三角錐関係
三角錐関係
《あるところに一人の作家がいた。周りに美男と持て囃され、自分自身でも自分は美形であると認識しながら生きてきた男だった。自分が思ったことを綴った「美男ですが何か?」が女性に大ヒットした(男性には何が面白いのか全く分からなかった)。
長野の山奥に創作小屋と称して別荘を建てた。毎回、締め切りが近くなるとそこへ行き、戻ってきたときには完成した作品も一緒に持ってきていた。そして、毎回大ヒットの連続だった。SF、冒険小説、推理小説、と書く作品のジャンルは様々だったが、どれも上手く構成がなっていて、大ヒットに拍車をかけた(「美男ですが何か?」以外は男性にも売れた)。
その男の名は、坂井健一 。ペンネームはI・ケンイチ。語呂が全く合わないペンネームである。Iはイケメンを略したものである。どこまでも自己主張の強い自意識過剰野郎なのであった。
しかし、彼の書いた作品は本当のところ「美男ですが何か?」だけなのであった。つまり、他の作品は全て、ゴーストライターがいた、ということなのだ。ただそれだけならまだよかったのだが、そのゴーストライターは三人、何れも女性で坂井に対して、心酔していたのだ。
SF担当、児嶋麗。神経質で心配性な彼女はいつも坂井の別荘に閉じ篭っている。
冒険小説担当、安東真。子供の頃から水が苦手。百八十センチの長身。趣味は映画鑑賞
推理小説担当、笹井桜。最も坂井に心酔している。雑誌の読者モデルになったこともあるほどの美形でファッションセンス溢れる女性。
この四人は小学校からの同級生であった。そのころからモテていた坂井の取り巻きの中でも際立って彼を好いていたのが児島、安東、笹井だったのだ。
坂井が中学校の三者面談の際、
「将来何になりたいのか」
と、聞かれて咄嗟に
「作家だよ、作家。物語を創るのって、カッコイイじゃん」
と、答えてしまったのだ。ゴーストライターの三人は坂井君のために手を取って助け合おう、と結託を交わしたのだ。
元々、作家志望だった児嶋は坂井と同じ職業に就けると聞き、内心ワクワクしていた。あまり顔には出さなかったが……。
逆に本など読んだこともない笹井は何をしたらいいのか全く分からなかったので、本屋で参考書を買い、自作してみたところ、それが思いの他上手く出来た為、ゴーストライターに招かれたのだ。
安東は全く本を読まない、というほどではないが児嶋ほどではなかった。だが、作文を書く才能がある、と国語教師に一目置かれていた彼女は、作家活動でもその才能が活きたのだった。
そして、当の坂井はと言うと、作家になる、などと言ってしまった自分を悔やんでいた。だが、自分にはいつかモデルのスカウトが来て、作家を辞めさざるを得ない状態になったから辞めた、という状況になるのを望んでいた。それに、先生も両親でさえも作家になる、と言ったのを真に受けていなかったのだから、どうせ忘れられると、思っていたのだ。その考えは全く当たらなかったが……。
彼自信、なぜ「美男ですが何か?」が売れるのかが分からなかった。「世界の中心は俺だ」、「俺以外の者は人間ではない」、「俺が全てで全てが俺だ」、「俺を受け容れるには地球は小さすぎる」、「いや、銀河系でも小さいくらいだ」、「世界よりも俺を尊ぶべきだ」などと、人が嫌うような台詞ばっかりを詰め込んだというのに。あれのどこが女性の支持を得るのかが全くもって理解不能だった。タイトルである「美男ですが何が?」と中身とのギャップもかなり大きくしたというのに。実際のところ、そのギャップの大きさと、中身の自分に対しての自意識過剰さがウケたのだったが。ついでに若い女性がキャーキャー言いそうな写真が数枚入っていたこともヒットの要因となった。
たとえモデルが駄目でも「美男ですが何か?」が売れなくて自信を無くして、真面目に就職。というストーリーになるはずだったのがとんだ計算違いだ、と坂井は思っていた。
別荘は地価格安のところに建てた為、中はかなり広い。一階建てで地下にワインセラーがある。中には風呂、トイレ、キッチン等は勿論、温水プール、映画を見るための劇場と映写室もある。
部屋は三人それぞれ一部屋ずつ別けてあり本人たちの希望通りの内装となっている。
共通しているのは仕事用のパソコンが有る、ということだけであった。
児嶋は玄関に最も近い東の部屋。しかし、別荘から出ることは殆どない。
安東はワインセラーへの階段近くの部屋にして、たまにワインを取りにいっている。
笹井はプール近くの部屋を選んだ。プールは西端にあるため必然的に西側の部屋になる。
そんな趣味も主張も違う三人が坂井の為に住んでいる。為だけに住んでいる。
この物語はその長野の別荘で起きた事件を綴ったものである。
八月十六日午前九時半。
坂井は締め切りが迫っていたので、長野の別荘へと行った。ゴーストライターの三人から原稿を受け取るために。と言っても今回は安東からの原稿を受け取るためであった。メールで送られるとゴーストライターのことがバレてしまう可能性があり、毎回自分で取りに来ていたのだ。
午後一時。
何事も無く、別荘へと着いた。
坂井はタクシーに運賃を払って、別荘の玄関へ行く。
「そういえば、ここに来るのも久しぶりだな。三人とも、元気にしてるかな?」
坂井はインターホンを押す。
中でドタドタと音がし、ドアが開く。
「健ちゃん!待ってたわよ!」
「よお。真里」
出てきたのは安東であった。
「お前……ピンクのワンピースって派手じゃないか?フリフリまで付いてるぞ」
「健ちゃんの為に着飾ったのよ。感謝しなさい」
「あ、うん。ありがとう」
「素直に初めからそう言えばいいのよ」
かなり高飛車な女である。身長も坂井より高いので、自然と見下ろす形になる。これが坂井には少し気にいらなかったが、安東は気にしていなかった。
「じゃあ、そろそろ入れて?」
「あら、ごめんごめん。入って、入ってー」
ここは坂井の別荘なのだが、殆どの管理を三人が行っていたので安東が坂井を迎えている。これは坂井には気にならなかった。元々、別荘は三人の為に建てたのだから気にする必要がなかったのだ。
「リビングに麗と桜も呼んでくれ。ちょっと話があるんだ」
「分かったわ」
坂井はリビングに行き、安東は二人を呼びに行った。
五分後。
リビングの一人掛けソファに坂井、二人掛けソファに安東と児嶋が一緒に座り、笹井は坂井の顔が一番良く見える正面の椅子に座った。
児嶋は全身黒い服を着て、ショルダーバックを抱えていた。ショルダーバッグには相手を殺すことも出来る改造スタンガンや、周囲一キロ圏内であれば音で寝ている人を起こす事が出来る防犯ブザー、非常食、LED電球使用の手回し式懐中電灯などの防犯・防災グッズが入っている。
笹井は露出の多い色鮮やかなミニスカートや薄いTシャツを着ていた。
「麗は葬式にでも行くのか?」
「いや、そうじゃないけど」
「そんなことはいいから、話って何?」
笹井が訊く。
「そうだったな。まず、今日来たのは真里の原稿を受け取るためだ」
「うん。それは聞いてる」
「そうね」
「もう完成してるわ」
「あんがと」
坂井は適当に礼を言う。
「それと、もう一つ話があるんだ」
「何?」
笹井しか訊かないが、他の二人も身を乗り出している。
「この前、好きな小説を書いていい、と依頼が来た。無条件で出版してくれるらしい。でも、お前たちが書いているから、どれか一つ、とは選べないんだ」
実際は選ぶことが出来るのだが……。坂井が言えばそうなるだけなのだから……。
「出版したのを出した順で言うと、『飛行機』…桜、『為替に濁点』…麗、『いろは』…真里、『新聞』…麗、『大和』…真里、『イコール』…麗、『はがき』…桜、『おしまい 上巻』…真里、『日本』…桜、そして今日、取りに来た、『おしまい 下巻』…真里。だよな」
「それがどうしたの?」
「真里が上下に分かれてるとは言え三人とも三作ずつやっているよな」
「だから、それが何だっていうの?」
「数が少ない人にやってもらおうかと思っていたんだが、全員同じ数だったから難しいんだよなー」
意外と公平な男である。
「別に誰でもいいんじゃない?」
「うん。今、ここでジャンケンで決めてもいいと思うわ」
児嶋は何も言わない。
「俺はもう、三十だ。だから、これをやってくれた奴と結婚しようと思う」
その言葉に三人は驚愕する。今まで十何年も頼み続けていた結婚が一気に可能性が見えてきたのだから。
「そ、それは本当!?」
「嘘だったら承知しないわよ!」
「絶対に!?絶対に!?」
いつもはあまり喋らない児嶋も興奮している。
「ああ、本当だ。嘘じゃない。絶対だ」
坂井は三人の言葉にあった語句を使って答えた。
「お風呂入ってくる」
そう言って児嶋がリビングから出ていく。児嶋は何かを考えるとき、風呂に篭る。
「つまり、私と麗ちゃん、真里ちゃんの誰かと、結婚?」
「だから、そうだって言ってるだろ」
「どうやって決めるの?」
「それを言おうと思ってたんだが、麗が風呂行っちゃったからな……」
「いいじゃん教えてよ」
坂井は少し考える。そして言う。
「まあ、いいか。麗には後で話しておこう」
「それで? 方法は?」
「三人に完全新作を一から作ってもらう。それを俺が読んで、判定。一人に決めるって訳だ」
「完全新作……」
「なるほど。面白いわね」
「そうだろ? 一応、期限を付ける。麗が戻ってきて、俺が説明する。その瞬間から一ヵ月後までだ」
安東と笹井は黙っている。
「なんだ? もうネタを考えてるのか? 大丈夫、少しくらい遅れてもいいよ」
それでも二人は黙り込む。
坂井は席を立つ。
「俺はワインでも飲むか。お前らは飲むか?」
二人は答えない。
「別荘に来てまで一人かよ……」
