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二回言うシリーズ

まつりまつり

作者: 上代朝哉

 崎野祭理(さきのまつり)はとてつもなく可愛かった。親の仕事の都合で最乃宮(さいのみや)から宇羽(うはね)県へ引っ越してきて、案山子市の桃岡高校へ転入し、一ヶ月遅れの学校生活を俺達と共にスタートすることとなった彼女だが、初日から全校生徒および全教師の注目を浴びに浴びた。最乃宮の女子が全員可愛いなんてことはありえないはずだけど、さすが都会だよなあと思わせる洗練されたオーラを崎野祭理は放っていた。清潔感……というか、なんか小綺麗な雰囲気がある。宇羽の田舎臭い女子とは背筋の伸びが違う。ピシッとしている。


 転校生を自分のクラスに迎えるなんて俺にとっては人生初の体験で、それだけでもワクワクなのに、やって来たのが超絶美人の女子だというんだから漫画だ。漫画の世界だ。ただ、残念ながら俺はその漫画の主人公じゃない。たぶん。


 でも、そんな俺にも崎野祭理と会話をする機会があった。崎野祭理が転入してきたのがゴールデンウィーク明けだったので、その二週間後くらいに当たる五月下旬の放課後。教室でたまたま二人きりになった。別に崎野祭理と二人きりになりたくて粘って居座っていたのではなく、忘れ物を取りに来たら彼女もちょうど同じく教室へ戻ってきていて、本当に偶然、鉢合わせになったのだ。そんなシチュエーション夢にも思っていなかったので、逆にどうしようか困った。俺は多くの男子生徒達とは違って、あんまり崎野祭理に夢中というわけじゃなかった。いや、可愛いよ? ものすごく可愛いとは俺も思うが、しかしどう考えても俺が彼女の人生に関われるはずがないのだった。憧れるだけ体力の無駄というか、気持ちの無駄というか。斜に構えているつもりはなくて、わりと冷静だった。


 静まり返った一年三組の教室で崎野祭理と向き合ったとき、何の準備もしていなかった俺はフリーズしてしまう。崎野祭理とコミュニケートする準備をだ。俺はしていなかった。


 崎野祭理が先に口を開く。「こんにちは」


 都会の学校では『こんにちは』が基本の挨拶なのかな?と一瞬思うが、さすがにたぶん違う。崎野祭理も予期せぬ俺の登場に虚を衝かれたんだと思う。


 とりあえず俺も「こんにちは」と返しておく。


「クラスメイトの人だよね。ごめんなさい。名前がまだ覚えきれてなくて……」


藤本隆史(ふじもとたかし)です」と俺は名乗る。


「藤本くん……」崎野祭理は噛みしめるようにつぶやいてから「崎野祭理です」と名乗り返してくれる。


「知っとるよ」と俺。


 崎野祭理は不甲斐なさそうに苦笑している。「わたしのことだけ知っててもらってごめんなさい」


「転校生やし、有名やから」


「そうだね。転校生だと、覚えてもらいやすいよね。転校生でよかった」と崎野祭理は笑っている。


 彼女の場合、転校生でなくてもあっという間にみんなの脳味噌に刻み込まれそうだけど。こうしてまじまじと見つめてみると、改めて、余計に可愛らしい。瞳は大きいし、髪はふわっとしているし。肌も白い。手がちっちゃいなあと思うけれど、手だけでなく、全体的にちっちゃい。背が極端に低いとかではなくて、コンパクトなのだ。無駄なくまとまっている。最乃宮産の標準語も相俟って、本当に漫画のキャラみたい。


 俺が喋れないでいると、崎野祭理が「何か忘れ物?」と訊いてくる。


「ああ……英語の教科書。和訳するとこ、先生に当てられとったの忘れとった」


「そっか。大変だね」


「うん。まあ」


 また沈黙が来る。話すこと話すこと……なんかないか? あ、そうだ。崎野祭理も忘れ物を取りに来たんだろうし、それが何なのかを俺の方からも訊いてみればいいんだ……などと作戦を立てていると、「藤本くん」と呼ばれる。


「はいっ!?」


「ふふふ。んーん。呼んでみただけ。名前、これで覚えられたかな?」


「あ、ああ……」

 なんで名前知ってるんだ?と驚いたけど、さっき教えたんだった。ボケている。


「うん。よしっ。また明日ね、藤本くん」


 崎野祭理が帰ってしまいそうだ。俺は彼女を狙っているわけでもなんでもないのに、でもやっぱりもったいないなと思ってしまう。せっかく二人きりなのに! 引く手あまたの崎野祭理と!


 俺はなんとかもうちょっとだけ崎野祭理を足止めできないか考え、一切考えがまとまっていないのに、「な、名前……」とバカみたいに口走ってしまう。


「名前?」崎野祭理は首を傾げ、「藤本隆史くんでしょ?」と言う。


「あ、じゃなくって……」


「ん? わたし? 祭理だよ」


「や、それは知っとるんやけど……」テンパりすぎて呼吸が止まりそうだ。「……祭理って名前、可愛いね」


「ふふ。ありがと」


「『まつり』っていうと『お祭り』のイメージが大きいさけ、ついそっちに引っ張られてまうけど、『ま』と『つ』と『り』の並び自体が可愛いよな。音がいい。口で発音するときも『ま』『つ』『り』って、なんか口が気持ちいいんやってな。声に出して呼びたくなる。いい名前やと思うよ」


「…………」


 崎野祭理が呆然としていて、俺は我に帰る。「あ、いや、帰ろか……」


「えへへ」と笑い、崎野祭理は鼻をくいっと擦る。「びっくりした。そんなふうに褒められたの初めて。単純に、名前可愛いねとはよく言われるんだけど」


「変なこと言ったわ。ごめんごめん」


「ううん。違う違う。違うの。すごく嬉しくて。ありがとう」


 俺自身なんか滑ったみたいな気がして居たたまれなくなったし、話すことがなくて咄嗟に思いを口にしてみたけれど、キモいなと自分で思った。崎野祭理は一見感動しているふうだったが、俺としてはこれで未練もなくなったのでとりあえずお開きとし、英語の教科書を持って教室をあとにした。





