紫陽花が濡れる
続くかもしれません。といっても、アナザーサイドで「彼女」視点を書くだけですが。出来ましたら短編として上げます。
雨の日だった、午後だった、世間は梅雨だった。
彼女は今年も思い出すのだろうか、あの雨が深々と降り続く放課後に、濡れた私たちを。私は今年も思い出してしまった、あの生温い臭いのした日を。
『紫陽花が濡れる』
帰るのすら億劫になる程の大雨。ぼんやりと椅子に座っているだけでも感じられる程の湿気。私の髪の毛にすらそれは侵食してくる。
雨の日は髪の毛が大変な事になる。これは全国の女性に共通する悩みだと思う。うねるうねる。と友だちが呪文のように嘆いていた。
そんな友だちも、既に家路についているであろう午後五時半。六時までには此処を後にしようと思っているけれど、如何せん雨が止んでくれない。傘が無いわけじゃない。折り畳み傘が肩身を狭くして鞄に押し込まれている。
じゃあどうして私は帰らないのだろうか、自分でも疑問なのだからおかしな話だ。
「あっつ」
一体誰が決めたのだろうか、『四時半には校内の空調機は全て停止します』そんな愉快な張り紙が忘れられたように、教室の後ろの黒板にマグネットで貼り付けられている。居残りをする生徒につくづく優しくない学校だなと思う。
愚痴を言っても始まらないと、私は机に体を預ける。授業中に寝る体勢と同じようにして。腕を枕にして、うつ伏せに寝る。左を向けば未だにざーざーとうるさ音を立てて雨が騒いでいる。窓はもう濡れに濡れている。
一過性の火傷みたいなものだよ。そう友達に言われた。一過性の意味も火傷の意味もいまいち捉えられない自分がいた。そういうものなのだろうか。一過性の火傷、そう銘打って友達は私に、やめときな。と肩を叩いて告げた。
彼女は美人だ。こう言えば陳腐に聞こえるかもしれないけれど、彼女はお世辞抜きに美人だ。高嶺の花、文字通りの存在は誰にも摘まれることもなく、女子校生活を歩んでいる。
否、これは私の願望であって、実際には色々な噂がそれこそ、色んな色を付けられて飛び交っているのだけれど。私はそんなこと考えたくもないので、無視を決め通している。
「一過性、火傷、やけど」
覚えたての言葉を発するように私は呟いた。どう頑張ってもその意味は掴めそうにない。友達は何故こう言ったのだろうか、耳慣れしない単語だ。火傷という単語が単品で投げられたならば、さすがの私でも意味は難無く拾えるけれど。『一過性の火傷』まるでそれが一つの単語であるかのように、彼女は溜め息を吐きながら私に言った。
『女子校での恋愛なんて、そんなもんよ?』
ずっと鳴り続ける窓の音は段々と気にならなくなってきた。耳が慣れてきたのか、はたまた興味が無くなってきたのか、やっぱり自分でも疑問だ。
窓の音の代わりに、扉が開く音が私の耳には新鮮に聞こえた。
「あれ、西藤さん」
何してるの?なんて訊く彼女は雨だというのに笑っている。嗚呼、思わず上げた顔の温度が上がっているのが自分でも分かる。高嶺の花はきちんと地を足に、じゃなくて地に足を付けて歩いてくるのに高嶺なのだからおかしな話だ。
気が付けば、彼女は私の目の前に立っている。
「さいとーさん?」
「えっ、いや、その雨だから」
そう言ってから日本語が変な事に気付いたのは言うまでもない。雨だからって、今日は朝から雨だったのだから傘が無いはずがないのに。後悔先に立たず。たまには先陣をきってほしいものだ。
「そっか」
彼女はにっこりと音が出そうなくらいに綺麗に笑って少し離れて行った。思いがけず納得されて、逆に私は困ってしまった。
ははっ。と湿気がたっぷりなこの空間とは裏腹に私から出た笑い声は乾ききっていた。 まいったな。そう思ったときに彼女の髪が濡れているのに気付いた。それにブラウスも濡れている。今日はコンタクトをしていないから気付かなかった。眼鏡は机の上に放置されている。
「外にいたの?」
雨降ってるのに?傘は?なんて質問したくなる気持ちを抑えて、含ませた質問をしてみる。
彼女は何かを探しているらしい、きょろきょろと頭を動かすのを止めてこちらを見る。