無視される。
「ちぇ……」
坂井は廊下に出て右に曲がり、ワインセラーに向かう。
「なぁんか悪い予感するんだよなぁ。俺はこんなの感じたことないんだけどなぁ」
ワインセラーはリビングの丁度、真下にある。
坂井は階段を降り、ワインセラーの扉を開ける。
「今日は何のワインがいいかな」
坂井はワインセラーを練り歩く。
「おぉ!“グレート鹿島”じゃねえか!しかも二〇〇一年ものだ!」
グレート鹿島二〇〇一はワインマニアの間では伝説の日本産ワインと称えられている。
「さすが、真里! センスいい!」
ワインセラーの管理は安東が行っている。安東はソムリエの資格を取っているからだ。
その点、笹井はあまりワインは飲まず、児嶋に至ってはアルコールを一切取らない。
坂井はグレイス甲州を取り出し、ワインセラーを出た。
リビングにワインを置いたあと、キッチンからコルク抜きを持ってくる。
坂井はソファに座る。
「普通に飲んでよね」
ずっと黙っていた安東が言う。
「分かってるって」
そう言って坂井はコルクを抜く。
坂井はワインを飲む。ワイングラスを持ってきていないので、ラッパ飲みである。
「だから、その飲み方やめてって……」
「普通に飲んでるけど?」
安東はまた黙る。
「テレビでも見るかな」
坂井はリモコンを手に取り、テレビを付ける。
安東と笹井が黙ってアイデアを練っていて、坂井がテレビを飲みながらグレイス甲州をラッパ飲みしてから三十分後、児嶋が戻ってくる。ピンクのパジャマを着ていた。
「麗、おかえり」
「ごめん。遅くなって」
「別にいいわよ」
「坂井君、児嶋さんにも説明して」
「ああ、そうだな」
坂井は児嶋にも安東と笹井と同じことを説明した。
「分かった」
児嶋も黙る。
「じゃあ、今から一ヶ月。皆頑張ってね」
坂井だけをリビングに置いて、他の三人は自分の部屋へ行った。
「服は真っ黒なのに、パジャマはピンクって、ギャップデカイな……」
と、坂井は呟いた。
夜十一時。
外は雨が降っている。
リビングでは、テレビがつけっぱなしで、空のワインボトルが三本落ちている。
そして坂井は二人掛けソファに移動し、酔い潰れて寝ていた。坂井はワインが好きな割に、酔いやすい。
そこへ安東が入ってくる。坂井を揺らす。
「健ちゃん、健ちゃん」
坂井は起きない。
「この分じゃ、朝まで起きないわね。もしかすると明日は二日酔いでフラフラかもね」
「ん? 真里か?」
坂井は起きた。
「なんか頭がクラクラする」
「酔っているんでしょ。寝てなさい。原稿は健ちゃんのカバンに入れておいたから」
「あー、うん。分かった。あんがと」
「あのね。なんだかちょっと、悪い予感するのよね……。そう思わない?」
坂井は答えない。
「あら? 寝ちゃった?」
安東は少し笑う。そして、テレビを消してからリビングを出ていく。
次の日。
坂井は安東の思った通り、二日酔いでフラフラだった。
「頭痛い……今日は休んで明日帰ろうかな……」
児嶋が薬箱を持ってくる。また真っ黒な服を着ている。
「はい。これ、二日酔いに効く薬」
と、言って渡した薬と同じ物が薬箱一杯に入っていた。薬箱には「健ちゃん酔う(用)」と書いてあった。
「あんがと……」
坂井は薬を飲んでソファに倒れこむ。
「そういえば、桜は?」
「桜ちゃんは、プールに行ってるわ」
「プール?」
「最近、午前中はプールで泳ぐのが習慣になってるの」
「そうなんだ」
「じゃあ、私は書いてくるね」
「え? あ、うん。俺はここで寝てるわ」
児嶋はリビングを出て行く。
入れ違いで安東が入ってくる。
「あら、起きたの? おはよう」
「おはよ。今、何時?」
「十時。もう少し寝てたら?」
「そうだな……」
「何か用事があったら言ってね」
安東はテレビを見る。
「真里は話、書かないのか?」
「私は寸前に徹夜で書くからいいの」
「そうだったな……俺、二日酔いで呆けてるな……」
そう言って坂井は目を閉じる。
「呆けてる、というより、寝惚けてるわね」
「気にするな」
「あら、寝てなかったの?」
「そこも気にするな」
「分かったわよ」
それから坂井はソファで目を閉じたままずっといた。安東はテレビを見ていた。
坂井は二日酔いの日は朝食を食べないことを分かっていたので、出さなかった。
しばらくして、ソファから坂井は立ち上がる。
「どうしたの?」
「寝て我慢してんだがやっぱり吐いてくる」
「え、うん。我慢してたんだ……手助けする?」
「いや、大丈夫だ。多分……」
坂井は頭と口を押さえながらリビングを出ていく。
「本当に大丈夫かしら……」
児嶋ほどではないにしろ心配した。
坂井は五分ほどで戻ってきた。やけにゲッソリとしている。
「胃に何も入ってないな、こりゃ……」
「何か食べる?」
「いや、今食べるとまた吐くからいいや」
「分かったわ」
坂井はまたソファに横になる。安東は相変わらずテレビを見ている。
ガシャンと大きな音がする。
「ん? 何だ、今の音は? テレビか?」
「いや、違うわ。ちょっと見てくる」
安東は廊下に出る。そこへワインセラーの方から児嶋もやってくる。
「今の音は?」
「分からないわ。それよりも、桜は?」
「え? 桜ちゃんならプールに……」
「見に行ってみましょう」
二人は温水プールに行く。プールはリビングを出て、笹井の部屋の前を通った渡り廊下の先だ。
温水プールのドアを開けると、笹井がプールの真ん中で水着姿で浮かんでいた。
「桜!」
「桜ちゃん!」
二人はプールサイドに駆け寄り、呼びかける。その際、安東は若干プールから離れている。
二人の呼びかけにも笹井は反応しない。反応できない。
「私が連れてくる!」
児嶋がプールに飛び込む。笹井の手を掴んでプールサイドまで連れてくる。
二人でプールサイドに上げた後、脈を確認する。そして、安東は首を振る。
「もう、駄目ね……」
「坂井君に教えてくる……」
「私は警察に電話するわね」
「うん」
児嶋はリビングへいく。その足取りは重い。
リビングのドアを開けると坂井が、
「さっきの音は何だった?」
と、訊く。
その途端、児嶋は泣きだす。
「ど、どうしたんだ?」
坂井は困惑する。ソファから体を起こす。
「桜ちゃんが……桜ちゃんが……」
それ以上は何も言わない。
「桜がどうしたんだ?何でお前、濡れてるんだ?」
児嶋の泣き声と嗚咽で何を言っているのか分からない。
そこへ安東がやってくる。
「健ちゃん、ちょっと来て。麗は濡れてるからお風呂にいきなさい」
「何があったって言うんだ?」
安東につれられて坂井はリビングを出る。そして、プールに行くと驚愕する。
「桜!?」
坂井は笹井に近づく。
「触らないで!」
坂井の動きが止まる。
「え? 何でだ!? 桜がこんなことになってるんだぞ!」
「警察には電話したわ。今、桜に触ると健ちゃんも容疑者になっちゃうわ」
「え、でも……」
「駄目」
坂井は黙り込む。
「健ちゃんには辛いかもしれないけど、我慢して」
「ああ」
坂井はプールを見渡す。
「ん? 窓が割れてるな。さっきの音はこれか」
「そうみたいね。他の窓は鍵が閉まってる。ドアに鍵はかかっていたけど、そこはあまり関係ないかもね」
「窓が割れてるんだ、外部の人間としか考えられないだろう」
「そうね。事故、なんてことはないと思うわ」
「ああ。そうだ、警察はあとどれくらいで来るんだ?」
「一時間って言ってたわね」
「それまでここには入らないことにしょう」
坂井と安東はプールに鍵をかけ、リビングへ行った。
「とりあえず、現場保存ということであのままにしておこう」
「最初はプールに浮かんでいたんだけど……」
「プールからあげる位はいいだろう」
リビングの前に立つ。中から児嶋の泣き声が聞こえる。
「問題はあっちよりもこっちね」
「あっちは警察に任せるけど、麗は俺たちがなんとかするしかないな」
二人はリビングに入る。
「麗、警察には真里が電話した。犯人は必ず警察が捕まえてくれる。だから泣くな。泣いてたら、桜が成仏できないだろ」
児嶋は小さく頷く。そして段々泣き声が小さくなる。
「お風呂は行ってきたの?」
「行ってない」
「風邪引くんじゃない? とりあえずタオル持ってくるわね」
安東が風呂にいき、タオルを持ってくる。それを児嶋に渡してから話しだす。
「今は警察が来るまで待ちましょう」
「ああ、そうだな」
「健ちゃんは二日酔い、大丈夫?」
「大丈夫だ。大丈夫じゃなくてもこんなときに弱音は吐いてられねえよ」
これは坂井の強がりだった。その証拠に児嶋と安東に背中を向けて、右手で頭を抑えている。
三人はソファに座り直す。
「警察が来るまでの間、俺たちも俺たちなりに犯人を考えてみよう」
「そうね」
児嶋も頷く。
「実際は推理とかそういうのは推理小説をやってた桜が適任なんだが、今となっては考えるだけ無駄だ」
「窓が割られていたから外部犯よね」
「普通はそう考える。警察だって一番初めはそこから当たっていくだろう」
「一応、私たちのアリバイも纏めておく必要があるわね」
「警察が詳しく調べれば分かるだろうが桜はおそらく今日、死んだ」
「え? 何で?」
児嶋が訊く。
「一、 桜はプールにいた。二、水着を着ていた」
「それが?」
「分からないか? 例えば、他の場所で殺したとする。そうしたら、プールに連れて行く意味がない。更に水着に着替えさせる意味もない」
児嶋と安東はなんとなく頷く。
「桜は午前中にプールに入る。だから犯人は今日、桜を殺したんだ」
「でも」
安東は抗議する。
「犯人がそう思わせるためにわざわざプールに行ったんじゃない? 桜の死体――そのときはまだ死んでないときかもしれないけど――を背負ったりしてさ」