 六月に入ってから、隣の一年四組で殴り合いのケンカが起こる。それも授業中に。大きな怒鳴り声が聞こえて机だかなんだかが倒れるような音も続け様に鳴り響くもんだから、隣の教室で授業を受けていた俺達ですら見に行った。先生は「教室にいなさい!」と声を張り上げて俺達を押さえとどめようとしていたけれど、まず一人が見に行き、二人が見に行き……最後は雪崩れるようにクラス全員が一年四組へ押しかける形になった。


 ケンカしていたのはどうやら山口くんと北村くんで、俺が覗いたときには既に北村くんが仰向けに倒れていて、周囲には教科書やらノートやら、誰かの机の中身が散乱していた。山口くんは他の男子生徒達に制止させられている状態だった。制止がなければさらに追い討ちをかけそうな剣幕で、殺気むんむんだった。


 あとで知ったことだが、このとき、なんと山口くんは崎野祭理と付き合っていて、崎野祭理の彼氏で、北村くんとは崎野祭理に関する何かで揉めていたらしい。


 それにしても、ケンカなんて初めて見た。俺が通っていた小中学校は比較的平和だったようで、ここまで激しいケンカは目の当たりにしたことがなく、軽く衝撃だった。女子の中には悲鳴を上げたり、驚きすぎて泣いてしまったりする子もいたが、でもなんとなく気持ちはわかった。ちょっと生々しいというか、引く。しかも桃岡高校なんてそこそこ偏差値がある進学校なのに、入学して二ヶ月目に早くも授業中にバトルが始まるっつって、おいおい大丈夫か?って感じだった。勉強しようぜ。俺達は小中学生でもないし、ここは進学校なんだぞ?


 俺と似たようなことを考えていた女子がいたみたいで「桃岡高校ってこんな程度なんけ?」とぼそりとつぶやいている。


 俺はその子のちょうど隣でケンカを眺めていたので、小さなつぶやきもはっきり聞こえた。思いがけず意見がぴったり一致したためテンションが上がり、俺は「な!」と同意する。


「え、誰ぇ……?」とその子にドン引きされた。


 でも、意見が一致した感動と、ケンカの余熱みたいなものに当てられて俺は「あはは。いきなりごめんごめん」と上機嫌だ。





 その女子は五組の方からケンカを見に来ていた赤阪珠子(あかさかたまこ)っていう子で、ケンカ観戦をきっかけに仲良くなり、わりとすぐ付き合うことになった。


 狼のようなキツい感じの顔立ちをしているけれど、体はそんなに大きくないので、ちょっとちぐはぐ。たぶん別に美人っていうタイプじゃない。でも俺は嫌いじゃない。何より喋っていると楽しい。さすが、あの瞬間に思考が一致しただけのことはある。


 珠子は自分の名前が大嫌いで「こんなキラキラネーム、虐待やから大人になったら名前変えてやるんや。やから今はとりあえず名字で呼んでや!」と主張するが、俺は別に普通に可愛い名前だと思うので珠子と呼ぶ。キラキラネームっていうほど特殊な名前じゃないし、いるだろ、普通に、珠子ぐらい。なんなら少し古めかしいくらいの響きだ。もちろん珠子の同性の友人達も容赦なく珠子呼びだ。誰も名字で呼んでない。


「なあ藤本」と珠子が言う。「山口くんて、崎野祭理と付き合っとるらしいよ」


「知っとるよ」俺は既に誰からともなく情報を得ていた。


「崎野祭理すげぇな。もう彼氏おるんやな」


「なんで山口くんなんやろうな。それが謎や」


「な。別になんも格好よくもないしな。北村くんの方がマシやわ」珠子は自分を棚に上げて辛口だ。


「ほんで崎野祭理は北村くんに乗り換えようとしとったんか? あのケンカの原因ってけっきょくなんなん?」


「まあ、北村くんに崎野祭理を盗られそうになったんやろ。知らんけど」


「ふうん……」

 崎野祭理、そんなに軽々しくホイホイ彼氏をチェンジしそうには見えないのだが。けれど、まあ、現時点で彼氏がいるっていうこと自体がイメージからブレるし、イメージなんてあってないようなものなのかもしれない。


「山口くんは北村くんをシバくより、崎野祭理をシバいた方がよかったんじゃないん? 崎野祭理がフラフラ移り気やしいかんのやろ?」


「いやあ……女子を殴るのはどうよ」


「まあ最低やけど、崎野祭理もあたしはどうかと思うよ」


「まあ真実は詳細不明やからね。いま出てきとる情報もあくまで噂やし」


「ほんでさあ、藤本」


「あん? なに」


「あたしらって付き合っとるけ?」


「付き合っとらんやろ。何を突然」


「じゃあ付き合わんけ」


「いや、お前俺のこと好きなん?」


「藤本はあたしのこと好き?」


「お前が先に言ったんやろが。お前はどうなん?」


「藤本はあたしのこと好きやろ?」


「いや、俺なんて山口くんよりもたいしたことねえ男なんやけど?」


「いや山口くんとか関係ないし。藤本があたしのこと好きかどうかの話をしとるんや。好きやんな?」


「なんなんじゃいや。知らんわ」


「あっそ。ほんならいいわ。付き合わんでいい。もういいわ」


「なんなんじゃいや。おめえは」


「…………」


「……わかったわ。うるせえな。好きや。付き合うか?」


「…………」


「付き合わんのか? どっちなんじゃいや」


「……付き合う」


「本当に付き合うんやな?」


「……本当に」


「はい、じゃあ付き合うってことで」


「藤本はあたしのこと好き?」


「はいはい。好きや」


「あたしも好きや」と珠子は笑う。キツいしプライドも高いし凶暴だけど、ときどき女子アピールをしてくるし、珠子の友達によるとそれは俺に対してしかやらないらしく、それを聞いてしまうと、可愛いよなとしか思えなくなる。





