12
そして日曜。
高木さんが私を連れていってくれたのは、駅前の通りを一つ外れた静かなレストランだった。
落ち着いた感じのいい店だと思った。
明るすぎない照明。
静かに流れるクラシック。
高木さんに合っている。
「すごく感じのいい店ですね」
「気に入っていただけてけて嬉しいです。前に一度連れてきてもらった時、俺も気に入って、また来たいと思ってたんです」
嬉しそうに高木さんは笑った。それを見て、私も笑った。
この人は、とてもいい人だ。素敵で、優しい。好きになったら、きっと幸せにしてくれるだろう。浮気もしそうにないし。
笑って話をしながら、私は心の中で高木さんを自分なりに分析していた。
「 この間の、話なんですけど」
そう、高木さんが切りだしたのは、料理もすっかり食べ終え、食後のコーヒーをウェイターが運んでいった後だった。
「返事、聞かせてもらえますか」
この時が、来るとは思っていた。食事の後に、こんな風に切りだしたのは、もしかしたら高木さんも、この時を少しでも引き伸ばしたいと思っていたからではないだろうか。
「ごめんなさい」
言うべき言葉を、私は口にした。
嫌な気分だった。例えどんな理由であれ、誰かを傷つけるのは。
「高木さんは素敵な方です、私にはもったいない人です。でも、駄目なんです」
まるで小説のようなありきたりで陳腐な言葉しか、私は言えなかった。
「 やっぱり、忘れられませんか」
高木さんの口調は、どこか納得したようなものだった。まるで初めからわかっていたように。
私は顔を上げた。
精一杯の好意を示してくれた人に対して私のできる、精一杯の礼儀だった。
「忘れられないと、思います。あの人がいなくなって三年、その間、私は大学を卒業し、社会人になりました。あの人がいなくても生きていけます。日常に追われて、あの人を忘れて、仕事で泣くことも毎日じゃない。どうにか教えていくことにも慣れました。生徒たちもかわいいし、忙しいけれどやりがいもあります。
今はこれで精一杯なんです。あの人がいなくても私は生きていけるけれど、あなたとお付き合いすれば、私また、あの人のこと思い出して過ごすことになります。あなたとあの人を比べてしまうでしょう。あの人は、特別だったから――」
私が一番望んだ時に、あの人だけが私をわかってくれた。過ぎてしまったことでも、私には、大事な想い出だから。
「俺、我慢強いほうだから、いつまでも待ってます――って言っても駄目ですか?」
「――」
私は首を横に振る。それしかできなかった。
答えは、一番初めから決まっていたことだった。
「ごめんなさい――」
笑えなかった。でも、泣かなかった。
「いえ、いいんです。こうなるだろうってわかってましたから」
それでも変わらない高木さんの笑みは、私に締めつけられるような痛みを与える。
「どんな、人でした?」
何もなかったような、穏やかな問い。
「え?」
「――あなたの彼は、どんな人だったんですか?」
高木さんの言葉に、透の面影が浮かぶ。
私の思い起せる透はいつも笑っている。透はいつも、優しい感情しか見せてくれなかった。だからいなくなってさえ、こんなに優しく想い返せるのだ。
もしも、もっとどろどろした感情や、人間らしい怒りや、汚らしいところを見せてくれていたら、私は透を忘れられたかも知れない。
大人になって、綺麗ごとだけじゃない生き方を自分も学んだ。
それでも、付き合っていたころ、世間知らずな甘ったれの大学生の私から見ても、どこか浮世離れしていた透と同じような生き方をしている人を、私は見たことがない。そして、これからも見ることはないだろう。
「優しい、人でした――」
この三年、何度も思い返した懐かしい人。
私にとって、誰よりも大事な人。
「――いつも夢を見てるような、風みたいに自由な、一人でも生きていける、そんな奔放な、惹かれずにはいられない、そんな、人でした――」
そしてもう二度と、帰らない。
帰ってこないのに、何故私は待ち続けるのだろう。
こんなに素敵な人と新しい恋を始められないのだろう。
「――羨ましいですね……」
吐息のような、呟き。
「――」
椅子を引いて、高木さんは立ち上がった。
「すみません。しつこく誘って。俺、帰ります。送りもしない嫌な男だって、忘れてください」
何もなかったようにゆっくりと去っていく高木さんの背中を見て、不意に思った。
本当に、これでいいのだろうか。
その思いは、じわじわと私の中に広がり焦りと後悔に似た感情を沸き上がらせた。
今ここで、高木さんをつきはなして、それが、本当に正しいことなのだろうか。
私は、もしかしたらとり返しのつかないことをしようとしているのかもしれない。
「――」
それまでの決心は、容易に揺らいだ。
離れていく高木さんの姿。
どうすればいいのか、もうわからない。
透。透。教えて、どうすればいいの?
けれど透の声は、今は聞こえない。
私の問いに答えてくれる記憶の中の透の言葉は、何もなかった。
この感情はただの感傷に過ぎないのか、警告なのか。
本当ニ、コレデイイノ――?
「――」
だが結局、私は黙って見送ることしかできなかった。
それ以外の何が、私にできただろう。
さしのべてくれる手を払ったのは、私のほうなのだ。もういない温かな手を、忘れることもできないで。
目の前の空いた席。
二人のために用意された席に一人残る私は、ひどく淋しく見えるだろう。
「――」
ひどくやりきれない感情が、私の心を重くした。