「かもしれない。でも、そんなことが出来るんだったら、この別荘に自由に出入りできて、尚且つ自由に歩きまわれるんだったら、桜が寝ている間に殺せばいいだけなんだ」
児嶋と安東は納得する。
「桜は何時からプールに入ってるんだ?」
「七時。七時から十一時まで」
「麗たちが桜を見つけたのは十時三十分かそこらだったな」
「そうね。だから、私たちが断定できる死亡推定時刻は七時から十時三十分までの三時間半の間」
「俺たちがその間、何をしていたかアリバイ表でも作ってみるか」
児嶋はファックスの紙を持ってきた。
「これでいい?」
「何でもいい」
坂井は自分のアリバイを書く。
「俺は十時前に起きる。あとは三十分過ぎまでソファでフラフラだった」
「それだけね」
「その間、私か真里ちゃんがここにいたから確実ね」
「そう。だから俺は犯人から除外」
「次は私」
児嶋は自分の行動を話す。
「私は七時半に起きたわ。そして、朝食を作ってキッチンで食べたの。それからはずっと健一君の傍にいたわ」
次は安東が話し始める。
「私は八時に起きたわ。麗が用意してくれた朝食を食べてから部屋でパソコンを使って音楽を聴いていたわ。たまにこっちにも顔を出してはいたけどね」
児嶋も頷く。
「そして、十時前にここに来て、健ちゃんが起きたから話をしていたのよね」
「そうだな。そこは分かってる。表に表すとこんな感じか?」
7:00〜7:30
坂井…爆睡中。
児嶋…睡眠中。
安東…ノンレム睡眠。
7:30〜8:00
坂井…果報待ち。
児嶋…起床→朝食。
安東…レム睡眠。
8:00〜8:30
坂井…酒眠中。
児嶋…リビングにて健一の世話、見守り。
安東…朝食。
8:30〜9:00
坂井…ぐっすり。
児嶋…変わりなし。
安東…自室とリビングを行き来。
9:00〜9:30
坂井…夢みる男子。
児嶋…変わりなし。
安東…変わりなし。
9:30〜10:00
坂井…起床。麗から二日酔いに効く薬をもらい、飲む。
児嶋…真里と入れ違いでリビングから出る。自室にて執筆。
安東…リビングへ。麗と入れ違いになる。健一と話す。
10:00〜10:30
坂井…真里と話す。音がしても、リビングに残る。
児嶋…執筆中。音がして、真里と共にプールへ。桜発見。
安東…健一と話す。音がして、零と共にプールへ。桜発見。
「部分的にふざけてない?」
「そうか?別に俺は何も気にならないけど」
坂井はしらばっくれる。
「寝てる間は全部『睡眠中』でいいと思うわよ」
坂井は黙殺する。
「まあ、これで警察が来たときも、このアリバイ表を見せれば、あっさり、外部犯の犯行だと思うだろうな」
そこへ車の音が聞こえる。
「噂をすれば何とやらってか?お待ちかねの警察様の登場だ」
三人は窓から外を見る。パトカーが二台走ってくる。
パトカーは玄関の横に一列に停まった。
「さて、俺は玄関へ行く。お前たちはここにいてくれ」
二人は頷く。
そこへピンポーンとインターホンの音がする。
「はーい!今行きまーす!」
主婦のような声を出して、玄関へ行く坂井。
玄関を開けるとそこにはスーツをだらしなく着ている大柄の男と、ビシッと決めている若い男。その後ろにドラマで良くみるような青い制服を着た人が二人いる。
「えっと、警察だが。ここが坂井健一っつー奴の家か?」
大柄の男が言う。
「別荘ですけど、まあ、そうです」
「あんたが坂井さん?」
「はい」
「通報してくれたのは女だったはずだが?」
「俺とあと二人――朝までは三人でしたが――女がいます」
「あ、そう。じゃあ、まずは挨拶からかな」
「はい。リビングにいますのでどうぞこちらに」
刑事たちは靴を脱ぎ、スリッパを履く。
そしてリビングへ行く。
坂井は一人掛けソファに座り、スーツを着ている刑事を二人掛けソファに座らせた。児嶋と安東、制服の刑事二人は立ったままだ。もう一つある椅子には誰も座ろうとしない。
「まずは俺たちからだな。俺は長野県警のえとこうき。一応、警部だ」
「江戸後期?」
何処までが苗字で何処からが名前だ?と坂井は思う。
「ん?あ、漢字見ないと分からないよな」
刑事は名刺を取り出し、坂井に渡す。
名刺には『子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥攻騎 Eto Kouki』と、電話番号が書いてある。
「子丑寅卯辰午未申酉戌亥って十二支じゃないですか。そんな苗字があるんですか?」
「ああ、ある。俺だ。十二支全部書いて、『えと』と読むんだ」
「はあ」
世の中には凄い苗字があるんだな、と坂井は感嘆した。
「警察手帳、見せてもらえますか?」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は警察手帳をズボンのポケットから取りだして手帳の中を見せる。『警部 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥攻騎 長野県警察』と書いてある。名前だけで三行も使っている。
「なるほど。本当の名前で本物の刑事さんですね」
「俺は最初からそう言ったはずだが」
「そうでしたね。それで、お隣の方は?」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の隣に座っていた若い男が喋る。
「僕は今年、警察官に採用され、長野県警に配属された神宮路隼人と言うものです。どうぞお見知りおきを」
神宮路も子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥と同じように警察手帳を見せる。
『警部補 神宮路隼人 長野県警察』と書いてある。
「今年採用されたのに警部補?」
「ああ、こいつは俺とは違ってキャリア組だからな。いつか俺の上司になるんだろうぜ」
「そういうことがあるんですね」
警察も色々大変だな、と坂井は思う。
「あとそこの青い二人は六角精児とかトメさんだ。あ、六角精児よりも米沢守って言ったほうがよかったか」
「いや、どっちも分かりますよ。トメさんも」
「まあ、つまり鑑識だ」
「分かりますって。服を見て、何となくそうだろうな、と思ってましたから」
「そうか」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は坂井、児嶋、安東を見る。
「では、次は俺が自己紹介ですね。先程も申し上げたように俺は坂井健一です」
「児嶋麗です」
「安東真里です」
「通報したのは誰だ?」
安東が手を挙げる。
「あ、そう」
訊いておいて興味なさそうだ。
「あの……」
児嶋が言う。
「考え事をしたいので、お風呂に入ってきてもいいでしょうか」
「現場を見た後、事情聴取をしたいのですが……」
「いいぞ」
児嶋の言葉を否定する神宮路。その言葉を、更に否定して子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥が許可を出す。
「ありがとうございます」
児嶋はリビングを出て行く。
「いいのですか?」
「いいんだ。遺族には――家族だったのか?――冷静になってもらう必要がある」
「あいつは考え事があるときに、風呂にいくんです」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は頷く。
「大丈夫だ。問題ない」
五秒ほど間をおいてから、
「はずだ……」
と付け足す。
「では、とりあえず、現場を見せさせてもらいたいのですが……」
「はい、分かりました」
「私はここにいるわ」
「刑事さん、いいですか?」
「いいぞ。そういう人もいる。気にするな」
「では、こちらです」
坂井と子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、神宮路はリビングを出ていく。鑑識の二人も後に続く。安東だけがリビングに残った。
五人の足跡が聞こえなくなると、
「さて、私もやろうかな……」
と、呟いた。
「ここです。ここは温水プールになっていて、年中好きなときに泳ぐことが出来ます」
坂井が説明する。
「俺たちは旅行に来たわけじゃないんだ。早く開けてくれ」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥が言う。
「分かりました」
坂井は頷くと鍵を取り出して鍵穴に差し込む。
「にしても、温水プールだと? どこの大富豪だよ」
坂井は苦笑いする。
鍵が開く。
「開きました」
ドアを開く。事件が起きて、坂井と安東がプールに鍵をかけた時のままになっている。つまり、プールサイドに笹井は寝ていて、窓ガラスの一つが割れている状態だ。
「神宮路、窓を見てこい。割れてる窓も他の窓も、だ。鑑識は遺体の検死」
「はい」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥が指示する。
「鑑識の人って検死も出来るんですか。指紋を取ったり白いテープを張るだけじゃないんですね」
「鑑識じゃなくても出来るやつはいるんだが、俺は出来ない。神宮路はいずれできるようになるんだろうな。だから、今日は検死も出来る鑑識を連れてきた」
「万能だな……」
神宮路は必死に窓を調べている。
「それにしても、プールが全面ガラス張り、ってどうなんだ?」
「別に。桜の希望です」
「桜、ってのはこの遺体か」
「はい、笹井桜です」
「坂井さん、児嶋さん、安東さん、そして笹井さん。お前らはどういう関係なんだ?」
「そこは触れないでください」
「まあ、いい。誰だって触れられたくないことはあるもんだ」
「話が分かる刑事さんでよかったです」