化学実験室で授業を受けないといけない日があったんだけど、その移動中、友達と駄弁っていたにも関わらず、一瞬の隙をついて崎野祭理が声をかけてくる。「藤本くん、ちょっといい?」


「ん? どしたん?」


「ちょっとこっち来て」と言われ、手を引かれ、俺はみんなとは違う方向へ連れていかれる。友達が階段を下りていくのを視界の端に捉えながらも、俺は廊下の先のトイレの方へ。


「どうしたんや?」と平淡に尋ねながらも、俺はドギマギしている。崎野祭理の小さな細い指が俺の指をそっと摘まんでいる。


「藤本くん」人気のない場所で振り返り、崎野祭理はあっさり言う。「好きです。付き合ってください」


「え!?」としか言えない。マジで? 嘘だろ? 辺りをきょろきょろ窺うが、別に何もない。誰もいない。


 崎野祭理は繰り返す。「藤本くんと付き合いたいな。すごく好きなの」


「…………」声にならない息を漏らし続ける俺。


「どうかな?」と崎野祭理は首を傾げる。


「……好きって、俺ら、お互いのことなんも知らんやん」ようやく喉が震える。「それに崎野さん、山口くんと付き合っとるんやろ?」


「山口くんとは付き合ってないよ」


「付き合っとるって聞いたよ?」


「付き合ってないよ」


 断固として崎野祭理は否定する。でも、どうして俺がそう思うのか、どうしてそういう情報が出回っているかについては訊いてこない。そりゃ訊いてこないよな。たぶん崎野祭理はわかっていて、それでも否定をしている。意図が読めない。思考が読めない。いや、純粋に考えれば、俺のことが好きで俺と付き合いたいだけなんだろうが、山口くんと付き合っていたのは間違いない気がするし、山口くんに続いて次は俺っていうのはなんか恐い。山口くんと北村くんのケンカのこともある。二人はあの日から学校に来ていない。


「……俺、崎野さんに好かれるようなことなんもしとらんよ」


「え、そんなことないよ」崎野祭理は本当に不思議そうな顔をする。「あのときも……放課後にも、喋ったじゃない」


「あんなん喋った内に入らんよ」


 俺は軽く笑うが、崎野祭理は真剣だ。「充分だよ。あれだけでも藤本くんが素敵な人だって、わたしわかったもん」


「…………」

 なんか、崎野祭理の瞳は澄みきって綺麗すぎて、山口くんの件は本当に関係ないのかもしれないと思えてきてしまう。あれがただの噂で勘違いだとしたら、崎野祭理は今マジで俺に告白してきてくれているということになる。


 え、そんなんだったら早まって珠子と付き合ってしまったのは愚行だったんじゃんか……とはしかし、俺はならない。たしかに崎野祭理の方が圧倒的に美人だし性格も穏やかだし魅力に溢れているけれど、俺は珠子が好きだ。珠子は顔もそんなに可愛くないし性格も可愛くないし田舎臭いけど、俺からすると可愛い。これって、付き合ってから湧いた情がそう思わせているんだろうか? 育んだ愛情が、崎野祭理を上回ったってことなんだろうか? だって、何の前情報もない状態で崎野祭理と赤阪珠子のどちらかを選ばなくちゃいけなかったら、そりゃ崎野祭理に飛びつくよな? だとしたら、今から崎野祭理と二週間ぐらい付き合えば俺の中の愛情が珠子から崎野祭理へ移る可能性もあるんだろうか?


「藤本くん。お試しでもいいから、付き合ってみない? 途中で嫌になったら別れればいいから」


 そんなの言葉上はお試しとか言って普通に付き合ってるのと同じじゃんと思いながら「ごめん。もう既に付き合っとる子がおるんや」と俺は明かす。「やから崎野さんの気持ちには応えれん」


 崎野祭理は少しだけ目を見開き「誰?」と訊いてくる。


 答えないと苦し紛れの嘘だと見なされてしまうかもしれない。「五組の赤阪珠子や」


「そしたらわたし、二番目でもいいよ」と崎野祭理はとんでもない提案をする。「同時に付き合って、最終的に藤本くんが好きな方を選べばいいんじゃない?」


「…………」バカげている。そんなことできるはずがない。いや、現実的にできるかできないかで言えばできるが、人としてできないだろ。特に珠子なんて、そんな話を知ったらマジギレして暴れ回るだろう。珠子を傷つけたくない……と考えている時点で俺は珠子に寄っていて自然と安堵してしまうんだけど、そういう問題ですらない。「俺は珠子のことだけが好きなんや。今も全然迷ったりしとらんよ。悪いけど」


「そっか」崎野祭理は残念そうにうつむく。「フラれちゃった」


「そんなに気にせんといてや。崎野さんなら誰からも好かれるし大丈夫や。俺なんて通行人Aや。崎野さんとは釣り合わんん」


「藤本くんじゃないとダメなのに」


「……なんでそんなに俺なん?」


「ホントに好きだからだよ。藤本くんはずっとわたしの傍にいて、ずっと優しかったり嬉しかったりする言葉を言っててもらいたいんだもん」


「…………」

 ふうん? しかしこれは、ちょっとでも時間軸がズレていたら、俺は崎野祭理と付き合って漫画の主人公になってしまっていたわけだ。けれど実際の俺は珠子と付き合っていてやっぱりお似合いの通行人Aだ。そしてそれで全然構わないと思えている。全然構わない。問題ない。俺には俺の居心地とか好きがあるのだ。





