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新しい家族の初めての食事

作者: 小宮治子

 

「大丈夫。きっと、大丈夫ですから」

 ハナは、異国で子供を産むと言う事に、二度目といえど不安を感じていた。

 それでも、陣痛に耐えながら夫に言った言葉を、心の底から信じていた。


 * ~ * ~ *


 大正四年一月。ハナは、夫と三歳になったばかりの娘と一緒にアメリカにいた。


 夫のチカトシと結婚してから数年。二十七歳のハナは、大事な仕事をする四つ年上の夫をずっと支えて来た。

 夫婦、家族として中国と満州国を周り、現在いるアメリカにも辿り着いた。長女の麻莉も日本の国外で出産した。


 アメリカでもチカトシが自身の仕事を進める中、ハナは麻莉の育児に専念した。そして、家族で国の中を移動しながら、滞在した数多くの街を娘と一緒に探究した。

 自分が生まれ育った故郷とは異なる地を観るのは刺激的だった。大きな街や小さな村、都会の建物や田舎の草原。行き交う人々が皆それぞれ、自分や家族の為に仕事をしていた。


「麻莉。あなたもいつか、街でも田舎でも、好きな所に行って好きな事をできるといいねぇ」


 夫が自分の夢の為に努力する中、ハナは娘にそう言い聞かせていた。

 幼い娘は、生え始めた歯を見せながら笑っていた。みるみるうちに成長して行く娘は、それはもう歯軋りする程可愛かった。

 それでも、ハナはどこか自分が自分としてしたい事を見失っている気がしてならなかった。


 そして、アメリカに来てから少しの時間が経ったある初夏の日——ハナは、自分が又妊娠している事に気が付いた。


 チカトシの仕事の関係で、二人目の子供はアメリカで産む事となった。そして丁度その時期は、南カリフォルニアに滞在している頃となる。どうやら真冬でも暖かく、雪の心配は全くないそうだ。

 心配事は、少ない方がいい。初めての出産ではなくても、ハナは麻莉やこれから生まれる子供の無事を祈る事しかできなかった。


 南カリフォルニアへは、チカトシの仕事をしながら鉄道で徐々に向かった。アメリカの鉄道路線が黒人や中国人の労働者によって敷かれたと聞き、ハナは感謝の気持ちしかなかった。家族がこうやって前に進めるのは、彼等のおかげだった。


 問題は、目的地のリバーサイドと言う街に到着してからだった。


 十一月の下旬にリバーサイドに到着したハナ達は、出産までのまとまった時間はこの街に滞在する予定だった。そして以前お世話になった人の知人であり、住まいに空き部屋があると言う男性を訪ねて行った。


 だが、元々は出産後、物事が落ち着くまで滞在していい筈だったのが、日が経つにつれて男の態度が変わってきた。近所の目も気にしていたのか、東洋人の家族を一緒に住まわせるのは、余り好まれなかったらしい。もう三十年以上も中国人の入国を断固として拒否してきた国だ。ある意味、予想はできたのかもしれない。


「やはり、ご迷惑なのではないでしょうか」


 ハナはチカトシに言った。ハナは政治的な事について話す機会がなくとも、自分達に向けられる他者の視線に関しては敏感だった。

 チカトシは、翌日滞在先の男と話をし、数日後には家族三人でその家を後にした。


 少しの間は街中のホテルに泊まる事としたが、やはり宿泊費が高く、そう何ヶ月も払う事はできなかった。

 なんとか自分達の資金で賄えるかと考えたが、最終的には安い下宿屋に移る決断をした。


「どこか、見つかるでしょうか」


 ハナはチカトシに訊いた。

 英語が堪能ではないハナは、全ての事をチカトシに任せなければいけなかった。それが申し訳なく、同時に恥ずかしかった。


(何故もっと自分で色々とできないのだろう)