神宮路が戻ってくる。
「割れていない窓はすべて鍵がかかっていました。割れている窓はガラスが外に落ちていました。それ以外のことは雑草が茂っていてよく見えませんでした」
「そうか。分かった。鑑識は時間がかかるだろうから、リビングで話を聞いていいか?」
「はい」
プールに鑑識を残して坂井と刑事二人はリビングへ移動した。
安東は椅子に座っていた。
「あら、十分だけでいいの?」
安東が訊く。多少、元気がないように坂井には見えた。
坂井は一人掛けソファに座り、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥と神宮路は二人掛けソファに座る。
「ああ、大丈夫だ。後は鑑識に任せてある」
「なるほど」
「お前たちに質問があるんだがいいか?」
「はい。どうぞ」
「一つ目」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は右手の人差し指を立てる。
「あの遺体は最初からあそこにあったのか?」
「最初はプールに浮かんでいたのよ。それを麗ちゃんがプールサイドにあげたの」
「そうか。じゃあ、二つ目」
中指も立てる。
「何故、坂井さんでもなく、安東さんでもなく、児嶋さんが笹井さんをプールから上げたんだ?」
「俺は二日酔いで寝てたんだ」
「私は水が苦手で」
「水が苦手? 水アレルギーか?」
「そこまでじゃないけど、お風呂は一週間に五分しか入らないくらい苦手、嫌いよ。水なんか、三メートル圏内に入ってほしくないわ。桜を助けるときはしょうがなく近づいたけどね」
「そうか……」
少し間を空けてからまた話す。
「そして、最後に、三つ目」
薬指も立てる。
「この事件の犯人は外部犯だと思うか?」
「えっ?」
坂井と安東は困惑する。神宮路も驚いている。
「だって、窓が割れていたじゃないですか! あれは確実に外部犯でしょう!」
「そう見せかけた内部犯かもしれないだろ」
「それ以前に、私たちが桜を殺す、なんてことするわけないでしょ!」
「そうか、それならいいんだ」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥以外の三人は何を言っているのか分からなかった。
「神宮路、お前、割れてる窓を確認してきた後に俺に報告したのをもう一度言ってみろ」
「は、はい?」
「いいから」
「えっと、確か、『割れている窓はガラスが外に落ちていました』と報告したかと」
「ああ、そうだ。一応、お前はキャリアだよな」
「はい、そうです」
一応、ではなく確実、ですけど。と、呟く神宮路。
この人、全然謙遜しなかったな。と、思う、坂井と安東。
「キャリアならもっと色んなところに目がいくよな」
「はい、多分」
そうなのか? と、思う、坂井と安東と神宮路。
「なのに、お前はガラスのことしか言わなかった。つまり、ガラスの破片が外に落ちている、ということしか気づかなかった」
「何が言いたいんですか?」
「要するに、だ。外にはガラスの破片しかなかったということになる」
三人にはまだ、分からない。
「じゃあ、まず、何で窓が割れていたんだ?」
「それは、犯人がプールに侵入するためでは?」
神宮路が答える。
「それが普通だな。じゃあ、外から入るには中と外、どっちから割ればいい?」
「それは外からに決まっているでしょう」
今度は坂井が答える。
「そうだ。なのに、ガラスの破片は外に落ちていた、んだぞ」
「外から割ったのに、外に破片が落ちる? それっておかしいわね」
「しかも、中には割るときに使用したと思われる物はなかっただろ?神宮路」
「はい。何もありませんでした」
「ということは、つまり、中から割った、ということですね」
坂井が結論を出す。
「そうだな。俺はそう考えた」
「でも、中に落ちた破片を外に出せばそれも可能じゃないの?」
「他にも証拠はある。昨日の夜は雨が降っていて、朝、地面はぬかるんでいた」
「そういえばそうね」
「だろ? しかし、外に犯人の物と見られる足跡はない。いくら雑草があるからと言って、それを踏んだ跡くらいは残るだろう」
「なるほど……」
三人は感嘆する。
そして坂井は思いついたことを口にする。
「じゃあ、犯人は……」
「内部にいるだろうな」
「えっ!」
坂井は咄嗟に安東から少し距離を取る。
「何で離れたのよ」
「え、いや、あの、ちょっと、ね」
坂井の口調がおかしくなる。
「私が健ちゃんを殺す訳ないじゃん」
「そ、そうだよな。ハハハ」
安心と不安が混ざった笑い方である。
「この関係って一体何なんでしょうか……」
恋を一切してこなかった神宮路はそう呟いた。
「もう少し、恋をすればよく分かるようになるぞ」
「はあ、なるほど……」
警部が結婚している、という噂を聞いたことがない神宮路は子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の左手を見る。すかさず右手で隠す子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。
「警部、左手を見せてください」
「なんだ? 俺の左手がどうかしたか?」
「いえ、特に意味はありませんが、恋というものを警部はしているのか気になりましたので」
「気にするな」
「気になります」
二人の間で激しい睨み合いが勃発する。
その雰囲気に耐えられなくなったのは、意外にも安東だった。
「私、麗を呼んでくるわね」
「あ、うん、お願い」
安東と坂井の受け答えを尻目に睨み合いを続ける刑事二人。
安東がリビングから出ていくと神宮路が子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥を睨みながら坂井に訊く。
「坂井さんと、児嶋さん、安東さん、そして亡くなった笹井さんはどんな関係なんですか?」
「えっと、ただの幼馴染ですよ」
「幼馴染なのに長野で別荘なんか建てて暮らしているのか?」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥も神宮路を睨みながら訊く。
「いいじゃないですか。こちらの事情です」
「そうか」
「そうですか」
そこで話題を変える子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。
「おい、神宮路」
「何でしょうか、警部」
「お前は俺の直属の部下だよな」
「何れ、というか来年には、僕も警部になりますよ」
「だとしても、今は俺の直属の部下だよな」
「はい、一応そういうことになっています」
「なのに、上司を睨んでいるのか、お前は」
「いえ、睨んでなどいませんよ。これは尊敬の眼差しです」
「どこがだ」
「えっ、分からないですか?」
「分からねぇな」
「警部なのに、ですか?」
「警部だとしても、だ」
「警部のくせに、ですか?」
「警部だから分かる、なんてことはない」
「ないんですか」
「ない。断じてない。一切ない。全くない。絶対にない。完全にない。あるはずがない。断固否定する」
「そうなんですか……」
「お前はキャリアだからといって、俺を見下してないか?」
「それこそ断じてなく、一切なく、全くなく、絶対になく、完全になく、あるはずがない、ですよ。断固否定します」
「俺の台詞を使うな」
「使わせて頂きました」
「そういうところが俺を舐めてるって感じなんだよ」
「いえいえ、舐めてませんよ」
などと、言い争っていた。それを気まずそうに見る坂井。
そこへ安東が戻ってくる。歩き方がフラフラしている。
「どうしたんだ? まさか、麗も死んでた、なんてことはないよな」
安東は無言になる。
「え……いや、そんなことはないよな」
「麗も……」
ずっと睨み合いをしていた刑事二人も険しい顔になる。
「見に行こう」
「はい」
坂井と刑事二人はリビングから出る。安東は椅子に座って項垂れている。
「安東さん、大丈夫でしょうか」
「あいつは芯が太いから大丈夫だと思います。あんな風になったのは初めてですけど」
「初めてなのに、そこまで自信を持っていえるんだ?」
「俺は皆を信じていましたから」
「そうか」
風呂前の脱衣所に着く。
「あの、お風呂ということは、その……」
「なんだ?」
「どうかしましたか?」
坂井は戸惑っている。
「とりあえず、開けるぞ!」
「え、あの、その」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は風呂のドアを開ける。坂井は目を閉じる。
「おっと!」
「わ!」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥はドアを閉める。なぜ、そんなに焦ったのかはご想像にお任せする。
「もう死んでるよな、多分」
「はい、おそらく死んでいます」
「だから、あんな格好だったとしても、動揺するな。分かったな」
「は、はい……」
「それにお前はキャリアだ。何れ現場に出なくなるかもしれない。今の内にしっかり経験を積んでおけ」
「了解です」
「あの、俺は、廊下で待っています」
「ああ、そうしておけ」
坂井は脱衣所を出る。
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は深呼吸する。神宮路も真似して、深呼吸した。
「よし、気合入れたか?」
「はい!」
さっきは油断してたんだ、と子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は自分に言い聞かせる。