 八組に坂井豊(さかいゆたか)っていう中学のときからの親友がいる。真面目で、どちらかというとおとなしい方だが、思いやりはあるしリアクションのノリはいいし、面白い。好きだ。高校を卒業して大人になってもずっと仲良くしていたいと思わせる奴の一人だったんだけど、最近やたらと俺に突っかかってくる。突っかかってくるというか、なんだろう? なんか敵意を感じる。俺の小さなミスに苦言を呈したり、以前ならスルーしてくれていた俺の言動にダメ出しをしてくるようになった。思い違いじゃない。マジで優しくておおらかな奴だったのだ、豊は。


 これは由々しき事態だとショックを受けていると、何がどうしたらそういうことになるのか、豊が崎野祭理と付き合っていることが発覚する。なんで崎野祭理が縁もゆかりもない八組の豊と付き合い始めるんだよ?先日俺に告白してきたじゃん?とまず思うが、いや、これは俺がなんか関係してるってことか?と気付く。俺にフラれたから、俺に近しい人間のところへ行ったのか?崎野祭理。なんとなくその理屈はわかるが、しかし、それをしてどうなるんだ?とは思う。意味ない。たしかに俺と豊は親友だけど、似た者同士ってわけじゃない。俺と豊じゃ性格もだいぶ違う。豊は俺の代わりにはならないだろう。


 げんなりしてくるのだが、よくよく話を聞いてみると、豊は崎野祭理から「藤本くんはもっと頼もしいよ?」「藤本くんはこういうときに優しいことが言えるんだよ?」「藤本くんはもっとわたしを楽しませてくれるよ?」「藤本くんは」「藤本くんは」……などと指摘をされ続けているらしく、そりゃ俺のことも気に入らなくなるよなと納得してしまった。俺は別に崎野祭理に頼もしさも優しさも見せていないし取るに足らないつまらない男だけど、どうせあることないこと適当に言い募っているんだろう、崎野祭理は。そして豊はそうやって架空の俺と自分を比較されて虐げられているんだろう。いやいや、崎野祭理なにをしてくれとるんじゃ。俺は怒って抗議しに行こうかと思ったが、豊に止められた。豊はそれでも崎野祭理のことが好きらしく、揉めないでほしいとのことだった。いや、でももしかしたら崎野祭理は俺が突っ込んでくることを期待して豊をいじめているんじゃないかとも思うし、豊もそれに気付いていながら、でも崎野祭理のことは本当に好きだし俺と彼女の衝突を避けたがっているのかもしれない。まあ崎野祭理はマジでどんな仕打ちを受けてでも付き合っていたいほどの魅力・魔力があるので童貞である豊が絶対に手放したくないってのはわかるけれど、親友として見過ごしていられる状況ではあまりない。そして俺に一体なにがあるっていうんだろう? どうして崎野祭理は俺に執着していて、内から外から俺にアプローチしてくるんだろう?


 童貞っつって、俺も童貞なんだけど、タイムリーにも豊から懇願される。

「隆史、お願いがあるんやけど。祭理と寝てあげてくれんけ?」


 はああ!? 寝るって、やるってこと? 言い方がなんか古臭いな!って内心でツッコまないとやっていられないくらいに俺はうんざりした。なんで彼氏のお前が彼女と親友を寝させたいんだよ。性癖? 性癖じゃないよね?


 俺はもちろん「嫌やわ」と断る。「お前が寝てやればいいが」


 すると豊が涙を零す。「隆史と一回寝れたら僕とも寝るって言われたんや」


「…………」なに?この世界観。


「隆史、頼むわ。一回だけでいいし祭理と寝てあげてや。ホントに。友達を助けると思って」


「や、お前、おかしいと思わんか? なんで俺と寝ん限り、彼氏のお前が寝させてもらえんのやって。そんなん彼氏じゃねえが」


「いや、だから隆史と一回寝たらもう隆史のことには踏ん切りつけるって言っとるんや」


「…………」


「祭理は隆史のことが好きなんやろ?本当は」


「本当に好きなんかは知らん。でも俺、はっきり断ったしな?」


「うん。でもそこをなんとか。一回だけでいいんや」


「嫌や。それに、俺も彼女おるんやしな? 彼女ともやっとらんのに、そんな、崎野祭理とやれるかいや」


「ほしたら赤阪さんと一回寝てから、それから祭理と寝てあげてや」


「…………」俺は自然とため息が出る。必死かよ。もう倫理観が溶けている。「豊、お前、崎野祭理とは別れれや。おかしいやろ。変やと思わんか? ホントにお前のこと好きな子やったら、お前にそんなこと言わんやろ。お前、崎野祭理に弄ばれとるぞ。舐められとるやん」


「……祭理は隆史のことが好きやからね」


「それは知らんけど。崎野祭理から離れようさ。こんなままやと、俺もお前も危険やぞ?」


「なに言っとんじゃ!」と豊がいきなりキレる。おおう、びっくりした。豊が大声を出すところを初めて見た。「そんなこと言って僕と祭理を別れさせてから、自分が祭理と付き合おうとしとるんやろ!? そうはいかんからね!」


 いやいやいや、だから俺は崎野祭理からの告白は断ったし、大事な彼女がいるんだって言ってるだろ。豊は興奮しているからなのか崎野祭理に溺れすぎているからなのか性欲がもう限界点に達しているからなのか、何かわからないが支離滅裂で会話の流れも追えていないようだった。恐ぇ。今の状態の豊にどれだけ言っても無駄そうだったのでとりあえずなだめるだけにしておいたが、崎野祭理はどうにかしなければならないかもしれない。





 崎野祭理は俺のことが好きだと豊は言うけど、どうだろう? 今現在の彼女がやっていることを見ていると、単純にそんなふうには思えない。どちらかというとフラれた腹いせをされている気がするし、そこまでじゃなかったとしても、彼女にはもう愛情には満たないなんとなくな執着しか残っていないように感じる。たぶん、小学校や中学校でもずっと人気者で、きっと彼氏もいたんだろうけどフラれたことなんてなかったのかもしれない。だから告白を断った俺を妙に意識しているんじゃないだろうか? もっと穿った見方をするなら、軽く遊んでやろうと思って声をかけたチョロそうな俺に意外にもバッサリやられたもんだからムカついているという可能性もある。いずれにせよ、こんなやり方は普通じゃない。そして、こうなってくると、山口くんや北村くんにも何か似たようなことが起こっていたという推測もあながち妬みや嫉み、単なる噂じゃなくなってくる。ちなみに山口くんや北村くんは依然として登校してこず、このまま辞めてしまうんじゃないかと言われている。恐ろしい。でも、油断していると俺達にだって起こりうる危機なのだ。