 最初にリバーサイドで病院に行った時も、あまり受付や看護師に歓迎されていないのを感じながらも、対応は全てチカトシにしてもらった。

 結果、滞在先で助産婦を呼ぶ事になっても、どう言った経緯でそうなったのかは、ハナは聞かされなかった。

 せめて、これから暫くの間滞在する下宿屋——()してや自分が子供を産む為に助産婦まで呼び付けなければいけない場所——は、自分で何とかできないだろうか。


 もう随分と大きくなったお腹を庇いながら、その日ハナは娘の麻莉とリバーサイドの下町を歩いていた。随分と寒くなっていたが、確かに雪は降っていなかった。

 麻莉の手を繋ぎながら道の両側に並ぶ横文字の看板を見ていると、少し先の店から東洋人の女性が一人出て来た。リバーサイドは中国人や韓国人、そして日本人の労働者もいるとは聞いていたが、ハナが出会ったのは、その女性が初めてだった。


 道端に立ちすくむハナ。店から出て来た女性は、ハナと麻莉の方を見て、同じく立ち止まった。

 暫く続いた沈黙を破ったのは、相手の方だった。


「日本人の方ですかねぇ?」


 彼女はハナに日本語で尋ねた。

 その言葉がハナの脳によって理解されるのに、一瞬かかってしまった。


「はい、そうでございます」


 久しぶりに、夫以外の人間と意図的に言葉を交わしたハナだった。


「あらあら」


 その女性は微笑みながら言った。


「だったら、明けましておめでとうございます、ですね」


 ハナはその時初めて、その日が三が日が過ぎた一月四日だと言う事に気が付いた。


 * ~ * ~ *


 その女性は、アキと言った。

 彼女の夫はシゲヨシと言い、リバーサイドへは十年程前移住して来たそうだった。


「ウチは食堂と下宿屋をしてましてね」


 アキはそう言った。

 それを聞いた途端、ハナは息を飲んだ。そして、その次吐いた息は、一つの質問としてだった。


「あの、お会いしてすぐにこんな事を伺うのは失礼だと百も承知なのですが……空いているお部屋はありませんか?」


 アキは一瞬不思議そうにハナを見つめ、それからすぐに明るく笑った。


「えぇ、ありますよ」


 空室がある事を確認したハナは、麻莉を連れて滞在先のホテルへと一旦戻った。部屋には、集めた文献をまとめているチカトシがいた。


「貴方、できれば会って頂きたい方がいらっしゃるのですが」


 ハナの急な願いに少々目を見開いたチカトシは、すぐに小さな咳払いをした。


「勿論だ。いつがいいのかな?」


 チカトシに事情を説明すると、麻莉を連れてもう一度三人でアキとシゲヨシが経営する食堂へ向かった。

 そこは『リンカーン』と言う名前の店だった。


「それは、色々と大変ですね」


 丁度昼食と夕食の間の時間で、食堂も空いている中、アキと一緒に隅のテーブルの向かい側に座ったシゲヨシはそう言った。先日までお世話になっていた男性の事、ホテルの費用の事。チカトシは、一通りの事情を話した。


「何しろ、部屋は空いてるので、使って下さい。それに、お嬢さんにも、これから生まれるお子さんにも、ちゃんとした環境が整ってるのが何よりでしょう」

「ありがとうございます。助かります」

「それにしても、お子さんが生まれるとは、めでたいことですね」


 チカトシは、温かい目をして言った。

 ハナはアキにも向かって訊ねた。


「お二人には、お子様は」

「えぇ、四人。息子二人と、娘二人がいます」


 アキは微笑みながら答えた。


「下の三人は、ここに来てから生まれました。みんな元気に育っていますよ」


 シゲヨシはそう言いながら、テーブルの上に組んだ自分の手を見つめた。


「アメリカで生まれる子供は、アメリカの市民権を持っているんです。それは、今の私達にとってどれほどの要になるか」


 声を少し落として言ったシゲヨシを、ハナは見つめた。

 疑問を口にしたのは、チカトシだった。


「それは、どう言った意味でしょう」


 自分の夫の方を伺ってから、アキが説明した。


「この国では、市民権を持たない外国人は、土地を所有する事ができないんです。私達は、もう日本へ帰る気はありません。なので、子供達の為にも、ここでちゃんと暮らしを立てなければいけません。その為にも、いずれは家を買いたいと思っています」

