踊る妖精〜隣にいてほしいのは君じゃない〜
「君との婚約を破棄する」
突然告げられた。マリックからのセリフ。
「君に非はない……が」
が? 隣にいる女性は、いったい誰だろう。
「隣にいてほしいのは君じゃない」
「まさに、踊る妖精だ!」
表面的な感嘆が私の鼓膜を揺らす。きっと、マリックが褒めてくれるなら、心の芯から震えて喜びを感じるのに。
ああ、もう、マリックったら。
どうして会いに来てくれないの。でもね。
あなたが待てというなら、私はいつまでもこうして踊っていられるわ。
ピアノのソロが入る。苛々が小指に灯る。半音下りはじめたのに合わせて目をつむった。
──『妖精の別れ』と言うんだよ。
そう。これは妖精が愛し子のもとを去る詩がつけられている。私は愛し子のために去らなくてはいけない。未練無さげに軽やかに、しかしどこか愁いを帯びて。マリックの言葉を思い出し、心の乱れを直した。幸い、音と体の動きはズレていない。まあ、もう数年踊っているから当たり前。
ソロは終わり、サックスがステップを踏むようにリズムを作って場を盛り上げる。手拍子が空気を包み、下品な男も指を引っ込めて手を叩いている。
私の一瞬の揺らぎに気づいた客はひとりもいないだ。マリックがもしこの場にいれば、すぐに気づいただろうけど。
曲の終わりに合わせて、くるっと一回転。これは裾をふんわりと広げ、羽ばたく様を連想させるための動作なのだ。飛び去った妖精は二度と戻らない。
暗転。舞台の袖で、赤のドレスから緑のワンピースに着替えた。演技は終わり、いち従業員に戻ったのだ。
「ねえマリック。迎えに来てよ……」
私とマリックがはじめて出会ったのは、ここ「夜想店」だ。夜更けになるとまばらに訪れる客の一人が彼で、私は演技に緊張するちっぽけな少女だった。
彼と私には、はじめはどんな縁もつながっていなかった。ただ、はじめはちびちびと飲んでいた酒をたくさん呷るようになってから、飲みすぎて潰れたことがあった。その介抱を押し付けられて、はじめて会話をした。
「お兄さん、起きてください」
「んん……」
「ちょっと、寝ないで!」
「なーんだってんだぁ」
のそりと顔を上げたマリックは、私の衣装を見て顔を歪ませた。
「なんだ、下手くそなダンサーか」
「……」
そう言われて、怒りよりも恥ずかしさでいっぱいになった。常連客は、みんな私のダンスに何も言わない。見てもいない。ただ生演奏を聴いて、つまみを食べて酒を飲む。そうして微かな満足を得て、静かに帰っていく。そんな人ばかりだった。
でも、ときどき彼と目が合った。偶然だろうと思っていたが、彼は見ていたのだ。
「おい、文句はないのか」
「……はい」
「君、なんで下手くそか分かってる?」
「それは……ちゃんとおどれてないから」
「ちゃんと、って?」
「ふりつけをまちがえて」
「いや、合ってるよ」
「え?」
「君にはね、『情動』が足らない」
「じょう、どう」
「さっき踊っていた曲、歌詞はわかるか?」
「かし……?」
私は売りに出されるような形で踊り子になった。知識は与えられず、ただ余興として踊れればそれで良いとされ、ただ体の動きを真似ることしか教わらなかった。歌も曲も、夜想店に来るまで触れたことがなかった。音楽そのものを知らなかった。
踊り子と表現したが、ずっとそれで稼がせるつもりではなかったのだろう。夜想店に一時の花を添える程度に思われていたのだ。
しかし、彼という存在が私をただ踊る無知な子供から、体で表現する踊り手へと変えてくれたのだ。
「いいか、あの曲は『妖精の別れ』というタイトルなんだ」
そうして酔っているはずのマリックは饒舌に曲を解説し、私はただびっくりしながら聞いた。その日、結局彼を追い出すことができずに、迎えが来るまで談義は続いた。
迎えは彼の同期のナイームという、士官学校のがっしりした体格の男性だった。当時、私と同じくらいの体格だったので同年代だと思っていたが、5歳ほど離れていることが分かった。
小柄なのはコンプレックスだったらしい。今ではすっかり大きくなったが。
彼は酔ったときのことを覚えていなかった。でも、踊る合間を縫って接触したら、快く音楽について教えてくれた。しかし、いくら話してもマリックは士官学生ということ以上の自分の情報を教えてくれなかった。知識の深さや傾向から、ひょっとして裕福な家庭なんじゃないかと想像した。
「今日はどうだったかな」
「指先まで意識がいくようになったな」
「えっ! 気づかなかった」
「ははっ、無意識ってことか。慣れてきた?」
「うん、嬉しい」
マリックは優しい。下手くそなんて言ったのはあの酔った時だけで、いつもできている所を褒めてくれる。リズムに乗れててすごい、まっすぐ前を見ていて偉い、なんて些細な褒めから、ついに「課題だね」と言われていた指先までの意識を褒められるように至ったのはとても嬉しい。