そして、ドアを開ける。児嶋は風呂に入って、頭が水に浸かっていた。
死んでいるから大丈夫だ、と神宮路は自分に念じる。
「神宮路、近づいて、脈を取れ」
「は、はい」
神宮路が児嶋の首筋に手を当てる。そして、首を振る。
「そうか」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は風呂を見渡す。
「それにしても広い風呂だな。四メートル×三メートルくらいはあるんじゃないか?」
「そうですね。まさかここが殺人の舞台になるとは……」
少し空気が重くなる。
「よ、よし、検死は鑑識に任せるとして、俺たちはリビングに戻るか」
「そうですね」
二人は風呂を出る。廊下には坂井が立っていた。
「リビングに行って待ってればよかったんじゃないか?」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥が言う。
「いえ、俺だけで戻るのはちょっと……」
「まあ、もし、リビングに戻って、安東さんが死んでいたら真っ先にあんたを疑うな」
「ですから、ここにいました」
「だが、残念だが、俺たちは風呂の中にいた。廊下にいる坂井さんの行動は分からない」
「そんな……」
「安東さんが亡くなっていないことを願いますよ」
「いやいや、普通死なないだろ。わざわざ願うことか?」
「一応……」
三人はリビングの中に入る。
そこには二人掛けソファに寝そべってワインを飲んでいる安東がいた。
「おい、麗と桜が死んだって時にワインかよ」
「これを飲んでないと平静保てないのよ!」
安東は若干、キレている。
「ワイン飲んで平静を保つ、なんてできるのか?」
神宮路は呟く。
当然のように、坂井が一人掛けソファに座り、普通の椅子に子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥が座る。神宮路は子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の後ろに立つ。
「うーん、このシャトー・マルゴー、ちょっと変な味するなぁ。ま、いっか」
「飲みすぎるなよ」
「大丈夫、大丈夫。それより、刑事さんたち」
「なんだ?」
「早く犯人捕まえてよね。そうしないとお姉さん、怒っちゃうぞ」
語尾にハートが付いていてもおかしくない喋り方をしていた。
「相当酔ってるな」
お姉さんって神宮路はともかく、俺の方がどう見ても年上だぞ、と思う子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。
「承知しています。これより署に戻り、指名手配します!」
ですよね、と子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥に訊く神宮路。
「うーん。まあ、犯人が分からないまま、署に戻ったときはそうだな」
「犯人が分からないままって、外部犯だったら当たり前でしょ!」
坂井が安東の意見に頷いてから言う。
「それとも、俺か真里のどっちかが犯人、だとでも言うんですか?」
「その可能性もある、というだけだ」
「それにしては、その可能性が一番高いと、思ってる風に見えるけど?」
「そうだな」
「えっ!」
「俺はお前らのどちらかが犯人だと思っている」
坂井も安藤も沈黙する。
「では、一応、笹井さんが亡くなったときにお二人が何をしていたか、というのを伺い対のですが、よろしいでしょうか」
「アリバイですか?それなら、刑事さんたちが来る前に、表を作っておきました」
と言って坂井が《アリバイ表》を見せる。
「なんだこれ、部分的に適当じゃないか?」
「何も言わないでください」
「これを見る限りですと、皆さんそれぞれ、やることがあって誰にも犯行は出来なさそうですね」
「そうか?」
「警部は出来ると思うのですか?」
「いや、何でもない」
「あ、そうだ、今日は打たないと」
と、安東が立ち上がる。
「何を打つんですか?」
「美肌注射よ」
「お前、まだそんなことやってるのか?」
「いいでしょ、別に。私の勝手よ」
安東はリビングを出て行く。
「美肌注射、なんてものがあるんですか」
「はい。真里はあれに凝ってて。確か、ビタミンBとかCとかが入ってる注射だったはずです」
「なるほど」
「ニキビとか肌荒れに効果があるらしいです」
「そうなんですか」
そこへポシェットを持った安東が戻ってくる。
「早いな」
「だって私の部屋、すぐそこだし、注射器を取りに行っただけだし」
そう言って二人掛けソファに座った安東は注射器を取り出す。内容量、五十ミリグラムを書いてある。
「それが美肌注射なんですか」
「そうよ。神宮路君も打つ?」
「いえ、遠慮しておきます」
「これ結構効果あるのになぁ」
効果には個人差があるだろ、と思う坂井。
注射を打つ安東。それを見る男三人。
「ちょっと、何で見るのよ。照れるじゃない」
全然照れているように見えない、と思う男三人。というか、何で注射くらいで照れるんだ、とも思う男三人。
そこへ鑑識の二人が戻ってくる。
「検死の結果はどうだった?」
鑑識の一人が説明する。
「えー、亡くなっていた女性ですが、感電死でした」
「感電? 溺れたんじゃないんですか?」
「死亡直前に筋肉が麻痺していた、と見られます。溺死ではそのようなことは起こりません」
「そうなんですか」
鑑識官は頷き、言葉を続ける。
「おそらく、水中で電撃を受けたのだと思われます」
「そうか、分かった」
鑑識の二人は子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の後ろ側に移動しようとする。それを止める子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。
「それと、さっき、もう一体、死体が見つかった」
「といいますと、ここにいないのは黒い服の方?あの方がお亡くなりに?」
「そうだ。風呂だ」
「了解です」
「俺が案内しますね」
と、言って坂井が立ち上がったとき、安東がソファから落ちる。
「ん? 真里? どうした?」
安東は立ち上がる。
「大丈夫、ちょっと眩暈が……」
安東の呼吸が速くなる。
「おい! 本当に大丈夫か!?」
刑事二人と鑑識二人も近寄る。
その時、安東が倒れる。呼吸が止まる。
「意識飛んだぞ! 鑑識! 何とかしろ!」
「何とかって言われたって、医者じゃないんですけど……」
「いいから早く何かするんだ!」
安東を囲む、坂井と警察四人は安東に対して、人工呼吸や声掛けをやる。しかし、それも空しく、安東は絶命する。
「くそ! 何で俺の周りでこんなにも人が死ぬんだ!」
坂井は一人掛けソファに倒れこむように座り、項垂れる。
「桜も! 麗も! そして真里も! うわぁぁぁぁ」
遂に泣きだす。
「鑑識、安東さんと児嶋さんの検死だ」
「はい、了解です!」
「神宮路は風呂まで案内しろ」
「はい!」
リビングから神宮路と鑑識の一人が出て行く。
安東はソファに寝かせられ、笹井の検死報告をした鑑識官が検死をしている。
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は坂井に近づく。
「今はつらいだろうが、耐えるんだ」
「無理だ! 俺はもう、もう……」
更に泣く。
「俺は三人もの人の人生を狂わせちまったも同然だ! 俺は死ぬしかないんだ! 死んで詫びるしかねえんだ! 死んで報わなくちゃ駄目なんだ! 俺なんか死んだほうがいいんだ! 死んで地獄でまた死ぬんだ! いや、もう既に人として終わっている! 俺が死ねば誰にも迷惑をかけなくて済むんだ! もうこんな人に迷惑をかけっぱなしの人生はやめよう! 今すぐ死のう! 自分を最も苦しませる生き埋めで死のう! よし死のう!そ うと決まったらすぐに穴を堀りに行こう!」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥には坂井が泣き声と混ざった声で言っていたのでよく聞き取れなかったが、坂井が自殺をしようとしていることは分かった。
坂井は外に出ようと立ち上がる。
「おい!」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は怒声を出す。
「お前、死のうとでも考えていたのか! 人が三人死んだのを自分の所為だとでも思って、死のうとしたのか! そうすれば報われる、とでも思って死のうとしたのか!自分なんか死ねばいい、とでも思ったのか! 人として終わっているから死のうとでも思ったのか! そんなくだらないことを考えている暇があるなら犯人を自分で捕まえてそいつに報わせようとは思わねえのか!」
そこで息を切る。
「言っておくけどな! 坂井! 人ってのは何れ死ぬんだ! 遅いか早いかの違いだ! だが、それはお前の所為じゃねえ! それを決めるのもお前じゃねえ! だからお前の周りで人が死んだからって、それはお前が死ぬ理由にはならねえ! お前が死んだところで何かが報われる訳でもねえ! お前なんか死んでもいい、なんて思う奴ほど死ねばいいんだ! だから、報うとか報わないとかはお前が死ぬ理由にはならねえ! お前がいくら人として終わっていても、いくら人道から外れていたとしても! それも、お前が死んでいい理由にはならねえ! 分かったか!」
坂井は圧倒される。更に子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は言葉を続ける。
