16
「とおる――」
何も変わっていなかった。
透は最後の時から何も変わらずに、優しい笑みを浮かべて私から少し離れたところに立っていた。
別れたあの日と同じ、濃いグレイのシャツを着て、前髪をのばしかけたまま。
そういえば、髪を切りにいくと、最後の日話していたのだ。
「とおる」
何も変わらない、あの日のままの透。
「とおる」
私はただ透を呼んだ。
「とおる、とおる、とおる、とおる――」
言いたいことがたくさんあったはずなのに、いざ透を前にして、私は何もできずに立ち竦むだけだった。
嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
心のどこかで、私はもう一度透に会えると思っていたから、だから、ずっと独りで待っていた。
今、それはかなったのだ。
透がいる。
透がいる。
確かに、私の前に透がいるのだ――
「――」
不意に透の唇が動いて、何か言葉を綴っている。だがそれは、私には聞こえなかった。
「何――?」
私は少女を振り返ったが、彼女は何も言わずにただ首を振るだけだった。
私は透の言葉を知ろうとして、必死で唇を見つめた。
透はある程度間隔をおいて、何かを話していた。
「とおる――何? なんて言ってるの?」
私は泣きだしそうになりながら、それでも必死で透を見つめた。
そして、ふと透の唇が止まり、静かに笑った。
ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「とおる――」
透は私の前に佇んで、黙って懐かしそうに私を見つめていた。
背景を透かす体。
それが私に、透の死を前よりももっと強く感じさせた。
「あなた、本当に死んでしまったのね……」
この三年、心のどこかでは信じきれていなかった透の死を、今やっと、私は受け入れなければならなかった。
帰ってこなかった透。
戻ってこなかった透。
遺体すら、私のもとには帰ってこなかったから、だから私は待っていられた。
いつかひょっこり帰ってきて、また私の前に現れてくれると信じていられた。
けれど、今、それは壊れた。
私は透の死を受け入れ、独りで、歩きださなければならなかった。
「――なんで死んじゃったの? なんでおいていっちゃったの? とおる、答えて! とおる、ちゃんと答えてよ!!」
悔しかった。
哀しかった。
何故、透でなければいけなかったのか。
何故、透が死ななければならなかったのか。
そんな考えだけがぐるぐると空回りしている。
何故、他の人ではいけなかったのかと。
私には透さえいればよかった。
他の誰が死んでも、透さえ生きていてくれたらそれでかまわなかった。
なのに、透は死んでしまった。
なのに、透が死んでしまった。
私は幸せになれるはずだったのに、それは私から奪われてしまった。
「とおる……」
透は、私の頬にその透ける手を伸ばした。
何も感じない。
当たり前のことなのに、なんて哀しい。
こういうことなのだ、死は。
もう二度と、触れることもない。
もう二度と、声を聞かない。
もう二度と、会えない。
これはさよならなのだ。
あの時、透が死んでしまった時、できなかったさよなら。
そして私はまた、明日から独りで生きていかなければならない――たった独りで。
「……」
私は、同じように透の頬に手を伸ばした。
ほんの少し伸ばしただけで、私は透をつきぬけてしまう。
まるで夢を見ているようだった。
前に透と見た、映画のよう。
ストーリーは全然違うけれど、あの結末も、こんな風だった。
BGMはなく、まばゆい光もない、ひっそりとしたものだけれど、これは私達の別れのシーンなのだ。
言葉も、交わせない。
触れることすら、できない。それでも。
私達はただ、互いを見つめていた。
見つめることしか、許されなかった。
何か言えば泣いてしまうことが、私自身にもわかっていた。
「――」
透の唇が動いた。
静かに、透は短い言葉を繰り返した。
ゆっくりと、綴る言葉。
ゆっくりと、一言ずつ――
「とおる……」
私は、その言葉を解した。
涙が、溢れた。
「とおる――!!」
とびきりの笑顔で、透は私の唇に自分の唇をあわせた。
それが最後のキス。
決して触れない、さよならのキス。
透は静かに、背景に溶けた。
「とおる……とおる――っ!!」
とびきりの笑顔を私の心に焼きつけたまま、透は私の前からいなくなった。
いってしまった。
透はいってしまった、今度こそ本当に。
私はその場に崩れ、両手で顔をおおって泣いた。
「――聞いたね」
少女の声が頭上で響いた。
私は顔を上げずに頷いた。
「忘れないで。
想い出だけが、心をつなぐから。
忘れた時、本当に永遠の別れがくる。
忘れなければ、いつかきっと、あなたたちはまた会える――」
私は何も言わなかった。
静かに、彼女は私から離れた。
「さよなら、律をありがとう」
足音が止まって、そう聞こえた。
私はやっと顔を上げ、扉の向こうの彼女と彼を見た。
二人はとても綺麗だった。
二人だから、綺麗だった。
「ありがとう――」
私はそれだけを言った。
扉を閉めずに彼らは私の視界から消えた。
彼らがいなくなった扉の向こうから、やがて穏やかな風が吹いた。