 部活を終えてから珠子と合流し、自転車小屋の脇でぼんやりする。土手があり、細いけれど一応川も流れており、俺達は並んで座り、それを見るともなく眺める。


「ねえ、崎野祭理とか坂井くんのこととか、いろいろあるやん?」珠子が言う。「あたし、藤本といっしょにおるの、疲れてもうた」


「は?」

 え、おののく。そう来るか。俺は崎野祭理を巡る問題を珠子に包み隠さず話してしまったが、逆効果だったんだろうか? 豊の件があるから、ひょっとしたら珠子にもちょっかいのひとつやふたつ、かかるかもしれなかったから、もちろん怖がらせるようなことは言わなかったけれど、頭の片隅では意識しておいてほしいなと思って伝えたのだが。むしろストレスになってしまったか? 想像が膨らみすぎて、考えなくてもいいことまで考えてしまったのかもしれない。それともあるいは、教えてもらえていないだけで珠子は既になんらかの攻撃を受けていたりするんだろうか? だとしたら、たしかに俺の彼女だという理由だけで理不尽にも嫌な目に遭うのは珠子からしたら耐えがたいものだろう。


 などと瞬間的に考えていたのだが、「うっそー」と笑われる。


 なに? 鬱蒼(うっそう)? 意味がわからなかったけど、珠子は笑っているので悪い空気ではないんだなと判断し「なんじゃいや」と俺も笑う。「どういうこと? 何がしたいんじゃいや」


「いや、藤本がどういう反応するかなーと思って」


「はあ? おめえなあ……」


「ごめんごめん。や、あんたもしかしたら崎野祭理と付き合いたいんかな?って思ってさ。崎野祭理と付き合いたいのにあたしが邪魔やから動けんのかな?とかって思って」


「バカじゃねえの? 崎野祭理には気をつけようなっつって言っとるのに、なんで付き合いたくなるんじゃいや。意味わからん」


「いや、崎野祭理にはそんくらいの魔力があるさけや」と珠子は真面目な表情で言う。「変やな、おかしいなと思っとっても、魔力には敵わんのや。坂井くんだってそうなんじゃないん?」


「まあそうやなあ……」


「やから藤本だってわからんやろ?」


「バーカ。ひでぇ」俺は一途に珠子の心配をしていたってのに。


「怒った?」と、でも珠子は笑っている。


「ちょっと」と俺は言う。意図的に物憂げな顔をしてやる。


「あっはは! ごめんごめん。でも崎野祭理はちょっとホントに可愛いしな。声も不思議な感じせん? 聞いとると落ち着くっていうか。あたしとは大違いやな。あたしなんかなんも可愛くないし。顔も、声も」


「性格も」


 俺が付け足すと「死ね」とまた笑う。それから笑みを引っ込める。「崎野祭理に好かれとる間が華やぞ?藤本。崎野祭理んとこ行かんでいいんか?」


「……お前、もしかして崎野祭理になんか言われた?」


「は? なんで?」


「いや、なんか別れるようにとか」


「あー、そういうこと? 言われとらんよ。一回話しかけられたことはあったけど無視したわ。聞こえんフリした。あたし崎野祭理と喋りたくないもん」


「そうか」


「やからあたしは崎野祭理に操られとるわけじゃないよ。自分の頭で思っとるんや。崎野祭理んとこ行かんでいいんか?」


 崎野祭理の存在を意識してそんなことを口にしている時点で操られているのといっしょだ、と俺は思うが言わず、珠子の方に体を傾けて体重をかけ、珠子を潰しにかかる。体同士が近づいて密着する。顔も。「おめえ、ふざけんなや」


「いやん。マジ怒りせんといてや」


「崎野祭理なんかどうでもいいんじゃ」


「……なんで?」


「なんで? お前がおるしやが」


「あたしが邪魔やし?」


「ムカつくんな、おめえは。好きやしじゃ。死ね」


「好きなのに殺さんといて」と珠子はまたヘラヘラ笑っている。


「キスするぞ」と俺は言っている。顔が近い。頬と頬がくっついているし、角度を少し変えればそれだけで唇だって触れ合う。


「こんなところで、こんなときには嫌や」


「あっそ」

 ムカムカだとかイライラだとかに後押しされて、緊張感がない。俺はキスだって人生初のクセして、まるで百戦錬磨のイケメンみたいな堂々っぷりだ。


「あたしも好きや」

 珠子は俺の密着から離れ、反転し、座り込んでいる俺の正面に屈み、俺の両脇の地面に手をついて、素早く口付けてくる。ムカムカイライラが吹っ飛ぶ。俺は珠子の腰辺りを掴んで抱き寄せてもう一度させてもらう。珠子が「ちょっと~靴履いとるから」とどうでもいいことを言っているけど構わない。


「自信持てや」と俺は言う。「可愛いんやさけ」


「上から目線やなあ。さすが彼氏」


「言わなわからんのやしなあ」


「あたしは言われんでもわかったけど? あんたがあたしのこと好きなんやってこと」


「ああ?」


「最初にあたし『もう疲れたわ』って嘘ついたやろ? 藤本の本心が知りたくて。藤本が崎野祭理んとこ行きたがっとるんやとしたら、藤本はきっと喜んで別れようとしてくるやろうさけ。でもあんた、メッチャ焦った顔しとったから、笑ってもうた。嬉しくて」