「これ……」
がさと音を立てて、彼は私に袋を差し出した。中をのぞくと、赤い布が見えた。
「『妖精の別れ』……俺がはじめて君と交わしたのは、その曲についてだった。俺は覚えてないんだけども」
「うん、マリックったら、失礼だよ」
「ごめんごめん、それでさ。この中身、赤いドレスなんだ」
「ああ、そっか」
──『妖精の別れ』は、愛し子のために炎の精が去るストーリーだ。赤いドレスで、もっと燃えるような感情で踊るんだよ。
赤ら顔で、彼はそう言っていた。
袋に優しく手を入れて、そっとドレスを取り出した。全体を見た瞬間、ドキッとした。
「わあ、燃えているみたい」
「高級品じゃないけど、意匠が光ってるだろ?」
「こだわりを感じ、る……うぅ」
「そんな抱きしめたら形崩れするぞ」
「う、うれしくって」
「喜んでもらえて良かった」
プレゼントなんて初めてだった。自分のものなのに、どこか特別。しかも使うのは、いろんな人がいる空間で、ただ一人のため。
「情動!」
「ああ、それもはじめて話した時にも言ったんだっけか」
「最初は、意味は分かってもなんとなく実体がない感じで、結局のところ分かってなかった」
「まあ難しいもんな」
「いま、すごいドキッとした。これって、情動だよね?」
「おう」
「明日のステージ、楽しみにしてて」
──妖精になるから。
その言葉通り、翌日私は夜想店の客の目を集め、踊る妖精と呼ばれるようになった。
体が動くうごく。視界の端で焔が揺れるようにドレスの裾が揺れる。腕をしなやかに波を作る。半回転、腰のひねりを入れ、一回転。
ステージの端から端まで揺らめくように移動する。
風はないが、演奏が私の熱気を店の空気に染み込ませていく。
楽しい!
その日そう実感した。
「ねえ、マリック」
「なんだ?」
「私と結婚して」
「意味わかって言ってんのか!?」
「教えてくれたじゃない」
『妖精の別れ』で、妖精の愛し子が結婚するかもしれない、という話が出てくる。実際に結婚するというところは描かれていない。結婚は契りなので、生まれつきだがすでに妖精と契りをしている愛し子は、結婚できない。そこで、妖精は去ろうとするのだ。
結婚とは、仲の良い男女が一生を共にするためのものだと教わった。
「私、マリックとずっと一緒がいい」
「別に、結婚しなくてもなぁ」
「あなたといると毎日がキラキラする! 楽しいことが増えたの。踊る意味が生まれたの」
「……そうか」
「マリックは、私といっしょになるの、嫌?」
「ぐっ」
やっぱり。マリックも私のこと嫌いじゃないんだ。
じゃあ婚約からな、と言われて、結婚の約束をした。
それから5年。
学校が忙しいとかで、会える日はだんだん減った。マリックの学校がどこにあるかも、家も知らない。彼の同期という男性にも一度会ったきりで、なんだか不安だ。
「あ、マリック!」
開店前の夜想店の前を掃除していると、彼がやってきた。隣に、見知らぬ女性を連れて。
「えっと、彼女は……?」
マリックは一度目を逸らし、合わせてから言った。
「婚約は破棄する」
「……えっと」
破棄? それって、なしってこと?
聞くのがためらわれた。
「隣にいてほしいのは君じゃない」
「マリック様、あの」
女性はこちらをそっとうかがってから、マリックに何か言おうとしている。彼は左腕を彼女の前に伸ばして、それを制止する。
「じゃあね」
呆気ない別れ。
彼は振り返ることなく去っていく。私は咄嗟に女性の腕をつかんだ。
「きゃっ」
「あ、乱暴につかんでごめんなさい」
「い、いえ……」
「あの、マリックとはどういう?」
マリックは女性が私に捕まっていることも構わず、もう姿が見えなくなっていた。
「マリック様の婚約者さまですよね」
「あー、うん」
「マリック様は、もうこちらには来られないかと存じます」
「存じ……思いますってことか」
「はい。私はアンジーと申します。失礼ですが、彼のことはどの程度ご存知なのでしょうか?」
「士官学校というところに通っていることくらいしかわからない」
「士官学校がどういうところかは?」
「国のために働くって」
「士官、つまり軍人になるための場所です」
「じゃあ、戦いに参加するということ?」
「はい。その、マリック様は明日から北の砦に行く予定で」
「じゃあ、戻らないってのは……」
「お察しのとおりです」
「アンジーさん、いまのマリックの居場所はわかる!?」
「士官学校の寮かと」
「案内して!」
私は駆けた。心のすき間から何かがぼろぼろと零れていく感じがしながらも、なんとかアンジーさんを引っ張って士官学校にたどり着いた。
「マリックーー!!」