「それに、死んでもいい人間、なんてのはこの世のどこを探してもいねえんだ! どんな凶悪な犯罪者であっても、どんな最悪な殺人鬼であっても、そいつらにだって、家族や恋人、そういう関係を持った人がいるんだ!」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の言葉に更に熱が入る。
「死ねば誰にも迷惑をかけねえだと!? ふざけるな! 人は誰だって生きている時点で迷惑をかけているんだ! 迷惑をかけたくなかったら、産まれるな! 生きるな! 生きろ! 死ぬな! 何も食べるな! 心配させるな! 服を着るな!人を好きになるな! 人を嫌いになるな! 何も買うな! 何も売るな! 何も学ぶな! 何も知るな! 何でも知れ! 何でも知っていろ! 何も見るな! 何も聞くな! 何も喋るな! 何も触るな! 何かに触れるな! 何もするな! 何でもしろ! 何だってしろ! 人の嫌がることをしろ! 人の嫌がることをするな! 人の好きなことをするな! 人の好きなことをしろ! 人と一緒に好きなことをしろ! 他人を楽しむな! 他人と楽しめ! 人を殺すな! 自分を殺すな!」
「そんな支離滅裂で意味の分からないことを……」
「人なんてこの世に存在した時点で支離滅裂で、意味不明で、不可解で、不可思議で、グチャグチャで、滅茶苦茶で、滅茶滅茶で、無茶苦茶で、茶々無茶で、茶々無茶苦で、存在意義もなく、存在意味もなく、存在理由もなく、存在価値もなく、生きて死んで……産まれて死んで……それで終わりだ」
「結局……何が言いたいんですか?」
「お前が死ぬ意義も、意味も、理由も、価値も、必要も、必然性も、重要性も、何一つとして無い、つーことだよ!」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥が喋っていた時に止まっていた坂井の涙がまた流れだす。
そして言う。
「分かっていますよ。そんなこと。自殺なんて、選択肢を考える時点で選択肢に入りませんよ」
「分かっているんだったら問題ねえ。すまんな、なんか、熱くなっちまって」
「いえ、ありがとうございます。目が覚めました。まあ、刑事さんに言われるまでもなく、遅かれ早かれ、覚めていたと思いますけどね」
「嘘つけ」
「嘘じゃないですよ。嘘かもしれませんけど」
そして、二人は笑い合う。坂井は笑い泣きだった。
「あの、お二人に水を差すようで後ろ髪が引かれる思いで言うんですけど、死体を目の前にして、笑い合うって、犯人にしか見えませんよ」
「おっと、そうだったな」
「でも、警部の言葉、感動しました」
「ん? そうか?」
「署ではダラけている警部も現場に出ると本気を出して、更にたまに熱血漢になる、という噂は本当だったんですね」
「刑事さん、署ではダラけているんですか?」
「気にするな。ハハハ」
さっきまでの笑いと違い、苦笑いになる子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。
「じゃあ、検死、頼む」
「はい、了解」
「坂井さん、死んだ三人の部屋を見てもいいか?」
「あ、はい、どうぞ。案内しますね」
坂井と子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥はリビングを出る。
左に進み、渡り廊下前で止まる。右側にあるドアを指差す。
「ここが桜の部屋です。鍵は掛けてありません」
「よし、じゃあ、家捜しするか」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は笹井の部屋に入る。
「家捜しって・・・・・・もっと違う表現があるんじゃ・・・・・・」
坂井も続いて入る。
「うわ・・・・・・坂井さんの写真だらけだな」
「ベッドに俺の等身大抱き枕がありますよ・・・・・・どこでどうやって手に入れたんだか・・・・・・」
「坂井さんも知らないのか」
「俺はこんな空間にはずっといたくないですね」
「俺だってそうだ。ここには特に気になるものは(写真や抱き枕以外は)ないな・・・・・・ん?」
「どうしました?」
「笹井さんってタバコ吸うのか?」
「見たことありませんね」
「なのに机の上にタバコの空箱・・・・・・」
「本当だ。なんででしょう・・・・・・」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥はなにやら呟いている。
「よし、分かった。もう出よう」
「え? 何でタバコの空箱があったのか分かったんですか?」
「一応な。検死結果が出れば確実になるはずだ」
坂井はいまいち納得がいかない顔をしていた。
「刑事さんがそう言うのなら・・・・・・」
「よし、次だ」
二人は笹井の部屋を出る。
「本当に分かったんですか?」
坂井が疑わしそうに見る。
「俺は長野県警の警部だぞ。分かったと言ったら分かったんだ」
それ以上坂井は何も言わない。が、顔で子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥を疑っているのがよく分かる。
安東の部屋に着く。
「ここが真里の部屋です」
「なるほど、リビングからすぐ近くだな。斜め向かい、と言ったとこか」
「そうです。向かいのドアから地下のワインセラーに行けます」
「まあ、とにかく、中を見るか」
「はい」
坂井は安東の部屋のドアを開ける。
部屋の中にはバランスボールやルームランナー、ヨガマット等の健康グッズが所狭しと置かれていた。
「なんだこの健康グッズの山は」
「何年か前に入ったときはもっと少なかったはずなんですけど」
「さっきのビタミン剤もこの内の一つか」
坂井はベッドへ近づく。
「このベッド、マイナスイオンが出る、との噂のやつですよ。さらに低反発枕・・・・・・」
「度を越した健康マニアだな」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は部屋の中をザッと見回す。
「特に何もなしだな」
「そうですね」
二人は部屋を出る。そして児嶋の部屋へ向かう。
「この家は広いな。誰が建てたんだ?」
「大工さんです」
「いや、そうじゃなくてだな」
「冗談ですよ。お金を出したのは俺です」
「何故だ?」
「何故って、これがベストだからです」
「誰にとってだ?坂井さんか?それともあの女性三人か?」
「どちらも、です」
「よく分からないな」
「警部さんも恋をすれば分かりますよ」
「フッ、俺は既婚だ」
と言って左手を見せる。薬指には指輪が光っていた。
驚く坂井。
「えっ、じゃあ、何でもう一人の刑事さんには見せてあげなかったんですか?」
「あいつは、俺が既婚だろうと未婚だろうと関係ないからな。できればあいつには未婚だと思わせておいたほうがいい」
「何故ですか?」
「何れ『上司になる部下』に対する上司の親心だ」
「はあ」
児嶋の部屋に着く。躊躇うことなくドアを開け、部屋に入る子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥。
「三部屋目だから躊躇しないのか?」
それとも、「何れ『上司になる部下』に対する上司の親心」が照れくさかったのか? と坂井は思った。
坂井も部屋に入ろうとした。だが、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥がすぐ出てきた。
「特に気になるものはなかった」
「早いですね」
「長年の経験の勘だ」
「勘で証拠があるかどうか分かるんですか」
「分かる」
「へぇ・・・・・・まあ、刑事さんがそう言うのでしたらそうなのでしょうね」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は頷く。
「よし、リビングに戻って鑑識の報告を待つぞ」
「はい」
二人はリビングへ行く。
「お帰りなさい。何か進展はありました?」
「まだ、特にない。検死は終わったか?」
「丁度、今終わったとこです」
「死因は?」
「ニコチン中毒かと」
「ニコチン、ですか?」
坂井が訊く。
「ええ、タバコに含まれるニコチンです。一応調べたところ、ワインと注射器内にニコチンが入っていました」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は頷く。
そこへ神宮路ともう一人の鑑識官が戻ってくる。
「結果はどうだった?」
「予想通り、窒息死でした」
「そっちは窒息なんですか」
「おそらく、誰かにお湯に顔をずっと浸けられていたのでしょう」
「そうですか・・・・・・」
「それと、脱衣所にこんなものがありました」
と言って神宮路はショルダーバッグを取りだす。
「ああ、それは麗のですね」
「児嶋さんの? 中を見てもいいか?」
「構いませんよ」
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は神宮路からショルダーバッグを受け取り、中身をテーブルに広げる。
「防犯ブザー、非常食、懐中電灯、防災頭巾、防犯、防災グッズだらけだな。宇宙食なんてどこで使うんだ?」
「あいつ、神経質でしたから。ろくにここから出ないくせに」
「でも、これだけあって、なんでアレがないんだ?」
「アレ? アレってなんですか?」
「そうか、アレでアレをやってからアレしてアレをアレすれば・・・・・・。分かったぞ!」
「アレばっかりで分かりませんよ」
「よし、じゃあ、今から俺の推理を披露しよう」
そう言って子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は喋りだす。》