「……お前はそういうくだらんことするのやめれや」


「いや、あたしも最初言うとき心臓バクバクやったよ?」


「ほんなら言わんとけばいいやろが」


「そんなん、別れたいなと思われたまま付き合われとる方が最悪やん」


「そんなもん思わんわ」


「なんで?」


「なんで?って……面倒臭ぇな。好きやからやろ?」


「は。あたしも好きや」


「お前はもっと自信を持ちなさい」


「自信はあるよ? でも自信あって負けるのが一番恥やん?」


「うーん」


 珠子が俺の太ももの間に入り込んできて、懐の辺りで体を丸める。「藤本。崎野祭理とは関わらんときねや」


「わかっとるよ」


「あいつはマジでやばい奴やから」


「うん。けど、豊のことはどうにかしたいんやけどな」


「あたし的には坂井くんのこともいっしょに切り捨ててもうてほしいんやけど、そんなことできんもんな?友達やし」


「そうやなあ」

 あそこまで変貌させられてしまうと、もうそれは親友だった頃の豊とは別物って感じもするけど、今まで貯めてきた情が結論を単純明快にはさせてくれない。


「でもとにかく、藤本の方から崎野祭理には近づかんといてや? 崎野祭理はたぶんそれを待っとるさけ」


「わかったよ」





 と言いながらも俺は崎野祭理と向かい合ってしまう。崎野祭理が下校にもたついていた放課後を見計らい、俺は彼女を捕まえる。それから、以前に彼女から告白された場所へ移動して話を始める。


「豊から手を引いてくれんけ?」

 我ながらストレートになってしまう。事前に台詞は考えておいたのに、相対したら一気に飛んでしまった。


「どうしたの?藤本くん」と崎野祭理は澄まして笑っている。「わたしと坂井くんのことは、藤本くんには関係ないでしょ?」


「関係なくはないやろ」


「どうして?」


「…………」あくまでも俺自身に言わせる気かよと思いながらも、もう言う。勢いをつけて言う。「俺と一回やれたら豊ともやってやるさけ、豊に俺を説得するように指示したやろ」


「あは。指示なんて」と崎野祭理は本当に可笑しそうに笑う。「指示なんてしてないよ。藤本くんは言葉選びが絶妙だね。面白いな」


「…………」


「藤本くん、その話もただの冗談だよ? 坂井くん、藤本くんに言ったんだ? 恥ずかしいな。いくら仲がいいっていっても、そんな話はしないでほしいよね。ね? びっくりしたよね?藤本くんも」


「…………」

 いやこれ、珠子も言っていたけど、マジで魔力。崎野祭理の声は聞いていると心が穏やかになってきて、眠たくすらなる。そして、全然嘘を言っているように感じられないのだ。やっぱり豊が崎野祭理を愛するあまり精神失調を起こして情緒不安定になっているだけなんじゃないのか?と思ってしまう。崎野祭理は実際的なことは何もしていなくて、周りがただおかしくなっているだけなのかもしれない。


「ね、藤本くん。まだ付き合ってるの?赤阪さんと」


「は? ああ……付き合っとるよ」

 まだっつって、そんなに時間は経っていない。まだ七月だ。


「別れたら、次の彼女はわたしでいい? 予約しておいてもいいかな」


「はっ」思わず笑ってしまう。「別れんよ。予約なんてせんと、他の男と付き合いねや……っていうか、豊と付き合っとるんやろ?今」


「うん……でも、坂井くん、最近言葉遣いも乱暴だし、暴力も振るうし、別れたいなって思ってるんだ」


「……暴力も?」

 最近気が立っているふうなのは見て取れるが、あの豊が女子に暴力まで振るうか? にわかには信じがたい。でも、崎野祭理の声のトーンや表情には真実味がある。これを狙ってやっているんだとしたら魔力どころじゃない。魔性の女だ。


「お腹に痣が出来てるんだ」と崎野祭理は苦笑して見せる。おへその左上辺りを制服の上からさする。「見てみる?」


「いや、いいけど」

 だけど、それさえ確認できれば崎野祭理の言葉はある程度信用できるものになる。今の段階では、俺が見るのを当然断ると読んで適当なことを言っているだけとも取れる。けど、けど、俺が見ることを見越してあらかじめ自分自身で痣を作っている可能性もなくはない。それを言い出すとキリがないんだけど、軽はずみに信じるのもどうかと思うし。


「じゃあ、触ってみる?」と崎野祭理が謎の提案をしてくる。


「え、触ったらわかるんけ?」


「知らないけど、感触とかで怪我してるかってわかるんじゃないかな?」


「いや、触らんけど」こんな人気のない場所で崎野祭理の体に触れたら気が狂ってしまうかもしれない。狂わない自信はあるけど、余計なことはしない方がいい。「でもとにかく、暴力振るわれとるんやったら早めに別れた方がいいよ。俺からも豊に言っとくさけ」


「あ、それはダメだよ」と崎野祭理。「そうしたらわたしが藤本くんに話したこと、バレちゃうから。もっと酷い目に遭わされちゃう」


「ああ、そっか……」

 この『そっか』はどうなんだ?と俺は思う。なんとなく信じてしまいなんとなく崎野祭理を心配して納得してしまっているけど、そんなの、崎野祭理が嘘をついていないっていう前提だからな?


