のことなんて好きでも何でもない。兄妹同然なのだから。
そう思っていたはずだったのに、彼がどんなにかけがえのない存在だったかやっと分かる。
居なくなってから気づいても遅いんだ。
キレイな花を見つけても、おいしい料理を食べても、一緒に分かち合う人がいなければ意味がないんだ。
あの後、何度か科学準備室へ足を運んで大鏡に強く願ってみたけど、何も起こらなかった。やはり、12月24日じゃないとダメなのかもしれない。
春には新聞部に新入生が数人入り、夏には学園の七不思議特集を無事に発行して私は部活を卒業した。それ以来、阿久津くんとも疎遠になっていった。
そして時は流れ―――とうとう、12月24日がやってきた。
今年も例年通りに終業式を終え、クラスで通知表を配布し終わると昼前にホームルームは終了した。去年と違うところといえば、教師が年末年始のしっかり勉強しろ気を抜くなここが正念場だぞと言ったことくらいだろうか。年明けにはセンター試験があるため、推薦ではない生徒たちは休みであって休みでない、そんな冬休みの幕開けだ。しかし、何といっても今日はクリスマス・イヴ。はしゃぐなという方が無理だろう、祐子やクラスメイトたちとファミレスを占領し、昼ご飯を食べる。サプライズで誕生日プレゼントももらった。皆ともこれでお別れだと思うと感慨深い。
うちの両親は今頃、隼人のご両親と一緒に墓参りに行っているはずだ。今日は私の誕生日であり、そして隼人の命日でもある。
でも、私は墓参りには行かない。だって、もうすぐ隼人は死んでないことになるんだから。
皆と別れを告げ、学園に戻ると時刻は3時前を示していた。今から過去へ跳べば十分に間に合うはずだ。ガランとした職員室で鍵を拝借し、科学準備室に入る。ホコリと薬品の匂いに包まれ、大鏡はその存在を主張していた。
私はおそるおそる鏡に近づく。そして、鏡に手を伸ばす。1年、待った。待ち続けた。私にとって、隼人が居ないこの1年は永遠と思えるほど長かった。それもようやく今日で終わりを迎える。
神様でも悪魔でもいい。私を1年前の12月24日に連れてって。隼人が生きていた、あの時に―――!!
縋るように鏡に身を寄せると、その瞬間、鏡から大量の光が溢れた。あまりの眩しさに驚いて一瞬身を引くと、鏡の表面が波紋を描くように波打っている。奇跡は起きた。私は深呼吸を一つすると、ためらいなく鏡の中へ跳び込んだ―――。
「う…ん…」
目を開けると私は猛烈なめまいと吐き気に襲われた。どうやら気を失っていたらしい。気持ち悪さをこらえて身を起こすと、私は科学準備室の大鏡の前に居た。まさか、過去に戻れなかった!?いや、でも、微妙に雰囲気が違う気がする…。実験器具の置かれているテーブルで体を支えながら何とか立ち上がると、壁に掛かる日めくりカレンダーの日付が視界に入り、驚きと喜びで私の心臓は止まりそうになった。
2011年12月24日…!私、過去に跳べたんだ!!
そう喜んだのもつかの間、カレンダーの上にある時計を見て愕然とした。
4時10分!なんてこと!!1時間以上も気絶していたなんて…!
事故があったのは5時過ぎ、急がないと間に合わない…!
めまいと吐き気を堪え、私は走りだした。1時間に一本しかないバスは4時ジャストに出発してしまっている。閑静な住宅街にはタクシーすら走っていない。大通りまで走り、何とかタクシーを止めると「駅前まで!お願いします、急いでください!」と運転手に叫んだ。でも、駅前まで数キロというところで渋滞に巻き込まれてしまった。思い出した、あの日もそうだった…。
私は、タクシーを降りて必死で走った。間に合わなかったらどうしよう、いや、間に合わせてみせる。逸る気持ちばかりが先行し、思うように進まない自分の足が憎かった。
ようやく遠くに駅前が見えてきた頃には、事故まであと5分に迫っていた。走りながら祈る気持ちで電話を掛ける。過去の隼人でもいい、未来の隼人でもいい。お願いだから、電話に出て…!
お願いだから、私を助けないで…!