「さて、やっと主人公のお出ましだ」
そう。やっと主人公のお出ましだ。俺が主人公。坂井でもなく、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥警部でもなく、神宮路警部補でもなく、ましてや死んだ児嶋、安東、笹井でも脇役の鑑識でもなく、俺が主人公。
高梁博孝。これが俺の名前。今年の春に東大を卒業し、長年の夢だった私立探偵を始めた。始めるまでに半年のアルバイト生活があったという悲しい現実の話を俺に振ったやつはぶっとばすことに決めている。絶対に他人には触れてほしくない。
「何か言いました?」
前に座っている峰咲さんが俺に言ってくる。
「いえ、何でもないです」
「そうですか。読み終わりましたか?」
「え、はい」
「では、原稿は回収します」
峰崎さんは俺の手から原稿を取ってカバンに入れる。
峰咲芳。日本で有名な推理小説家であり、探偵評論家。推理小説を評論する探偵という人は会ったことはある。しかし、この人は推理小説を書き、探偵を評論する。
彼の評論スタイルはまずネットで新人私立探偵を見つける。その人のところへ直接出向き、自分の原稿を読ませる。その場で推理を聞き、推理が合っているかを評価し独断と偏見で点数を付ける。結果はその原稿が出版されるまで分からない。小説のあとがきに点数と評価が書かれている。その評価が低すぎて探偵を辞めた人も数多くいる。
俺は昨日ホームページを開設したばかりの超新人ド素人私立探偵だというのにもう峰咲さんはやってきた。
そして、先ほどまでの話は全て、その原稿の中の物語。
今までの話の流れで子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥警部が事件を解決すると思った人もいると思う。が、しかし、ちゃんと原稿の始めと終わりには《》を付けてある。騙される方が悪いのだ。ハハハ・・・・・・。
おっと、このままでは俺のイメージが一気に落ちてしまうので、話を進める。
峰咲さんのTシャツには大きく赤文字で「幸福」という文字が入っている。
同じ格好でTシャツに「世界平和」と書いてある俺とは中々気が合いそうだ。
「解けました?」
「いや、ちょっと待ってください」
いくらなんでも早いだろ。今、原稿を読み終わったばっかりなのに。
でも、それほど難しくはないはず。俺は原稿の内容を思いだす。推理小説を読みまくって鍛えた頭脳、思いっきり使わせてもらおう。
「うん。多分合っているはずです」
「ほう」
峰咲さんが微笑む。悪代官みたいな顔になる。
「では、この話の推理、聞かせてもらおう」
俺は峰咲さんと机を挟んで向かいあっていたソファから立ち上がる。
俺は部屋を歩く。
「まずは話を整理しましょう」
その方が俺にとっても話し易い。
そこへ《高梁探偵事務所》と書いてあるドアを押して入ってきた人がいる。
「お邪魔しまーす!ヒロ君いる?」
俺の彼女の嶺崎香織だ。長い髪を後ろで結んでいる。
「香織!」
と、俺と峰咲さんが言う。というか叫ぶ。と同時に二人で顔を見合わせる。
何で峰咲さんが香織を知っているんだ?
峰崎さんは香織に顔を向ける。
「何故、ここに?!」
「お父さんもいたの?」
お父さんだと!
「お父さん!?香織のか!?」
「君、香織を知っているのか!?」
「知っているも何も、彼女ですが・・・・・・」
「なぁにぃーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
峰咲さんの声が探偵事務所兼住宅を震わせる。
予想していたのだろう→香織は耳に指を入れている。
予想していなかった人→俺は耳を押さえる。
「ちょっと落ち着きたい。香織も一度座って」
俺と香織は隣同士で座る。それを嫌そうな顔で見る峰咲さん。
「今、原稿よりも何十倍も大事な出来事が起きた。分かってるな、高梁君」
「はい」
これはかなり重大だ・・・・・・。
「君は香織と付き合っているのだね」
「はい」
勿論。四年目だ。
俺からも質問する。
「香織の名字は嶺崎。あなたは峰咲。名字が違うじゃないですか。なのに親子なんですか?」
「私の『峰咲芳』という名前はペンネームだ。本名は嶺崎馨という」
馨の娘で香織・・・・・・。筋が通っているような、通っていないような・・・・・・。
「『嶺崎芳』という名は私の本名を少し捩ったものなんだ」
俺は頭の中で変換する。
嶺崎馨→みねざきかおる→峰咲芳→みねさきよし。
「えぇーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
俺の驚きの声が探偵事務所兼住宅を震わせる。
予想していたのだろう→香織は耳に指を入れている。
予想していなかった人→峰咲さんは耳を押さえている。
「お父さんでありましたか! これはとんだご無礼を! 申し訳ありません!」
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」
定番の文句を言われる。
「俺に峰咲さんをお父さんと呼んではいけない、という法律はありません」
「まあ、それもそうだな」
峰咲さんは納得する。
今の「〜〜という法律はありません」で納得したのは峰咲さんだけだ。納得されたのでまた少し驚く。
それから五分間誰も何も喋らない、沈黙の時間が訪れる。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
はっきり言ってこれは辛い。生き地獄だ。
そこで俺は話を香織が来る前に戻してみる。
「あの、とりあえず、俺の推理を聞いてください」
「おお、そうだったな。それが本題だった」
「じゃあ、私も原稿読ませて」
香織は峰咲さんから原稿を貰い、読む。
その間、俺は更に香織にも分かるように推理を纏める。
二十分後。
「読み終わったよ」
香織が言う。
この二十分間も生き地獄だった。香織は真剣に原稿を読んでいて話しかけられない。峰咲さんは俺のことを手を組んで思いっきり睨んでくる。俺は推理を纏めると言って、ずっと下を向いていた。
やっと開放される。
「ではまず、この事件を整理しましょう」
俺は立ち上がる。
「最初に死んでいたのは笹井桜。プールにて感電死。二番目は児嶋麗。風呂にて窒息死。最後に安東真里。リビングにて中毒死」
香織は頷く。峰咲さんは無表情だ。
「一番簡単なのは児嶋。これは誰が殺したか分かるよな」
香織に訊く。
「うん。安東さんしかいないね」
俺は頷き、歩きだす。
「そう。この場合、アリバイが百パーセントなく、殺すことが可能なのは安東のみだ。坂井が刑事二人と鑑識をプールに案内している時に風呂に行ってバスタブに浸かっていた児嶋をお湯に入れる」
香織はまた頷く。よき理解者だ。反対に峰咲さんの無表情が怖すぎる。
「こんな風に児嶋を安東が殺したんだろう」
これで部屋を一周した。
「次は安東。死因は中毒死というのはさっき言ったな。そして、それはニコチンだ」
香織は毎回頷いてくれる。峰咲さんは表情一つ変えない。
「でも、ニコチンなんて普通の人には買えないんじゃない?」
「原稿で鑑識が『タバコに含まれるニコチンです』って言ってただろ」
「あっ! タバコに入っているのね。でも、タバコはタバコでしょ。ニコチンだけってことはないんじゃない?」
「俺もちょっとパソコンで見たことがあるだけだから、本当かどうかは分からないんだが、タバコを水に浸けてその水の蒸留水を注射すると人の大人ならタバコ五本分くらいで死ぬらしい」
「へぇ」
ワインにもニコチンが入っていたと書いてあったから、それも後押ししたんだろうな。
「そして、タバコを持っていたのは」
「笹井!」
「そう」
笹井の部屋にはタバコの空き箱があった。これが決定的な証拠だろう。
「でも、その時には笹井は死んでいたのよ。どうやるの?」
「おそらく夜のうちにビタミン剤と中身を取り替えておいたんだろう。ワインはワインセラーには誰でも自由に入れるみたいだったからな」
「でも、どのワインを飲むかは分からないんじゃない?」
「小学生の時からの親友だろ。それくらい分かるんだろう」
「ふうん」
ちょっと無理矢理な推理だが香織は納得してくれた。峰咲さんの方は怖いので見ない。
ここでまた部屋を一周する。
「そして次、笹井。プールで感電。これを成功させる道具は色々ある。電気コードとか電線とかな」
「でも、そんな道具出てこなかったわ」
「ああ。でも、電気を流す道具は出てきただろ」
香織は分からないようだ。
「スタンガンだよ」
香織は原稿を捲る。
「ああ! 出てきたわ!」
香織も気づいたようだ。
「でも」
香織は原稿を更に捲る。
「あった。脱衣所から警部補君が持ってきたショルダーバッグにはスタンガンは入ってなかったわ。どこかに処分したんじゃ」
「プールの窓」
「え?」
「プールの窓、割れてただろ」
「ええ、そうね」
「それ、多分スタンガンで割ったんだ。プールの中から投げたんだろう」
「そして、外に落ちて、雑草にまぎれて見えなかったってことね」
俺は頷く。
「じゃあ、笹井を殺したのは児嶋?」
俺はまた頷く。そこで更に一周が終わる。
「そうだろうな」
「え? じゃ、じゃあ。笹井は児嶋に殺されて、児嶋は安東に殺されて、安東は笹井に殺されたの?」
「そう。笹井は安東の注射器の中身を入れ替えるのを夜にやればいいだけだから時間は関係ないだろ」
香織は納得したようだ。
ずっと黙っていた峰咲さんが拍手をする。無表情が突然満面の笑みに変わる。
「素晴らしい! 君の推理はいい! 推理の格好もいい! 部屋を歩きながらの推理! それは探偵の最大重要点だ!」
部屋を歩くのは最大重要点だったのか!
