我が家の秘密
(タイヘン、はやく帰らなくちゃ!)
帰りの会が終わると、わたしは親友のリコピンとのあいさつもそこそこに、五年一組の教室をいきおいよく飛びだした。先生に見つかっても怒られないていどにスピードをしぼりつつも、急いでロウカをつきすすみ、下駄箱をすり抜ける。時計は三時半を指していた。
三時半! ということは国木田さんがやってくるまで、あと一時間と半分しかないのだ。こんなときは一秒だって無駄にできない。わたしは体育館の裏をつっきって、自転車置き場に置いてある自分のマウンテンバイクを起こす。ちゃっちゃと置き場の支柱につないでいたチェーンを外すと、すべるようにして走りだす。高台にある学校からの道は下り坂。わたしはその坂をビュンビュンくだりながら、自分の住む団地を目指した。
途中で、駄菓子屋さんの前を通りすぎた。ガラス戸からせまい店内のみわたせるその古風なお店『しののめ』は、なにを隠そうわたしのおばあちゃんの住んでるおうちだ。
いつもならあがって、おばあちゃんにあいさつでもして、おやつにお茶とお菓子でもいただいていきたいところだけれど、今日はそういうわけにはいかない。なぜなら、あと一時間半しかないのだから。なにが? それを説明しているヒマは、いまはない。
わたしはとにかくペダルをこいで、自転車をかっとばす。おおきな曲り道を左右に曲がったさきのひらけたところに、わたしの住んでいる市営団地がいつもとおり建っていた。 ここでも自転車置き場の支柱にチェーンでマウンテンバイクをくくりつけると、わたしは大急ぎで自分のおうちへ向かう。急ぎつつも、あちこちにいらっしゃる奥さまたちにちゃんとあいさつすることも忘れない(団地で暮らすには、こういうことがとても大切だ)。
階段をかけのぼり、三階にある自分のうちの前に立つ。ここで、いったん息を整えて、深呼吸。大きな声や、音をだしてはいけない。いっぺん散れば、元に戻るのまで三十分。それが、パパの集中力のげんかいというやつなのだ。わたしは細心の注意を払って、ゆっくり扉を開けた。小さな声で、ただいま。またゆっくり閉じる。
静かにリュックを降ろすと、抜き足差し足でパパの部屋の前までいって、そっと覗き込む。雑誌や漫画で散らかった四畳半の真ん中に、パパのまあるい背中が見えた。その向こうからタカタカタカと、小気味よくキーボードを叩く音。わたしははらはらしつつも、赤ペンを用意し、台所の椅子に座って、待った。
しばらくすると、タカタカタカタカという音が止み、今度はウィーン、ガチャウィーンという音が何度も繰り返された。わたしは時計を確認した。もうすぐ四時。あと一時間。 パパが、台所にやってきた。その手には、いま書き上げられたばっかりの原稿が握られている。パパは、わたしにそれをつきだすと、いつものおきまりのセリフを言った。
「どこかヘンなとこ、ない?」
わたしは原稿を受け取ると、一枚一枚確認しながら、字のまちがいや言葉遣いのおかしなところを探していく。まちがいやヘンなところは赤で訂正。その間、パパは立ったまま、天井のあたりに視線をふらふらとただよわせている。このところ徹夜続きだったから、とっても眠そうだ。早く眠れるように、急いで、でもていねいに原稿を確認していく。
四十枚の原稿に赤を入れ終わると、時計の針は四時半に近付いていた。
「パパ、いそいで!」
原稿を受け取ると、パパはのっそりと、自分の部屋に戻っていく。タカタカ、タカタカ、という音がしばらくつづいた。四時四十五分。まだだろうか。五十分をまわったところで、音がウィーン、ガチャウィーンに変わる。わたしはパパの部屋にとびこんで、印刷機から吐きだされた原稿を、一枚一枚チェックしていく。
ちょうどそれが済んだとき、玄関のベルが鳴った。
「ごめんくださーい」
四時五十五分……。律義にきっちり五分前に、国木田さんがやってきた。
察しのいい人は、もうわかったかもしれない。そう、わたしのパパは、文章を書いてお金をかせぐ職業についている。小説家というほど立派じゃないし、著述家なんてたいそうな柄でもない。せいぜい、もの書きとか、あるいはもうちょっとだけ威厳をこめて、文筆家というところ。
国木田さんはパパがいつもお世話になっている出版社の担当編集さんだ。いつもいつも、パパが迷惑をかける人で、今日はわざわざ遅れていた短編小説の原稿をとりにきたのだ。
……けっこうおっちょこちょいなパパは、むかしから誤字脱字がめっぽう多かった。編集者さんに渡すとき、それで恥ずかしい思いをしないですむように、ママがいつも文章を点検していた。でもママが死んでしまってからは、それはわたしの仕事になった。
もちろん、パパは炊事洗濯なんかまるでだめ。だから、家事も全部わたしの仕事。二週間に一度ある小しめきりと、月に一度はある大しめきりの前は、わたしもけっこう忙しい。
タイヘンだけど、わたしはくじけない。なぜなら、わたしには夢があるからだ。わたしの夢は、パパにたくさんお金をためさせて、いつか猫付き庭付きの一戸建てに住むことだ。
……もっとも、いまのパパの現状を見る限り、それはそうとう先になりそうだけれど。
だけど、わたしはけっしてあきらめない。
だって、もう猫の名前も決めてしまっているのだから!