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「あのなー、人を呼ぶための手段が突然の平手打ちってのは野蛮すぎて、どうかと思うぞ、俺は」
「何いってるんですか! 何度呼んでも反応をよこさなかったのは、センパイじゃないですか!」
「――――――呼んでたの?」
戸宮が気まずそうにそう尋ねると、女子生徒は声を荒げながら「そうじゃなきゃこんな事言いません!」と答える。視線には怒気が篭っており、そういうのは慣れている戸宮でも少し怖気ずく。
それを聞いた戸宮は内心「まずったなー」と呟く。
一限と二限の行間休み。そんな朝っぱらから痴話喧嘩を繰り広げる二人組みがいるのは、一階の階段下。比較的人の往来が少ない場所。
なぜそんな場所を選ぶのかというと、女子生徒が戸宮の彼女であり、夏休みの楽しみ方を左右する『彼女』という単語に世の男子生徒が敏感になる時期にそんな関係の二人が楽しそうに話していると、男のほうは決まって同級生からの突き刺さるような視線に晒されるからだ。
だが戸宮の場合それだけではなく、付き合っている相手が一年生随一の美少女だというのも理由に入る。
女子生徒の名前は綾瀬美子都。ツヤのある短髪と、キューティクルな瞳がチャームポイントな(戸宮の友人談)、何度も言うが戸宮の彼女である。
「だから悪かった。考え事してて気がつかなかったんだって」
『暑くてバテていた』が『考え事をしていた』に変わっているのは、戸宮も少しはいいカッコしたい願望があるからだ。
「センパイ! それ嘘です。センパイが朝っぱらから考え事なんて、ありえません」
全否定。最後に「ありえません」までついた。
戸宮は俺って考え事をしていたという定番の言い訳も使えないほど悲しい奴なんだろうかと思う。
「……ま、その件は俺が悪かった。でいいだろ? そんなことでダラダラと話すのもアホらしいし」
「なんですかその言い草! しかもアホとは何ですか! アホとは!」
「はいはい、もういいから。――――――で? 家のほうはどうなんだよ」
「えっ――――」
美子都はさきほどまでのお茶ら気ムードから一転、家庭の話という真剣な会話への転換に少し戸惑ったが、すぐに意味を理解して話し始める。
「最近は……お父さんがきちんと毎日、仕事に行きだしたの」
「……そうか」
「うん。それで、表情も明るくなってね。なんていうか、少しずつ立ち直っているみたい」
「ふぅん。良かった。順調なんだな」
戸宮の問いかけに美子都は大きく頷く。
父子家庭である美子都の家庭は離婚で精神的なショックを受けた父を、美子都が支えている、といった感じになっている。
戸宮自身も彼女の家を訪れたときに少しばかり家庭の様子を拝見したが、何ともいえない危うさを感じ、それからは気が向いたときに家の様子を訊いている。
彼女のほうは別にその事が嫌ではないようで、訊けば素直に答えてくれる。
多分「彼女のどこが好き?」と問われれば「素直なところ」と答えるんだろうな、と戸宮は思った。
「ってセンパイ! 話題を変えて逃げようたってそうは行きませんよ! 今回の埋め合わせは、また今度お願いしますね」
「あー、はいはい。今度おいしい店連れて行ってやるから、それでいいだろ」
「んっ…………分かってるなら良いです。おいしい店ですよ!」
念を押した彼女の言葉に「はいはい」と答えながら、戸宮は頭の中で街の地図を広げ『おいしい店』というのを探す。
「じゃあセンパイ。また放課後!」
「ああ、じゃな」
手を振りながら自分の教室へと走って帰っていく美子都を見届けながら、内心「『おいしい店』なんて知らねーぞ、俺」と呟く戸宮。
この後、彼が友人たちの「美子都ちゃんと行くんだろ!」という追求を避けながら『おいしい店』情報を手にしたのは言うまでもない。