「でもありがとう。わたし自身でなんとか坂井くんと穏便に別れられるよう、頑張ってみるよ。藤本くんは、見てて。ただ心配してくれてるだけでもわたしは嬉しいし、力になるよ」


「おう。うん」

 頑張れよ、と反射的に無事を祈ってしまうが、違う違う。俺は豊が崎野祭理から解放されることを願わなければならないんだった。


 話し合いは特にゴタゴタすることもなく終わり、俺は部活へ向かい、崎野祭理は下校する。





 夏休み直前の一年三組で新たな事件が発生する。授業中。また授業中だ。

 新堂未来(しんどうみらい)っていう、眼鏡をかけていて生真面目で勉強もできる委員長みたいな女子がクラスにいるんだけど、実際は委員長ではないその女子が地理の授業中に机の中からおもむろにカッターナイフを取り出し、チキチキチキと刃を伸ばす。俺は新堂よりも後方に座席があるからその一連の動作がはっきりと見えた。おいおい、地理の時間にカッターナイフはいらないよ何に使うんだよ、と俺は焦燥感に囚われながらも、しかし体が動かない。声も出ない。他の生徒もそんな感じで硬直していたんだと思う。誰も何も反応できず、ただ見守る中、新堂は前の座席で板書をノートに書き写している久保泰木(くぼやすき)のうなじめがけてカッターナイフを振り下ろした。切りつける感じではなく、切っ先を突き立てるようにして久保を強襲した。あっ、と思ったが、それでもまだ俺は動けない。座席に固定されたままだ。


 カッターナイフを突き立てられても、久保は「え?」と反応が薄い。攻撃されたなんて思いもしなかったんだろう。虫が首筋に止まったとでも思ったらしく、右手を上げて払うような仕草をする。血、血、血がメッチャ出てるんだけど!


 新堂が「死ね!」と叫び、もう一度、切っ先を久保に突き刺す。血はピューッとは出ないが、傷口からるるるるると滲み出てきて、首筋が瞬く間に赤く染まる。


 さすがの久保も事態に気付き「うおおおお!なんじゃ!」と喚く。「おい! 何しとんじゃおめえは!」


 久保の喚き声で全員の金縛りが解けたようで、それぞれが蜘蛛の子を散らすように避難を始める。俺も立ち上がって新堂から距離を取る。珠子。珠子は大丈夫かな?と不安になるけど、そういえばここは一年三組なので珠子はいない。俺はホッとしながら自身の安全にのみ集中する。教室のふたつある出入り口は大混雑して詰まってしまうが、新堂の狙いは久保のみらしく、机と椅子の足に引っ掛かってもつれている久保に追撃を食らわしている。カッターナイフはさっきの攻撃で刃を失っているけれど、新堂は折れた刃のカッターナイフとシャーペンの二刀流で久保を攻める。


「死ねや! 死ねや!」と叫びながら馬乗りになり、新堂は久保を刺しまくる。


 しかし折れたカッターとシャーペンではいくら突き立てても致命傷にはならず、久保は死ぬことも気絶することもできず「やめれや! やめれって!」と呻き続けるのみだ。血が床に広がっている。真新しい血だが、重々しい光沢を放ちながら静かにその面積を広げている。俺は見るに耐えない悲惨さに目を伏せたくなるが、新堂の気が変わってこちらへ向かってきても恐いので現場から目が離せない。


 山口くんと北村くんのケンカは野次馬根性で見に行ったのに、実際に自分の教室でおっ始められると血の気が引く。四組のケンカは既に決着がついていたけれど、こちらは現在進行形であり、どう展開していくかがまったくわからない恐ろしさがある。


 おじさん先生が「やめなさい!」と遅ればせながらに新堂へ手を伸ばすけど、新堂は奇声を発しながら武器を振り回し、久保から体をどけたと思ったら逃げ遅れている崎野祭理を捕らえ、崎野祭理の首に腕を回すような形で逃走を封じ、人質にする。


「一歩でも近づいたら祭理を殺すさけな!」とよくある台詞を言い放つ。


 新堂は崎野祭理の顔にシャーペンの先端を向けていて、俺は嗚呼と思う。お前、崎野祭理の顔に傷をつけたらマジで重罪だぞと反射的に思う。そんなことを言っていられる状況じゃないんだけど、それでも思わずにいられない。


 先生はまた「やめなさい!」と言うが、言っていてむなしいくらい意味のない言葉だ。


「祭理は私のものや! 祭理を殺して私も死ぬ!」と新堂は宣言し、俺はえ?となる。これもまた崎野祭理を巡るトラブルなのか? 崎野祭理はとうとう女子の新堂までもを虜にしてしまったんだろうか? っていうかさっきは近づいたら殺すって言ってたのに、もうどっちにしろ殺すのか。


 先生が前進し無理矢理距離を詰めて、来れないだろうと高を括っていたらしい新堂の顔面を殴る。たしかに、ナイフならともかくシャーペンの一撃なんかじゃ人は殺せないから新堂の脅しはほとんどハッタリみたいなもんで、仮に新堂が興奮して崎野祭理にシャーペンを刺したとしても、たぶん崎野祭理は死なない。そもそも崎野祭理の顔に今まさに当てられているシャーペンをその距離から彼女に突き刺そうとしても相当な瞬発力が必要だし、新堂の細腕じゃ刺さりもしないかもしれない。でも先生、顔面殴りはさすがにやりすぎだよ……。崎野祭理を助けようと必死だったんだろうけど、新堂の眼鏡は割れ、新堂自身も文字通り吹っ飛ぶ。今日の出来事の中で一番引いたかもしれない。





 俺は自分の後方に誰かがいるとそわそわして授業に集中できなくなり、先生と相談して座席を最後列にしてもらう。最後列なら誰かがいきなり襲いかかってくる不安もない。


「あんなことがあったら当然だよな」とおじさん先生も同情してくれる。「もっと大勢の生徒が藤本くんみたいに相談してくるかと思って構えてたんだけど、意外にもまだ藤本くんだけだよ。背後が気になるっていう生徒は」


 みんなよく無防備でいられるよなと俺なんかは思ってしまう。背後が真剣に恐い。





 夏休みが明けて二学期が始まり、三組のお馴染みのメンバーが再び教室で顔を合わせるけれど、新堂未来と久保泰木の姿はない。山口くんや北村くんもけっきょくそうなってしまったが、三組の二人も桃岡高校を離れることになってしまった。新堂の場合はおまけに保護観察処分も受けているという話だった。


