海陵王と馬諷
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻九十 列伝二十八の馬諷伝を見てみましょう。
前回の高楨伝で「姦悪な人物」と記されていた馬諷ですが、本人の伝を見れば一方的にそうと決めつける訳にはいかないところがありまして、以下にその伝を全て訳します。
馬諷、字は良弼、大興の陰の人である。国初に燕が宋に与えられると、馬諷は汴梁に遊学し、宣和六年(1124)に進士となった。
宗翰が京を攻め落とすと、馬諷は金に帰し、再度科挙を受けて進士となって、蔚州の広霊丞に就けられ、昇進して雄州の帰信令となった。
隣県との境に八尺口という河があり、毎年秋に増水して溢れ、民の田に被害を及ぼしていた。馬諷が土地の高低を視察して水路を通したため、被害は収まった。都に召されて尚書省令史となり、その後、献州刺史となった。
天徳の初め(1149)、寧州に異動となった。ある民が「叛乱計画がある」と告発して、百人ほどが逮捕された。馬諷はこれを調べて事実無根であることを知り、告発者を問い詰めると、誣告であったことを認めた。人々は泣いて歓呼した。昇進して南京副留守となり、中央に召されて大理少卿となった。
このころ、高楨が御史大夫となった。高楨はもとから地位が高かったため、誰にも気兼ねせずに弾劾した。このため権力者たちから畏れられた。
馬諷と張忠輔が共に中丞となると、権力者たちは二人を使って高楨を中傷しようとした。二人は共に政務に通じ法を良く知っていたが、高楨には僅かたりとも付け入る隙は無かった。攻撃されることを恐れた高楨は、これを海陵王に訴えた。高楨が太祖以来の旧臣であったため、海陵王はその度に慰めた。馬諷は大理卿に改められ、一年ほどすると順天軍節度使として地方に出された。
海陵王の没後に再び大理卿となり、刑部尚書に昇進し、忠順軍節度使に改められて、致仕し、亡くなった。
高楨に訴えられるとたびたび宥めたり、どちらも有能なのを知っている海陵王はこのころ板挟み状態で、一年ほど迷った挙句に馬諷を地方に出すことでけりをつけたようです。