「…はい」
「…!|隼人!?今どこ!?」
「…笑…もしかして、未来から来た?」
電話に出たのはやはり、未来から来た隼人だった。向こうも走っているのか、息が荒い。
「俺、こっちに昼過ぎには来てたんだけど、あまりにひどいめまいで倒れちゃってさ。ほら、俺って三半規管弱いから。んで、目が覚めたらこんな時間でさ。いやぁ間に合わないかと思って焦った焦った。過去の笑に電話もメールも何でか出来なかったし。でも、お前が来たってことは、俺、間に合うんだな。良かった…」
「全然良くないよ!ねぇ、お願いだから私を助けないで!」
「それは無理。だって俺、お前が死んだ後、死ぬほど後悔したんだ。あの日、階段から落ちなかったら。取材なんか行かずにまっすぐ家に帰っていたらって。おばさんも、お前に電話したことすげー後悔してた。今でもずっと。だから、ここに来た。今度こそ、お前を救うために」
「やめて!そのせいで、隼人が死んじゃうんだよ…!」
「それでもいい。…ごめんな。これ、ただの自己満足。俺、どうしても笑には生きてて欲しいんだ」
「隼人が居なくちゃ、生きていけない!生きていけないよ!!」
「俺だってそうだ。笑が居なくなってやっと気付いたんだ。どんだけ、大切な存在だったか」
「隼人…!」
「笑、笑って。ずっと笑ってて。そんで、幸せになって。俺・・・笑のこと、大好きだから―――」
「やだ、隼人…!」
「見つけた、1年前のお前―――!」
「やめて!行かないで!私も…私もずっと隼人のこと…!」
その瞬間―――車のブレーキ音と悲鳴が辺りに響き渡った。
「!!」
間に、合わなかった―――――――。
突然立ち止った私に周りの人の肩がぶつかる。
足がすくんで動けなくなった。
あと十数メートル先に隼人が居るのに。
もう一度会いたくて、助けたくてここに来たのに。
私は何のためにここに来たんだろう…
私は、何て無力だったんだろう……
強烈なめまいと吐き気に襲われ、周りの景色がぐにゃりと歪む。突然まぶしい光が私の目を刺し、とっさに手で光をさえぎる。
光が消えると、そこは科学準備室だった。はっとして壁のカレンダーを見ると、2012年12月24日。元の世界に戻ってきてしまった。
「やだ…!隼人…!!」
もう一度過去に跳ぼうと大鏡にしがみついたけれど、何の変化も見られない。ただただ、冷たく私を跳ね返すばかりだ。
「どうして…どうしてなの?お願い、もう一度だけでいいから…!」
私は鏡を叩く。何度も、何度も。頭ではもう無理だと分かっていても、感情が追いつかない。チャンスは一度きり。私はもう過去には戻れない。私は泣きながらその場に崩れ落ちた。
私は、二度も隼人を失ってしまったんだ。
そうか。今分かった。
沢口さんが言ってた、科学準備室から呻き声が聞こえる幽霊の話。
あの幽霊の正体は私だったんだ。
きっと、その人も私と同じように時を跳んだんだ。
そして願いを遂げられずにここで絶望に打ちひしがれたんだろう。
今の私のように―――。
その時、科学準備室のドアが開く。はっとしてドアに顔を向けると、そこには阿久津くんと、祐子が立っていた。
「笑、こんなところに…!無事で良かったぁ!」
祐子が泣きながら私に抱きついてくる。訳が分からずに阿久津くんに目をやる。どうしてここに居ることが分ったんだろう。
「先輩が家に帰ってこないと心配した親御さんから彼女に連絡があったそうです。で、彼女から僕に。だから一緒にここに迎えに来ました」
「どうして…」
「気付いていないとでも思ってましたか。先輩は考えてることが手に取るように分かりますから。…で、部長には会えましたか?過去に行って来たんでしょう?」
「……!」
どうやら、本当にすべてお見通しらしい。気づいていて、それでもなお私のやりたいようにやらせてくれたのか。それなら、私が隼人を救えなかった事にもきっと気付いているはずだ。なのに彼は私を責めない。
だから余計に自分を責めた。無数の後悔が後から後から押し寄せてくる。
「助け…れなかった…。私は、二度も、隼人を失ってしまった…!私が、あの時ちゃんと死んでいれば、隼人は死なずに済んだのに。私が死ねば良かったんだ…」
そんな私に、阿久津くんはつかつかと近寄り、しゃがんで目線を合わせたかと思うと私の頬を全力で平手打ちした。
「な…!」
「あんたは過去に跳んでなお、そんなこと馬鹿なこと言ってんのか!部長の気持ちが分んないのか?あんたに生きてて欲しかったんだよ!あんたのことが、好きだから…!」
いつも丁寧な口調と無表情の阿久津くんの暴挙と暴言に、私は涙も忘れて打たれた頬を抑えたままポカンと彼を見上げた。横で、祐子も同じように驚きに目を見開いている。
「生きてて欲しいから!だから過去へ行ってあんたを助けたんだろ!そのくらい分かれよ!だから、二度と過去へ戻ろうなんて考えるなよ!部長の想いを無駄にしやがったら承知しないからな!分かったか!?」
「……」
「返事!!」
「は、はいっ!」
阿久津くんの剣幕に負けて、私は慌てて返事をした。急かされて家に電話を入れると、お父さんが学園まで車で迎えに来てくれた。心配かけて、と、お父さんにも頬をぶたれた。家に帰るとお母さんが心配したのよ、と泣きながら抱きしめてくれた。家には隼人のお母さんも居て、お帰り、と言ってくれた。
