幼い頃のパパ
わたしはときどき、どうしてパパみたいなひとが文筆家になれたのか、不思議になることがある。だって、パパったら、ほんとうにだらしがなくて、いい加減で、ワガママなんだもの。
出版社の人も、世の中の人も、それはつねづね不思議に思っていたみたい。だから、パパに自分の半生を書かせて本にさせた。つまり自伝というやつだ。去年にだされた『隠者のごとく』というタイトルのこの本は、なぜだかいきなりのベストセラー。
編集さんも驚いていたけれど、一番驚いたのはたぶんわたし。だって、あの本はあきらかなホラ話なんだもの。あれが本当なら、パパはこれまでの人生、女の人にはモテモテで、ケンカも強く、仲間も大勢いる、みんなの人気者ってことになってしまう(……そんなバカな)。
きっとみんな、お笑いの本とまちがえて買ってしまったのかもしれない。おかげで、いつもがけっぷちのうちの家計は、タイヘン潤ったけれど。
だけどパパはなんだか複雑な表情だった。どうやら、まじめに書いてる小説より、ふざけて書いた自伝のほうが売れてしまったのがおもしろくなかったみたい(そういうこともある)。
でも、その自伝はウソばっかりなので、わたしがうちのおばあちゃんやお母さんから聞いた話をまとめて、ほんとうのパパの半生について書いてしまおうと思う(パパとママは、幼稚園の頃からの幼馴染み。だから、ちいさいころのことも、なんでも知っている)。
パパは小さい頃、手に付けられない乱暴者だった。それはもう、幼稚園でも男の子はパンチして泣かすし、女の子は髪をひっぱって泣かしてしまうとんでもないヤツ。お父さんお母さんのいうこともぜんぜん聞かない子だった(でもママが言うには、そのころでもパパは、ママにだけは優しかったんだって! 嘘みたい!)。
だけど、小学校一年生の春の遠足でいった山道で、パパは足を滑らせて崖から転落、頭を岩にぶつけて激しく流血する大けがをした。そうして二週間の入院をした。
退院したパパは、まるで別人のようにおとなしくなっていたという。
その代わり、ノートにがりがりと不可思議な絵を描くようになった。パパの両親(わたしは顔もしらない)は、それをたいそう不思議がり、気味悪がったそうだ。
だけど、それは絵ではなかったのだ。それは、字だった。ただ、とても汚い字で書かれていただけだった。
それから二年後。
小学三年生のパパの、まだまだ汚かった字で書かれた作文、それを先生がなんとかみれるように無理やり清書させたものが、市のコンクールで最優秀賞に選ばれてしまった。しかも、これには逸話があった。
パパの一年と二年の担任の先生は坂本先生といったのだけれど(金八じゃないよ)、坂本先生は最初、パパの作文を読んだ時、あまりに文章ができ過ぎていたので、
『ははァ。これはきっと、親御さんに見て貰って書いたのだなァ!』
と勝手に決め付けて、コンクールには別の子の書いたものを応募していたのだ。
でも、その最初の最優秀賞受賞から、パパの快進撃がはじまったのだ。
パパは自分の力にたいする過信とうぬぼれ(このころからあったのだ)から、かたっぱしから世にある作文コンテストに応募し、そうして端からそれらの賞を受賞していった。市の防火作文、下水道作文、交通安全キャンペーン作文に、読書感想文などなど。その勢いはそのころの同級生から、『作文魔』なんて不名誉なあだ名をつけられるほどすごかったらしい。
そのうち、『これはタダモノではないぞ』とウワサが広まりだした。
それはやがて、東京の出版社にも届いた。
パパが最初の本を出したのは、小学五年生(おそろしいことにいまのわたしと同じ年齢だ)の夏、『タイニーちゃんの素敵な夏休み』という、妖精のお話だった。
これがベストセラーになり、パパは一躍、時の人になった。テレビやなんかのインタビューとかがきて、神童、麒麟児、などともてはやされたのである。ママが、当時の新聞などを切り抜いてとってあるので、その記録が残っている。
そういうわけで、パパはもとよりの自信過剰からさらに調子に乗ることはなはだしかった。入ったお金はお菓子とオモチャとマンガに全部つぎ込んだ。そうして一度、甘い蜜の味を知ってしまったパパは、もう後戻りはできなかった。
でも、そのまま売れっ子作家の仲間入りできるほど世の中は甘くなく、パパは書いたり書かなかったり、売れたり売れなかったりして、試行錯誤や艱難辛苦、刻苦勉励江戸幕府することになるのだ(まあ、このヘンのことは凡堀社から出ているパパの自伝『隠者のごとく』に書かかれているので、もっと詳しく知りたいひとはそちらを買って読んで欲しい。さっきも言ったが、かなり事実を歪めて書かれた感がある本だけれど)。
だけど、パパの小説の才能だけは本物なのだ。
だって、わたしはそれのおかげで、いま、ちゃんと生活できているのだから。
……もっとも、あまり人並み、とは言いがたいけれど。