15
困ったような、哀しい顔をして、幽霊は私の前に座り込んだ。
そういえば体なんかないのに、どうして床をすりぬけていかないのだろうかと、私は全くこの状況に関係ないことを考えていた。
「――」
そんな私の思いとは裏腹に、幽霊は心配そうに何かを言った。
私は唇の動きを追う。
ゆっくり、彼は繰り返す。
な か な い で
何度も、彼は繰り返す。自分の方が泣きだしそうに哀しい顔をして。
私の哀しみは彼の哀しみであり、彼の哀しみは私のものだった。
「――」
私はまた泣きたくなった。
感じる前にもう涙は溢れて、私はただそれに、身を任せた。
ずっとこんな風に泣いていなかった。
ずっと、こんな風に自然に泣きたかった。
この三年、私は透を想っていたが、泣きたくなったり、泣いてしまうと、いつも別のことを考えるようにしていた。
泣いてしまえば止められなくなる。
忘れるようにしていた哀しみまで思い出してしまう。
だから、いつも楽しいことしか思い出さないようにしていたのだ。
透と過ごした短い日々を、楽しかったあの日々だけを。
「……とおる……救けて……」
徐々に薄れていく想い出。
幽霊には、迎えに来てくれる恋人がいる。
でも私には、それしかないのに。
だから必死で何度も、何度でも、思い返した。
けれど。
透、このままじゃ想い出が消えてしまう。
中途半端な状態で、心が揺らいでしまう。
さよならもせずにあなたは逝ってしまったから、私はいつまでも中途半端なままだ。
人が死ぬっていうのは、あっけないものだよ。俺の両親は車で買物に出かけたまま帰ってこなかった。本当に、それだけのことだった。だから、深く考えないことにした。
いつか死ぬなら、その時まで悔いのないようめいっぱい遊んどこうと思う
透、苦しいの。
あなたのいないつらさなら、もう耐えられる。
でも、あなたは私にさよならさえ言わなかった。
不意にいなくなっただけの、いつか帰ってくると期待させる、そんな別れはいやなの。
私は、あなたと、もう一度会いたい――
「律!!」
不意に、澄んだ響きの声がした。
風のように、声は哀しみを解放した。
「――」
振り返ると、扉の前に髪の長い少女が立っていた。
幽霊とよく似た顔立ちの、透き通るように透明な印象の少女。
切なげに、私の背後の幽霊を見つめている。
それが、彼の待っていた恋人であると、私にはすぐにわかった。
「ごめんね、遅くなって……」
静かに二人は近づいて、まるで特撮のように抱きあった。
普通の恋人たちが交わす抱擁のように、互いをすりぬけることなく、当たり前のようにそうして寄り添っていた。
演技ですら、こううまくはいくまい。
力が、あたりに満ちていた。
二人を中心にして、強い、視えない何かが感じられた。
「――」
私にはわかった。
彼らは特別なのだ。
たとえ片方が幽霊でも、そんなことは関係ないほど、彼らは私達とは違うのだ。彼が、まるで生きているように感じられるのも、少女が、彼に触れられるのも。
だから、彼は、ずっと独りで彼女を待っていられた。
だから、彼女は、彼を見つけることができた。
彼らは、特別だったのだ。
長い、美しい抱擁の後、少女は緩やかに私を振り返った。長い髪がひるがえる。
「律を、ありがとう。あなたにとても親切にしてもらって嬉しかったって言ってる」
「――あなた、わかるの!?」
大人びた顔立ちに無邪気な笑顔が浮かぶ。
「ええ。私は誘。律を探していたの。
とても強い想いが、律をここに呼んで、私を待っていたから。
あれは、あなたの恋人だったのね――」
「とおるが――?」
少女は遠い瞳で、空を見上げた。
「遠い海が、視えたの。
彼はずっと独りだった。そして、待っていた。自分の声を聴くものを」
誘という少女の言葉は私を愕然とさせた。
そうだ、確かに透は海で死んだ。たった独りで。
では、これは偶然ではなかったのか。
透が、私達をここへ引き寄せた ?
「あなた、霊能者か何か?」
かすかに少女は微笑った。
「――似たようなものね。私は、人でないものの声を聴くことができるのよ」
人でないもの。
その言葉はすんなりと私の耳に入った。
確かに彼も透も、もう、人ではないのだ。
「いいわね、あなたは。あなたは彼に触れられるのね。言葉を交わすことも、できる」
曖昧な笑みを、彼女は私に返した。
「――あなたの願いを、今だけかなえてあげる。今だけ、あなたが一番会いたい人を呼んであげる」
「あなたに、できるの?」
少女は笑って頷いた。
「ええ。今だけなら」
その仕草までが、幽霊と驚くほど類似していた。
恋人だと知らされていなかったら、兄妹にしか思えないほど。
「静かに、心を開いて。
彼を呼んで。
想いが本当なら、彼は来る」
少女の瞳は、吸い込まれそうなほど深い黒色をしていた。
私はじっとそれを見ていた。
「さあ、彼を呼んで。強く。強く――」
言われるままに私は心の中で透を呼んだ。
強く、強く、透を呼んだ。
ゆっくりと少女は私から離れた。
きつく眼を閉じて、私は想った。
長い時間が過ぎたようにも思われた。
やがて。
「――」
不意に感じる何かの気配。
私の体は震えた。
それはひどく、懐かしさを感じさせる気配だったから。
私は、ゆっくり目を開けた。
「と……」
そしてついに、私は待ち続けた人を、そこに見つけたのだ――