ふだんマリックとしか話さないので、大きな声はあまり出ない。体全身から絞り出すようにして、彼を呼ぶ。
「マリックーー!!」
「おい、なんでいる!」
「マリック!!」
「君、顔がぼろぼろだ……」
「え、あれやだなおかしいな」
心のすき間から零れたものは、実際に涙として出ていたらしい。
「で、どうした」
「アンジーさんから聞いた。北の砦、行くんだって?」
「……」
「北の砦ってのはどこかよくわかんないけど。『隣にいてほしいほしいのは君じゃない』ってのはもっとよくわかんない!」
「それは」
「隣にいたら死なせちゃうかもしれないから、距離を置こうってことじゃないかな」
「あ、マリックの同期の人!」
「久しぶり〜。1回会っただけなのによく覚えているね」
「じゃあ、逆に隣にいてほしいのは誰なの?」
「うーん、俺みたいに士官学生じゃないかな。いっしょに戦ってくれる人」
「距離を置くだけなら……婚約をなしにする必要ってある?」
「それは」
「いい、俺が話す。ナイームはどっか行け」
改めて、2人で話す場が設けられた。
「ねえ、マリック。前に『妖精の別れ』について話したこと覚えてる?」
「どれのことだ」
確かに、『妖精の別れ』は夜想店の定番曲で、何度も話をしたから、選択肢がいっぱいあって何のことかわからないよね。
私はいろんな話を思い返しながら、婚約破棄を告げられた時に真っ先に浮かんだエピソードを話す。
──『妖精の別れ』は、一見悲恋の話に思える。
悲恋?
──妖精は愛し子に無償の愛を注いだ。これは恋じゃない。だが、愛を注がれた愛し子は、妖精に恋をしたんだ。つまり、気持ちはすれ違っている。君が踊っているのはソロだから、妖精目線のダンスだが、デュエットだと愛し子目線も表現される。愛し子は結婚するつもりはなく、結婚相手と思われていたのは従姉妹だったんだ。
ふーん。
──デュエットだと、結婚という契りのために身を引く妖精に対し、愛し子は手を伸ばす……というところで終わる。
結局その手は届いたの?
──それは観客の解釈に委ねられているんだ。もし、届いていたら? きっと、ほんとうの愛が芽生えて、これはすれ違う2人の勘違いが起こしていたコメディになるんじゃないのかって思う。
私が記憶から引っ張り出したマリックの言葉を並べ終えると、彼は目をつむった。
「もし、手が届かないままなら。悲恋になるの?」
「……どうだろう」
「ほかの日に、こう言ってたよね。『ダンスは、はつらつとしているだけじゃダメだ。少しの愁いを帯びないと』って。愁いってことは、つまり妖精も寂しさを感じているんだよね。あと少しで届いた距離なら、妖精も去ることをためらっていたんじゃないかな」
「そうだな」
「さっき、少しのためらいもなくマリックは去っていったけど、アンジーさんをその場に残して行くなんて、ちょっと不自然だよ」
「……」
「私は居場所なんて知らないんだから、追いかけようがない」
「彼女を連れて行ったのは、君が勘違いすれば自然と納得してくれるだろう、と」
「ひどいな」
「ごめん」
「アンジーさんのこと忘れちゃうくらい、いっぱいいっぱいになってたの?」
私は、少し期待の眼差しをマリックに向けた。ようやく目を開けた彼と視線が合う。観念した、と言わんばかりに両手を上げ、マリックは言う。
「君とこれで終わりなんだ、って思ったら、もうそれだけに意識がいってしまったんだ」
「ねえ、距離を置くのはいいとして、ずっと一緒に居られないわけじゃないよね?」
「……異動する可能性もある」
「なら、いつかは一生一緒にいられるでしょ」
「ああ」
「だから、婚約破棄は破棄して」
それから、私に「待て」って伝えてよ。
そう言いたかったのに、それだけは言えなかった。
「ねえマリック。迎えに来てよ……」
赤いドレスを抱きしめて、夜想店の裏口でつぶやいた。
──おお愛し子よ、私の愛があなたの身を焦がすなら
おお愛し子よ、私の愛があなたの心を焦がすなら
さらば愛し子よ
あなたの幸福が私のいない世界で保たれるなら
それは私の一等の喜びとなる
『妖精の別れ』の一節を口にした。
ため息をついて立ち上がり、裏口のドアに向き直った。すると、誰かが近づいてくる気配がした。
「おお、私を愛した妖精よ
私は今なおあなたに身も心も焦がれている
私の幸福はあなたの炎に身を包むこと
そのためなら私は蒼炎になっても構わない」
「ふっ、なにそれ」
思わず笑ってしまった。
「マリック、詩人になりたいの?」
「そう。俺、ほんとは音楽の世界で生きていたいんだ」
「あんなに熱心なんだもの、きっとうまくいく」
「もう軍からは退官した。踊る妖精のパートナーが低収入ではカッコつかないけど、こんな俺でもいいか?」
「もちろん!」
ああ、これでずっと一緒だ。
「あなたの隣は私が良い」