第38話 槍の英雄①
液状化した影の中から悲痛な声が上がった。
発言者の兵士は、泣きそうな顔で叫んで立ち上がる。
「やってられるかぁ! 俺は抜けるぞッ」
兵士が拠点に背を向けて駆け出した。
液状化した影に足を滑らせながらも必死で離れていく。
そこに戦意はなく、ただ恐怖と保身だけを考えているようだった。
一人の逃亡を見た他の兵士達は、すぐさま同じ行動を取った。
互いに押し合って転びつつ、一刻も早く俺の脅威から脱しようと走る。
なんとか堪えようとしていた者も、次々といなくなる味方を前に決意が崩れた。
刃影軍は持ち直すこともできず、ただ一度の反撃で戦闘を放棄してしまったのである。
(当然の結果だな。勝ち目がない戦いなど自殺に等しい)
戦場を進むには希望が必要だ。
心の支えがあれば、命を賭した殺し合いにも身を投じることができる。
しかし、すべて無駄であると突き付けられると、途端に動けなくなるものだ。
対価のない犠牲など馬鹿馬鹿しい。
だから俺は冷や水をかけた。
彼らの支えをへし折り、残酷な現実を見せつけたのである。
常人は我に返って恐怖し、逃亡せざるを得ない。
そこから奮い立てるのは一握りの英雄くらいだろう。
(せっかくの戦場を潰してしまったが、元から張り合いのない奴らだった。英雄を蘇らせるまでもなかったな)
少し不満な気持ちを抱く俺は、逃げ去る刃影軍を見守る。
瞬く間に視界から消えていく彼らを眺めるうちに、とあることに気が付いた。
その場に佇む兵士がいる。
金髪碧眼の若い男だ。
唯一、背中を見せずにじっと俺を見上げていた。
恐怖や絶望は感じられない。
内なる闘気を滾らせて身構えている。
男は槍を携えていた。
液状化した影で身体が汚れていないことから、その得物で上手く凌いだようだ。
あの濁流を防ぐとは相当な腕前である。
少なくとも魔導器に頼った人間の為せる技ではない。
やがて刃影軍の兵士は男だけとなった。
それでも態度を変えず、男は臆せず話しかけてくる。
「――名乗れ。お前が何者なのか、知りたい」
「アッシュ・リーヴェライトだ」
「……まさか"万能の錬金術師"か。明らかに若すぎるようだが」
男は怪訝そうに言う。
半信半疑となっているようだ。
「俺のことを知っているのか」
「前の大戦の英雄だ。知らないはずがない」
男は槍を振るって構えを変える。
穂先を真っ直ぐ俺に向けながら、彼は素性を名乗った。
「俺の名はミハエル。刃影国の槍使いだ。一応、英雄の地位を認めてもらっている」




