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日曜の午後、買い物を終えてアパートまでの道程を運転中、私はふと、昨日空き家の門を開け放したまま帰ってきたことに気づいた。
あの時はわかっていたけれど閉めて帰る心の余裕がなくて、そのままにしてきてしまったが、一日して冷静になって考えると、非常に心配になってきた。
泥棒が入っているんじゃないか――何もない空き家に、泥棒が入るわけもないのだが――、子供達が入ってきて悪さをしているんじゃないか、など、悪い方へばかり考えがいってしまう。
「――」
三秒考えてからハンドルを大きく切って方向転換し、私はまた空き家へ向かった。
そういえば、あの幽霊はまだいるのだろうか。
思い返して、私は少し笑ってしまった。
あれはなかなか変な幽霊だった。
生きているみたいに反応する。あの透け透けの体で。
言葉が通じるなら、霊界に透がいるのかどうかでも聞けたのに。
「あ――」
文房具店の看板を前方に確認した時、私はあることを考えついた。
「――まだ、いるかな」
何故かわけのわからない予感を確信して、私は店の駐車場へと入った。
こうして冷静に見てみると、確かに空き家は幽霊の出そうな雰囲気をかもしだしていた。
私は門に下げてあった立入禁止の札を直してから中へと入る。
決して大きくはないが、しっかりとしたつくりの家。
がっちりとしたドア。
白くなった床。
差し込む日差しの中で、塵が舞っている。
遠くで聞こえる子供の声が、逆にここを隔てられた空間へと錯覚させた。
透はこの家を好きだと言っていた。
透がいた時から、この家にはほとんど家具を初めとする生活用品がなかった。
透が一人では多すぎるからと売ってしまったのだ。
そのお金は透の放浪資金に消え、だからこの家は、透がいても空き家と同じだった。
透は、物に執着しなかった。
何も持たない方がかえって多くを得るのだと、言っていた。
言葉通り、透はいつでも自由で、何にも持たずに全てを持っていた。
私はそんな透が好きだった。
羨ましかった。
透はいつだって、私とは違っていたから。
「――」
風がガラスを揺らす音が、私を正気に戻した。
見上げると、階段の踊り場の窓が枝とぶつかっていた。
階段を昇ると見える突き当たりの部屋が透の部屋だった。
やっぱりその部屋にも家具はなく、唯一透のお気にいりだったこげ茶色の木の揺り椅子とガラスのテーブルがあった。
昨日あの部屋に入った時は気づかなかったけれど、あそこにはまだあの椅子とテーブルが埃まみれの白い布を被ってあるはずだ。
目の前の扉の向こうに、前に見た光景が浮かぶ。
埃だらけの床に座り込んで本を読んでいた透は、今はもう過去のことなのだ。
私は、静かに扉を開けた。
「――」
予想通り、幽霊はやっぱりまだそこにいた。この前と同じに、そこに立っていた。
私を見て驚いたような顔をしていたが、やがてためらいがちに笑った。
「こんにちは」
私も笑った。
私は持っていたバッグの中から、お店で買った大きなスケッチブックとマジックペンを取り出した。 そして太いマジックで、こんにちは、と書いた。
それを見せると、幽霊は笑いながら頷いた。
我ながらうまい手だと、私は思った。
どちらも声が聞こえないのなら、視覚に訴えればいいのだ。
手話という手段もあったのだが、私はそれを知らないし、幽霊も知っているとは思えなかったのでこれはやめた。
あなた名前は? どこから来たの?
書いたものを見せると、幽霊は黙って首を振った。
わからないの?
また、幽霊は首を振った。
私を見つめる瞳は、困ったような、子供を諭すような、穏やかなものだった。
「――」
私は、それ以上、この質問を聞いてはいけないのだと悟り、だが彼に対する興味は尽きずに、新しい質問を紙に書き込んだ。
ここで 何をしているの?
透けた腕が突然動いたので、私は内心びっくりした。
幽霊の腕は真っすぐに伸ばされ、扉を指差していた。
「何?」
幽霊は、遠い瞳をして扉の向こうを見つめていた。
哀しそうに、見えた。
誰かを待っているの?
彼が頷く。
恋人?
恋人という文字に、幽霊は笑みを浮かべてもう一度強く頷いた。とても、愛しげに。
その人も幽霊?
驚くべきことに、幽霊は首を横に振った。
「生きてる人!?」
私は思わず言葉にしていた。
聞こえなくても、私が何を言ったのかはこの反応でわかったのだろう。頷いて笑う。
来てくれるの?
確信を持って、幽霊は強く頷いた。
「――同じなのね」
幽霊は首を傾げる。
「同じ。私も。同じ」
ゆっくり、私は言った。
「わかる? 私も、同じ」
今度は幽霊が、びっくりした顔をした。
お な じ?
唇が、聞き返す。
「そうよ。同じ」
私も 待ってるの
私が紙に書くと、幽霊は、また、唇を動かした。
「何?」
だ れ? こ い び と?
短く、ゆっくり唇は動くので、多少透けてはいるが、何を言いたいのかはわかった。
「そう。私も、あなたと同じ。ずっと、待っているの――」
今度は、私が頷いた。
そうして、私は透のことを、書いた。
ゆっくりと、少しずつ、大切な想い出を、私は幽霊に長い時間をかけて語った。
幽霊は、もちろん黙って聞いていた。時折楽しげに、時折切なげに、時折哀しげに、頷いて聞いていた。
私は嬉しかった。
長い間、私は透のことを誰とも話していなかった。
楽しかったことだけが、鮮明に想い出される。
想い出す透の顔は、いつも穏やかに笑っていて、それだけで私を幸せにした。
窓から差し込む赤紫が日の傾きを教えるまで、私と幽霊は無言の会話を続けていた。
風が窓を揺らして、別れを催促しているようだった。
もう 帰らなくちゃ
紙に書くと、幽霊は頷いた。
少し哀しそうに笑っていた。このまま帰るのが気が退けるほど。
「また、来てもいい?」
私は紙を見せながら、ためらいがちに言った。
幽霊は一瞬驚いた顔をして、それから、人懐っこい笑みを浮かべた。
唇が動く。
「――」
き て ま た き て
私は、すごく嬉しかった。
「また、来る。必ず。来るわ」
私が手を振ると、幽霊もひらひらと手を振った。
嬉しそうに笑ってくれた。
さ よ な ら
「さよなら」
私は上機嫌だった。
私は、新しい友達ができた。しかも、彼は幽霊なのだ。
幽霊らしくない、けれど、本物の幽霊。
こうして、私と幽霊の奇妙な交流が始まったのである――