「え?うん」
目を凝らして見れば彼女はびしょ濡れだ。この激しい雨では、ほんの数十秒傘を差さずにいただけでも、びしょ濡れになるのは明白だ。傘も差さずに、何をしていたんだろうか。
すっかり顔の温度も下がった。それなのに私の頭の中は無意識の内に目の前にいる彼女で一杯らしい。せわしなく疑問が飛び交っている。
「何か探し物?」
「ちょっとね」
今度は彼女が困ったように笑う番で、私は首を少し傾げた。そんなに大事な物なのだろうか。
「どうかした?」
「え?」
「眉間に皺、寄ってるよ」
「あっ」
彼女が何をしていたのか、気になる気持ちは膨らむ一方で、目を凝らして眉間に皺を寄せたままだったらしい。
とんとん。と自分の眉間に人差し指を当てた彼女の姿がとても愛らしくて、私は一気に顔が赤くなった。
そいえばこんなに彼女と会話したのは初めてだ。今更ながらに気付いた自分に苦笑する。今まで喋ろうと思っても声は出なかったのに、人間その時になると結構やるもんだ。と、自分を少し褒めてみたものの、次の言葉は一向に出てきてはくれない。何か無いかと意識をすればするほど言葉は駆け足で去っていく。この状況を理解すればするほど顔が赤くなる。その証拠に、眼鏡をかけることを忘れている。ぼんやりと視界は、まるで頭の中の様。
気がおかしくなりそうだ。火傷の意味は少しだけ分かった気がする。
彼女は相変わらず、机の下を覗き込んだりして忙しない。何がそんなにも彼女を必死にさせているのだろうか。大事な物、彼氏からのプレゼントとか?自分で考えて自分で落ち込んでしまう。危うく机に顔面を強打するところだった。
気を取り直して冷静に考える、失くした物は何だろうか。これだけ一生懸命探しているのだから、家の鍵辺りが一番妥当だろう。なら失っては一大事、一緒に探そう。気がおかしくなる一歩手前の人間にしては、良く出来た提案だと思う。よし、と自分の中で拳を握り実際にはようやく、眼鏡を掴む。視界は良好、彼女の事もばっちり見え……。
「ぶっ」
思わず噴いてしまった。えっ、と小さく呟いて首だけをそのままの体勢で彼女はこちらを向いた。
「ナンデモナイデス」
視線を思いっきり逸らして、私は精一杯日本語を発した。今まで眼鏡をしていなかったのが一生の不覚……ではなくて。眼鏡をしていなかったから気付かなかったけれど、彼女は机の下をしゃがみこまずに覗いていた。だから、その、ピンク色とか断じて見てません、はい。
ちらりとゆっくり視線を彼女に戻せば、彼女は立ち上がっていてこちらを向いていた。
「一緒に探すよ」
すんなり言葉が出てきてくれて私は安心しつつも脳裏にちらつく淡いピンクが気になって仕方が無い。『顔は綺麗なのに、あんた変態だよね。』前半は的外れだが、後半は当たっていると今気付いた。友達はなかなか鋭い。
「いいよいいよ、もう時間も遅いから諦めるし」
笑顔で断りつつも、彼女の表情はどこか曇っている。濡れた髪やブラウスは湿気のせいで一向に乾きそうもない。ブラウスが濡れていたら気持ち悪いだろうな。とか考えている内に自然と視線が彼女の顔から下がっていく自分に、私は幻滅以外の何物も覚えなかった。
「何失くしたの?家の鍵とかなら大変じゃん。だから」
「いいの」
一緒に探すよ。と続ける間も無く彼女はそう告げた。相変わらず悲しそうな笑顔のままで。不謹慎だと分かっていてもその表情は綺麗で、私の体温は上がりっぱなしだ。女の子は泣き顔とかが綺麗だって言ったら友達に呆れられたのを思い出した。
「ほんとにいいの?」
「うん」
「そっか」
それ以上彼女は何も言わないし、私も何も言えない。彼女がいいのならいいじゃないか、と思う反面割り切る事が何故か出来ない。花が水に溺れてるみたいに、彼女の色はぼやけている。これ以上濡れたら、腐ってしまう。気が付けば手を伸ばしていた。
「濡れてる」
言って触れて、その後に気付いた事の重大さ。彼女の濡れた髪をくしゃりと持った私の手に、彼女はびくりと跳ねた。
血の気が引くとは、まさにこの事だろう。言葉にならないような、変な声を出してしまった。
「ごめん」少し後ろに下がって手を離す。