「なるほど」


 チカトシは、その一言だけ返事をした。


「この国にそう言った法律があるのは、仕方ないのかもしれません。でも、もしそうなら、私達は正当な方法でそれに抗うしかありませんから」

「自分達、そして子供達の未来の為ですもんね」


 シゲヨシとアキは、二人揃って明るく言った。


「私達にできることはしますわ。今は、奥さんが安心して赤ちゃんを産める場所を作らないと」


 アキにそう言われたハナ達は、次の日にはホテルの宿代を清算し、アキとシゲヨシの所へ向かった。


 一階は食堂、二階は数部屋ある下宿屋だった。シゲヨシ達家族も、その二階に住んでいた。

 宿泊は食事も込み。朝の五時から開いている食堂の夕食は、スープと飲み物、そして甘味。肉や魚料理の追加は別料金だった。アキ達が作る料理は、リバーサイドの住民達が好む様なアメリカ料理だった。


 中国と満州にいた頃、日本食ではなくとも、せめて東洋の料理を口にする事ができた。麻莉の離乳食も、自分で作れる物があった。

 しかし、アメリカに来てからは慣れない食事ばかりだった。

 主食は穀物のオートミールやパン、そして馬鈴薯。野菜は日本で慣れ親しんだ物はなく、主にニンジン、いんげん、グリーンピース等。肉はあれど、魚は少なかった。勿論、食べられない物ではなかった。それでも、偶に日本食を調理したい、娘にもそれを食べさせたい、そう思った。


 それから一週間少し経ったある朝。ハナは、陣痛で目を覚ました。

 麻莉の時は陣痛が始めってから産まれるまで二日近くかかったが、今回はそうではなかった。

 痛みで吐き気がしながらも、ハナは子供が生まれるまで耐えた。チカトシと麻莉は、シゲヨシとアキの子供達と一緒に別の部屋で待機していた。

 そしてその日の夜、アキと同じく日本人の助産婦の助けにより、無事元気な女の子が生まれた。

 助産婦に部屋に入る事を許されたチカトシは、涙を浮かべて喜んだ。


「良かった! ありがとう。本当に、ありがとう!」


 疲れ果てたハナは、静かに頷いた。

 それからチカトシはアキと助産婦にも向かって、何度もお礼を言っていた。

 彼にとっても、何もできずにひたすら待つのは、辛かったのだろうか。


 助産婦が生まれてきた赤子を拭いてくれた後、小さい小さい子を抱きながら、ハナはチカトシに訊いた。


「この()の名前は、どうしますか?」


「そうだね」


 彼は少し考えた後、こう言った。


「彼女がここで生まれて来た事を誇りに思える様、リンカーン……『倫花』と名付けよう。麻莉と同じ、花の字がある、自分が歩くべき道が分かる女性になってくれる様に」


「それは……」


 ハナは一度深く息を吸い、涙が出るのを堪えながら返事をした。


「ありがとうございます。そんな人間に育ってくれたら、これ以上の幸せはありません」


 * ~ * ~ *


 その後は、新しく一員加わった家族がゆっくりできる様、アキとシゲヨシが部屋で簡単に取れる食事を用意してくれた。


 鶏肉、人参、筍、そして固めの豆腐の混ぜ飯。それに海鮮物の出汁が香るかき玉汁。

 それは、明らかにここアメリカでは手に入れにくい食材が入った二品だった。

 そしてそれを、アキとシゲヨシは忙しい中、ハナ達の為に準備してくれたのだった。


 それが、四人家族としてする、初めての食事だった。


 ハナは倫花を腕に抱き、汁物の卵を頬張る麻莉を見つめながら、何か新しい時代が始まる予感を感じていた。


人名と店名は変えてありますが、それ以外は史実に基づいています。

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