10
夕方近くに、携帯が鳴った。母からだと、私はひどく重く感じられる頭を一振りして、とった。
「もしもし…」
『あんた、どういうつもりなの!!』
きんきんした声が耳に刺さる。
『一人でとっとと帰るなんて、失礼にもほどがあるじゃないか!?』
うんざりした。
「――気分が悪くなったのよ」
『気分が悪いからってねえ!』
「帰って寝なさいって言ったのは向こうの方よ。お医者さんの言うことに逆らえるわけないじゃない」
不服そうなしばしの沈黙が、伝わる。
『――それで、どうだったんだい』
「は?」
『だから、高木さんだよ』
興味津々の声。
「――別に」
『別にって、それだけなのかい?』
「いい人だわ。それだけよ」
忘れていた感覚が戻ってくる。
嫌な気分。自己嫌悪だけが残る。
「お母さんが期待してることにはならないわよ。お断わりするんだから。じゃあね」
早口に言い捨てて、私は携帯を無造作においた。何か言っている声がかすかに聞こえたが、気に止めなかった。
考えてはいけない。
そう、自分に言い聞かせた。こんな嫌な感情は捨ててしまわなければ。
携帯が、鳴った。
「――」
また母からだろうか。
私は躊躇したが、携帯を手にとった。見知らぬ番号が映る。
誰からだろう。
「――はい」
だが携帯の向こうから聞こえた声は、私の予想外だった。
高木さんだった。
「た、高木さん?」
『お早ようございます。って寝てましたよね。お加減はいかがですか』
明るい声が耳に届く。この人は、他人を安心させるような話し方をする。
「だいぶいいです。今日は本当に失礼しました。ごめんなさい」
『いいえ。謝らないでください。そんなこと聞くために電話したんじゃないですから』
さらりとした口調は、私の気分を軽くした。この人は、いい人だ。
『突然ですけど、今度の日曜、お暇ですか』
「え? あ、暇、ですけど」
『食事でもどうですか。ここで印象づけておかないと忘れられそうですから』
言い方に、私は笑ってしまった。
「そんなことないですよ」
『そうですか。俺、患者さんになかなか覚えてもらえないんですよ。印象薄いんじゃないかって悩んでます』
「本当に大丈夫ですよ。私、ちゃんと覚えてます。日曜日も、あなたの前通り過ぎたりしませんから安心してください」
『いいんですか』
「はい。何時ですか」
『じゃあ、11時に車で迎えにいきます』
「はい」
受話器をおいた途端、容赦なく沈黙がおりてきて、私の心はまた沈みだした。
「――」
どうしてだろう。どうしてこんなに気分が晴れないんだろう。
「これで、いいのよね」
自信はなかった。