11
「おはようございます」
勤務している中学校の職員室に入るなり、同じ学年を組んでいる年上の教諭があわてたように近づいてきた。
「ちょっと、先生、こっちこっち」
席に着く前に、職員室横にある給湯室に連れて行かれる。
「どうしたんですか。そんなにあわてて」
「昨日、お見合いしてたでしょ。ホテルで」
声はひそめていたが、興奮を抑えきれない声音に、私は咄嗟に返す言葉をさがせなかった。
「あそこのレストランのランチに行ったら、先生着物着て男の人と一緒にいたからすぐわかったわよぉ」
狭い地域だ。何かあったら誰かにすぐ気づかれる。
内心の動揺を隠して私は笑った。
「やだ、見られちゃってたんですか。母親が会ってみろってうるさくて。今どきお見合いだなんて母親のレトロな感覚に付き合うのもつかれますよー」
「いいじゃないの。相手の人、チラッと見たけど、すごくいい人そうじゃない。何やってる人なのよ。教師にはいないタイプだったわね」
「なんと、お医者さんですよ、お医者さん」
「やだ、大当たりじゃない。あたしもお医者さんとコンパしたーい。今度頼んでみて」
「先生、旦那さんが聞いたらおこりますよ」
「そこは内緒よ」
そこで、チャイムが鳴る。
「おっと。教室行かないと。じゃ、また詳しい話聞かせてよ」
1年生の学級担任である数学教師の彼女は、職場ではいい先輩だ。
専門職には何かとマニアックな人間が多く、正直、教師に向いていないと思われる人物も多くいる。地方であればあるほど、それは顕著だ。そんな中で、彼女は数少ない有能な教師だ。教え方もうまいし、丁寧だ。中学時代、この人に数学を習っていたら、ここまで数学に苦手意識をもたなかっただろうかと思う。
彼女と話すのは嫌いではない。
でも、よりにもよってなぜ、昨日の件を同じ職場の彼女に見られてしまったのだろう。
他にも誰かに見られたのだろうか。
ホテルだから、生徒に会うはずはないが、父兄がいたとしたら?
「――」
大きく息をつくと、私は職員室に戻った。職員朝会前のコーヒーの準備をするために。
憂鬱な1日の始まりだった。
放課後の合唱部の活動が終わり、生徒が音楽室からいなくなると、私は戸締りを確認するために音楽準備室に入った。3階の窓だから、もし鍵があいていても泥棒が入る心配はないが、習慣に従い、チェックする。
音楽室は生徒玄関の真上だ。外灯の明かりに照らされ、生徒たちが家路を急ぐのを眼下に、思わず笑みがもれた。
音楽専科の私には、現在の職場はとても居心地がいい。
中規模校のため、音楽教師は講師である私しかいないが、全学年の音楽を担当しても空き時間がかなりある。合唱部顧問も担当しているが、文科系の部活は数も所属する部員も少なく、合唱部もその例にもれず15人ほどの細々とした活動だった。
中学生の甲高い笑い声。
走るたびに学生かばんの中の道具がゆれてもらす、くぐもった音。
ばたばたと遠ざかる運動靴。
それらすべてが、異空間の出来事であるかのように感じられた。
学校という空間は、ひどく特別だ。
大勢の人間がひしめき合っているのに、いなくなった途端の奇妙な余韻。
残像のように残る密やかな気配。
扉を隔てて、彼岸と此岸があるような。
その不可思議な静寂を私はとても好きだった。
「――」
何事もなく1日が過ぎたことに感謝した。朝はお見合いの件がみんなにばれていたらどうしようとひやひやしたが、あれからその話題は他の先生たちからも、勿論生徒たちからも出なかった。気にしすぎだったようだ。
生徒たちもみな帰ったようだ。生徒玄関はひっそりとしている。
私は準備室を出て、ピアノの周りを片付けた。
荷物を片付け、電気を消し、職員室へ向かう。
これが私の日常。
それ以上でも、それ以下でもない。
ありふれた、私の生活。
変わることなど、望んでいない。