 今回の件にも崎野祭理が絡んでいたのかというと今のところ不明だが、新堂が「祭理は私のものや!」と叫んでいたことから新堂が崎野祭理に強い思いを抱いていたことはたしかだし、そうなってくると大方、崎野祭理が今度は久保に接近していい感じになっていたといったところだろうか。崎野祭理に片想いをしていた新堂がそんな久保を逆恨みして凶行に及んだ……というのがもっともシンプルな線だ。いや、普通はそんなことで人を刺したりしないし暴れたりしない。よほど好きだったにしても、やりようはいくらでもあるし、刺すなんて本当に最終手段だ。だけど、崎野祭理が近くにいてその常識外れの美しさを見せられ続けていると、自分の中の何かが狂ってしまうってのはなんとなくわかる。山口くん達のケンカから始まった一連の騒動を目の当たりにしていると、多少のことには動じなくなり、何かあってもこれくらい日常かな?と思うようになってしまう。日常の基準がブレる。まあしかし、実際のところはよくわからない。崎野祭理とは関係なく抜き差しならぬ何かが新堂と久保の間にはあったのかもしれない。二人がいなくなってしまった今となっては、解き明かされることのない話かもしれないが、別に明かされなくたっていい。完全に終わってしまったことだし、俺としてはどうでもいい。


 崎野祭理もまた引っ越すことが決まったらしく、桃岡高校から、俺の視界から、俺の人生から、姿を消す。最後に喋りに来るかな?と身構えていたけれど、一言の挨拶もなし。あっさりしているというか、現金なもんだった。たぶん崎野祭理にとって、ここはもう自分とは無関係な世界になってしまったんだろうなと思う。


 もしかしたら崎野祭理は両親について各地を転々とし、行く場所行く場所でその世界を少しだけ壊しながら竜巻のように消え去っているんだったりして。それこそ俺が今考えた作り話だし、嘘臭いというより出来すぎているのかもしれないが、ひとつだけ確定的に言えることがあって、それは次の引っ越し先の世界も多少は破壊されてしまうんだろうなってこと。崎野祭理は壊したくて壊しているのか、自分に正直に振る舞った結果ああなってしまうのかはよくわからないけれど、どういう意思であれ、犠牲は出るのだ。山口くんや北村くん、豊、それから新堂や久保も俺は犠牲者だと思っている。断固として主張したい。


 豊は回復した。崎野祭理が去って、憑き物が落ちたかのように正常に戻った。なんで崎野祭理に絡まれていたときにもその冷静さを発揮できなかったんだよ?とちょっと思ってしまうけれど、気にしないことにする。今の豊が本当の豊で、俺の大事な親友である坂井豊なのだ。崎野祭理の魔力は冷静さを失わせるんだろう。ということにしておく。


 本当の本音を言うと、崎野祭理はあのとき、新堂に殺されてしまっていた方が世のため人のためになったんだろうにな、と思う。本気で酷い物言いを許してもらえるなら、崎野祭理が生きているとろくなことにならない。みんなが少しずつおかしくなり、そのおかしさが重なり合い、悪いことが起きる。だけど誰もそんなことには言及せず、ただ崎野祭理の転校を寂しがっていたので、俺はなんだか自分が異端者みたいで肩身が狭い。


 と、嘆いていると、昼休み、自転車小屋の脇で珠子が言う。「崎野祭理、どうせなら新堂さんに殺されてまえばよかったのにな」


 ひどっ、と彼氏として若干冷めそうになるが、俺も似たようなことを思ったのだし、ここはまた意見が一致したことを喜ぶべきシーンだろう。


「そうかもな。けどまあ豊もいつもの豊に戻ったし、まあいいわ」と俺はまとめておく。


「そうやな。どっか違う県行ったんやろ? ほしたらあたしらと再会することももうないやろうし、まあいっか。どうでも」


「ほうや。どうでもいいんや、もう」


「でもあそこまで美人やと、おらんくなるとなんかもったいなく感じるんね」と珠子は笑う。「あんな美人、生きとる間にもう(なま)じゃ見れんよ」


「おったらおったで困るんやけど」

 どんだけ困ったか忘れてしまったんだろうか?


「まあね。でもおらんくなったらおらんくなったで。な?」


「ふん」


「一回ぐらいやっとけばよかったんじゃない? せっかくチャンスあったのになあ。もったいないもったいない」


「はは」

 崎野祭理と、ねえ。あれだけの美人だからなあ、地球に生まれた記念に体験しておいてもよかったかもしれない、もったいないもったいない、と思うのは、本当に嵐が去ってくれている今だからなんだろう。


「バーカ。汚い」


「珠子の方がいいわ」


「バーカ」と罵りながらも珠子は顔が赤い。可愛い。「ねえ、崎野祭理は最低のクズで死んだ方がいいけど、ひとつだけひれ伏して感謝せないかんことがあるんや。何かわかる?」


「崎野祭理がおらんかったら俺とお前は出会わんかったってことやろ?」


「そうや」と珠子は嬉しそう。お前の考えてることぐらいわかるよ。


 山口くんと北村くんのケンカが崎野祭理の影響だったと仮定した場合の話だけど、あれがなければ俺と珠子はお互いの顔も知らないまま三組と五組でそれぞれ勉強に励み、二年や三年になったらもしかしたらクラスは同じになるかもしれないが別に言葉を交わすこともなく卒業していただろう。あの瞬間だけに違いない。俺が自発的に珠子に話しかける可能性のあった瞬間は。


「珠子の方から俺に話しかけてくる可能性はほぼゼロやしな」

 珠子フレンズの話だと、こいつ、ものすごく人見知りするらしいし。


「そうやな。全然好みじゃないし。初めて声かけられたときも、キモっ!て思ったもん。マジで。なんやこいつって」


「はは」


 悪いことの中にもいいことはあって、事態が悪くなりすぎると気付けなかったりするけれど、振り返ってみると、やっぱりただ悪いだけじゃないのだ。

 崎野祭理は最悪なトラブルメーカーだが、あれだけの美人を間近で拝み続けられるならどんなトラブルも大歓迎!という者も世界のどこかにはいるかもしれない。俺はもうご遠慮願うけれども。

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