俺はソファに座る。峰咲さんは香織から原稿を受け取りカバンに入れる。
「今日は香織が来る、というハプニングがあったが君の推理は素晴らしかった。是非、出版されるのを待っていたまえ」
「はい!」
「では、私は帰るよ。香織は・・・・・・まあ、好きにしなさい」
そう言って峰咲さんは帰った。
俺は大きく伸びをする。
「あぁー、緊張したー!」
「ご苦労様」
香織がキッチンからお茶を出してくれる。
「香織のお父さんじゃなかったらあそこまで緊張しなかったのにな。お前、変なタイミングで来るから」
「いつ来ようと勝手でしょ。それにホームページ建てた翌日に来るとは思わないじゃない」
「まあ、そうだな」
それは俺も同感だ。噂には聞いていたが、こんなにも早く来るとは思っていなかった。
「まあ、とりあえず、出版されるのを待つか」
「大丈夫。ヒロ君だったら高得点確実よ」
「そうだといいんだけどなぁ」
そして出版された。
《あとがき
峰咲芳
今回の『TOSTVBWSEKE』如何でしたでしょうか。私としては警部の熱血っぷりや神宮路とのいざこざをもう少し増やせたらな〜、など思っていました。
楽しんでいただけたら幸いです。
さて、この作品の原稿を推理したのは、先日事務所を開いたばかりの高梁博孝さん。気になるその点数は・・・・・・八十点!!私としてはかなりの高得点です。辻褄の合った推理をし、道理が合っていて、聞いていて頷ける推理でした。もう少し証拠を多く並べるとよかったでしょう。
実はこの作品には大ヒントが隠されています。そこを当てることが出来たら十点は上がったでしょう。読者の皆さんも是非、その大ヒントを探してみてください。
大ヒントのヒント。作品に注目!
以上、『TOSTVBWSEKE』とあとがき、探偵評論でした。
次回作も乞うご期待!》
俺はそのあとがきを読んだ。そして、事務所のソフアで項垂れる。
「くそぉ・・・・・・。百点じゃねえのか・・・・・・。くそぉ・・・・・・」
「百点じゃなくても、八十点でしょ。書いてあるようにお父さんにしてはかなり高得点よ」
香織がお茶を出して慰めてくれる。
確かに、作中での警部の推理は俺とも若干違うところがあった。あれが百点だとすると俺は八十点でも頷けた。頷けてしまった。
「でも、なあ・・・・・・」
やっぱりやったからには百点がよかったよ・・・・・・。
「『もう少し証拠を並べるとよかったでしょう』か・・・・・・。何だろう、証拠って・・・・・・」
「もしかしたらそっちよりもヒントの方を見つけてほしいんじゃない?」
「そうかもしれないな・・・・・・。『作品に注目』、か・・・・・・」
俺は本をもう一度最初から読む。
「作品なんて出てきたか?」
そんなの無かった気がするけどな・・・・・・。ん?これは・・・・・・。
「作品ってまさかこれか?」
「え?どれどれ?」
香織も本を覗いてくる。
「これだ」
と言って俺はある所を指す。
「えっと、《『飛行機』…桜、『為替に濁点』…麗、『いろは』…真里、『新聞』…麗、『大和』…真里、『イコール』…麗、『はがき』…桜、『おしまい 上巻』…真里、『日本』…桜、そして今日、取りに来た、『おしまい 下巻』…真里。》これがどうしたの?」
「何でここにこんなに拘っているんだ?普通なら『今まで書いてきた数々の作品。』とでも言えばいいじゃないか」
「言われてみればそうかもしれないわね。でも、お父さんはそういう所が細かいから」
「ふうん」
関係ないのかなあ?
「じゃあ、私は帰るわね」
俺は時計を見る。もう九時か」
「おう。分かった」
「じゃあね、また明日」
「ああ、また明日」
香織は帰った。
俺は一人、ソファで考える。
「うーん。何かありそうなんだよなあ」
考える。考える。考える。
「分かんねえ!」
イライラして思考が纏まらない。
「今日はやめよう」
俺はソファから立ち上がり電気を消して二階へ移動する。
一階は事務所だが二階は俺の住居になっている。
「テレビ見て早く寝よう。考えるのは明日だ」
俺は冷蔵庫から果汁百パーセントのリンゴジュースを取りだす。
テレビを点け、ソファに座ってリンゴジュースを飲む。
『通信技術の今』という特番を放送している。
《通信技術というものは日進月歩で進歩しており、今では衛星放送や携帯電話、パソコンなどの使用も出来るようになりました。
さて、通信技術で有名なものにモールス信号というものがあります。トンとツーで表すものです。
他にも通信で使うものには通話表というものがあります。これは『朝日のア』や『いろはのイ』と一字ずつ、伝えることが出来ます。》
「ん?『いろは』?」
なんか最近見たような・・・・・・。
「まさか!」
《『飛行機』…桜、『為替に濁点』…麗、『いろは』…真里、『新聞』…麗、『大和(や』…真里、『イコール』…麗、『はがき』…桜、『おしまい 上巻』…真里、『日本』…桜、そして今日、取りに来た、『おしまい 下巻』…真里。》を思い浮かべる。
「これは通話表を使っているのか!」
俺はパソコンを開く。『通話表』を検索。
「ビンゴだ・・・・・・」
俺はメモ帳をジーパンのポケットから取りだす。
「飛行機のヒ、為替はカでそれに濁点でガ、いろはのイ、新聞のシ・・・・・・」
俺は本とパソコンの画面を交互に見ながらメモ帳に全部書き出した。『イコール』というのはないからそれは『=』として使うんだろう。
「繋げて読むと、《被害者=犯人》・・・・・・かな・・・・・・」
大ヒントってのはこれか・・・・・・・・・。確かに大ヒントだ。分かる人には分かるんじゃないか?分かったとしても偶然だと思うかもしれないけど・・・・・・。
「凄いな、峰咲さん・・・・・・」
俺はただただ感嘆するだけだった。
「そういえばこの作品名の『TOSTVBWSEKE』も気になるな。これも通話表か?」
俺は英文通話表や欧文通話表に当てはめてみたがどちらも駄目だった。
「そもそもこれはなんて読むんだ?『トステレビバセック』か?」
Wを無視したような気がするのは置いておく。
「何にしても意味があるようには見えないけどなあ」
テレビに出ている芸人の声が聞こえてくる。
《それではモールス信号を使って愛沢さんにメッセージを送ってみましょう。
『ツーツートンツーツー、トンツー、ツーツートンツートン、トンツートンツーツー、ツートンツーツートン』
『愛してる』と打ちました。これで僕の気持ちは彼女に伝わるのでしょうか?
おっと、返事が来ました。
『ツーツートンツーツー、ツーツートン、トンツートントン、トントンツートントン、トントンツー』
これは『ありがとう』でしょうか。つまり付き合ってもいい!?そうじゃないか。ハハハ・・・・・・》
「モールス信号か、ダメ元で調べてみるか」
俺は『モールス信号』を検索。
アルファベットをトンツーにしてみる。
「で、どうすればいいんだ?」
俺のメモ帳にはトンとツーが並べられている。
「このまま日本語のやつに置き換えてみるか」
だが、一字一字で分かれていない為、いろんな文が出来た。
「多分、これが一番有力だろうな」
そう思ったのは『娘はやらん』だった。
「多分これだ。峰咲さんから俺へのメッセージだろうな」
俺は苦笑するしかなかった・・・・・・。
『三角錐関係』了
初めての投降です。おかしな点もあるかもしれません。お気づきになった方はご指摘ください。