彼女の顔がほんのり赤らんでいる気がした。熱でも出てきたのだろうか。それなら大変だ。
「顔赤いよ、大丈夫?」
今度は触れずにそう問えば、彼女は少し眉を顰めた。
しんどいのかな。
この豪雨に打たれれば、いくら健康な人でも体調を崩すだろう。
「あ、送るよ!傘あるし」
取り繕ったような笑顔は、上手く笑えているだろうか。不安になったところで、私の目は私にしか付いていない。どん、どん、とゆっくり確実に響く鼓動は、気持ちの悪い程に彼女に恋している事を表している。一過性の火傷は、もう全身に広がっていて、脳を麻痺させる。
小さく「え?」と呟いた彼女の顔が、一瞬怯んだ。そしてその後で、先より倍ほどの熱を帯びているようだった。そうして、自分の麻痺が彼女にも伝染した事を知った。
「嫌?」
驚く程に冷静な頭の中。麻痺にも気付けない、もう何も分からない。びりびりと緊張しているのは彼女の方。高嶺の花だと誰が言っただろうか。それは幾日前の私だっただろうか。
あっ。と何かに気付いたように、彼女は笑顔を取り戻した。ふっと空気が穏やかになる。零れた春の様に、誰も泣かない世の中みたいに。
「ううん」
それが合図で、私たちは肩を合わせて校舎を出た。折り畳み傘が小さいのは、きっとこの為なのだろうだなんて、子どもみたいな事を考えながら。
お互いの家は、駅で言うと反対方向だ。自然と一緒に帰れるのは、学校の最寄り駅まで。十五分程度の道程は、あっという間に過ぎてしまう。最後の最後まで切り出せなかった話題は、意外にも彼女から振られた。
「何、探してたと思う?」
うん?と首をそちらへ向ければ、悪戯っ子のようなはにかみ笑い。正直に分からないと告げれば、畳み掛けるように知りたい?と訊かれた。
「うん」
「家の、鍵」
「やっぱり。最初に私が言ったので合ってるじゃーん」
「違うよ」
ゆっくりと彼女は、顔を私から前方へと向き直した。まるで明日に話し掛けるみたいに、そうした。釣られるようにして、同じ方を向いてみたが、何もなかった。夕日は私たちの背にあるし、鳥がいるわけでも、スーパーマンがいるわけでもない。つまらないくらいの、空。
「私の、じゃないんだ」
ふーん。とそしらぬ顔で流してはみたものの、頭の中がびりびりしてくる。穏やかなトーンで話す言葉には、溢れる愛か懐かしさがあった。それは絶対にそうで、きっとそうで。麻痺が、麻痺に気付けない程に落ちていたのだろうか。彼女の麻痺はなんだったのだろうか。恐れる度に、また鼓動がやかましい。
「元彼の家の鍵。まずいよね」
先と同様の、はにかみ笑いを向けられたところで、どうする術も無い。濡れた肩に触れた部分が、生温い。彼女の方を見れない。
「まずい、ね」
前を向いたままそう言えば、少しばかり沈んだ空気。どうしろと言うのだろうか。一人で浮かれた結果は、友人の言っていた通りなのだろうか。一過性の火傷だなんて、ひどい言われようだ。
「受け取って、くれなくて。返すって言ったんだけどさ」
そしたら失くしちゃった。
だから、だから。何。
「そっかあ。そりゃ大変だよね」
分かりっこないと言いたい筈なのに、理性が何も言わせてはくれない。残り少ない理性が、麻痺と戦って、段々と火傷をしていく。
「……うん」
零すように呟いた彼女の顔を、やはり見れないでいた。笑うでもなく、嘆くでもなく、彼女は一度鼻を啜った。
改札に着いて、彼女にさよならを告げた。生温い肩の温度だけが伝染して、湿っていた。露出されていた右肩は、濡れに濡れていた。折り畳み傘は、まったくもって役立たずだ。
電車に乗り込むと、反対側のホームにいた彼女が泣いていた。そんなに元彼の事を、今まで、今でも好きなのだろうか。自分の事しか考えられなくなった脳味噌は、完全に麻痺していた。
2008年から書いていた、はず。
以下、作者のどうでもいい製作話。
ほんとはもっと、ドロドロストーリーの話でした。
主人公が暴走しちゃって、あーれーみたいな。若気の至りみたいな。
力及ばずであまずっぺーに変更。
西藤さん視点だけですので、もちろん理解に苦しむ箇所有り。
では、失礼。