正月、祐子に初詣でに誘われて久々に家を出ると、待ち合わせ場所に阿久津くんが来ていた。
「この前は、叩いてすみませんでした」
「ううん。謝るのは私の方。ごめんね」
「いえ。僕も思わず感情的になってしまいましたから。…これ、差し上げます」
「?なに?」
阿久津くんが渡してきたのはA4サイズの大きな茶封筒。表にはH大入学試験願書と書いてある。
「それ、部長が行きたいって言ってた大学のものです」
「!どうして…」
「だから、先輩は分かりやすいと言ったでしょう?いつか、行きたいと言うんじゃないかと思って、取り寄せておいたんです。今から取り寄せても間に合いませんからね」
確かに、隼人が目指している大学に行きたくなってHPを調べたら、願書が間に合わないと知ってガッカリしたのはつい一昨日のことだった。私ってそんなに分かりやすいの!?と不安になってきた。
「ちなみに、提出期限は10日です。余裕をもって提出しくださいね」
「分かった。ありがとう!」
お礼を言って受け取ろうとすると、あとちょっとというところで封筒を取り上げられ、私の手は宙を舞った。
「あれっ?」
「まさか、タダで譲るとでも?見返りのない厚意はこの世に無いと思いませんか?」
「えぇ~お金取るの!?あっ、とりあえず、甘酒でどう?」
「…仕方ないですね。今日はそれで手を打ちましょう」
そう言って封筒をポンと私の手の上に置いてくれた。今日は、という部分に若干の引っかかりを感じたものの、気にしないことにする。
「ねぇ、阿久津くん」
「何ですか」
「どうして、私が過去に行こうするのを止めなかったの?」
すると阿久津くんはどうせ止めたって先輩は行くでしょ、とそっぽを向きながら一人ごちた。それはまるで仲間外れにされて拗ねてる子供みたいだった。
その時、遠くから、ごめぇ~ん、遅れちゃったぁ~という、祐子の声がして、私は振り返って遅ーい!と言いながら手を振った。
入学試験は2月の頭だった。もともと私立文系クラスにいたので試験の科目に変更は無かったものの、大学によって出題の傾向がガラリと異なるのが普通だ。私はその日から寝る間を惜しんで勉強した。何かを忘れたいための時間つぶしより、明確な目標を持って臨む勉強の方が遥かに有意義だと思った。
試験前日はさすがに緊張していた。地方で試験を受けれる大学だったので、試験会場は市内の予備校で行われることになっている。今日は軽くおさらいだけして早めに寝て明日に備えないと…。
その時、ドアを遠慮がちにノックする音が聞こえた。はい、と応答すると、お母さんが静かにドアを開けて顔を覗かせる。
「どぉ、調子は」
「ん、まぁまぁかな…」
「いよいよ明日ね。笑が志望校を変更するって言い出した時は驚いたけど、頑張ってるあなたを見て安心したわ。あの事件以来、必死な顔で勉強ばかりしてるあなたをお父さんも心配してたのよ」
「…ごめんなさい。でも、どうしても行きたい大学ができたの。隼人の、行きたかった大学なんだ」
「行ってどうするの?隼人くんの夢を代わりに叶えるつもり?」
「…それは、まだ分からない。だけど、…隼人が見るはずだったものを見てみたいと思ったんだ。行くはずだった大学。歩くはずだった道。そして、…隼人出会うはずだった人たちに、私も会いたい」
…そうすれば隼人と一緒に居れる気がするから、とは心の中だけで思う。
「そう。…きっと喜んでくれるわね」
お母さんは目を潤ませて微笑んでくれる。私の頭を数度なでた後、しんみりとしてしまった空気を換えるかのように元気溌剌な笑顔に変えた。
「さ、そろそろお母さんは夕飯作んなきゃ!笑、今晩は何が食べたい?お母さん、笑の好きなものなーんでも作ってあげる!」
嬉しいお母さんの言葉に、私は少しも悩まずに満面の笑顔で答えた。
「お母さん、私、大根カレーがいい!!」
ずっと食べていなかった、隼人の大好なお母さんの味。
そして、3月。私は隼人の志望していた大学に合格して卒業式を迎えた。「僕がここまでお膳立てしたんですから、まさか落ちたりしませんよね?」という試験前日に掛かってきた阿久津くんの激励という名の脅しが功を奏したのかもしれない。(電話口で合格しなきゃ殺される、と真剣に思ったから合格発表の日はまさに生きるか死ぬかの瀬戸際だった)祐子も無事に地元の大学に合格した。
卒業式の朝、玄関からお母さんの声がのんびりした聞こえる。今日はお母さんも式に参列する予定だ。
「笑ぃ、急がないと卒業式遅刻しちゃうわよー
「はぁい!今行くー!!」
私は制服のリボンを鏡で確認し、ハートのネックレスを首から掛けて部屋を出た。
卒業式終了後、正門を出て学園の校舎を仰ぎ見る。
壁も、窓も、空も、木も。すべてのものに暖かい光があたって、世界が輝いて見える。
――――隼人、見てる?
私、卒業したよ。
隼人の行きたかった大学にも合格したよ。
ちゃんと生きてるよ。
…ちゃんと、笑ってるよ。
あの時、言えなかった事を言ってもいい?
隼人、大好きだよ。
ずっとずっと、――――愛してる。
「時をかける少女」という作品が大好きで、この作品が生まれました。お気に入りキャラは阿久津くんです。最初は少ししか登場しない予定だったのに、いつのまにかこんなにでしゃばってました。彼は笑というより、部長ラブです。