1/opening・peaceful:9
現在午後九時。いかに季節が夏だとは言え、こんな時刻にもなると辺り一面真っ暗。頼りになるのは街灯と、家の窓から漏れる部屋の光だけ。
そんな心細くなるような道を、戸宮は落ち着いた表情で歩いていた。
戸宮はほんの三十分前まで美子都の家にお邪魔していた。彼女の父が、こんな遅くまで美子都の面倒を見てくれたお礼と言うことで、夕食をご馳走してくれると言ったからだ。
当然、あちこち動き回ったりで戸宮の腹の虫はぐうぐう鳴っていたのだが、それでも家族水入らずに横槍をいれるのははばかられる。
そう思い、断ろうとはしたのだが……結局美子都の必死なお願い攻撃に負けてしまい、綾瀬家+1名で食卓を囲むことになったのだ。
ただ意外なことに彼女の父が作った晩ご飯はとてもおいしく、戸宮はいつしか遠慮することを忘れ、だされていた量+ご飯一膳平らげてしまった。
その後いくらか他愛のない会話をして、戸宮は帰った。
ここで勘違いしてもらっては困るのが、戸宮は別にご飯をおなか一杯食べれたから安心している訳ではない。
単に帰り際に彼女の父に言われた「君がいるから安心して娘を送り出せるよ」と言う言葉にとてつもなく満足しているわけで。
自分は美子都やその周りの人たちの助けになっているんだという、安堵感に包まれていた。
ふと一日を振り返ってみて戸宮は思う。今日は中身の詰まった一日だったなと。
そして、こういう日の最後にはデザートと言うか大トリというか、戸宮の周囲の人間の中でも一番特徴のある奴が待ち受けている。これまでの経験で戸宮はそう知っているのだ。
そして案の定と言うべきか、長かった帰路を執着地点の前でうろちょろしているソイツを見つけた。
ソイツは片手に回覧板を持って今にもインターホンを押そうとしている。
それは戸宮にとって非常に迷惑だ。戸宮家は昨今よく見受けられる親と子の間に隔たりがあるような家庭ではない。なのでこんな時刻に帰宅するところを見つかれば、もれなく二十分折檻フルコースである。
それに戸宮はソイツと話がしたい。
なのでそっと背後に忍び寄り、
「おい、奏!」
と呼び止めてみた。
するとソイツ改め奏は、驚いたのかその場で大きく飛び上がる。それから恐る恐るこちらへ振り向き、声の主が戸宮であると分かったとたん、耳まで真っ赤に染まった。
「……どうしたんだ、お前? 驚いたり恥ずかしがったり」
「う、う、うるさいわよ。有がいきなり話しかけてくるから気が動転しただけ。別に……幽霊とか思っては……」
その文末のまさかの勘違いが戸宮のツボに入り、大爆笑。ただでさえ赤かった奏の顔はさらに紅くなり、絹のようにきめ細かい長い黒髪と合わさって、どこか宝物とか言って保管される布に包まれた宝物を連想させた。
この黙ってればいい事まで喋ってしまう正直者は相良奏。戸宮家の隣家の一人娘で、戸宮とは俗に言う幼馴染と言う関係だ。
戸宮とは小中までは一緒だったものの、高校で進路が分かれ、戸宮は成績中の上程度でいける公立高校へ、彼女は首席クラスでないといけないような私立の女子高へと進学した。
ただ先述のとおり家が近所どころか隣なので、こうたまに会っては互いの近況を話し合うのだった。
いつまでも笑う事をやめようとしない戸宮に彼女はいい加減腹が立ってきたのか、今度は別の意味で顔を真っ赤にして反撃を開始した。
「別にそこまで笑わなくてもいいでしょ! それにもう夜遅いんだし、そんな大声で笑ってたら近所迷惑よ」
「大丈夫大丈夫。俺とお前はここらでは礼儀正しい幼馴染で通ってるんだから。昨夜の笑い声は戸宮さんのところの息子さん? なんて噂は広がらないよ」
「――私はそういう意味で言ってるんじゃなくて、たとえ有だってバレなくても周りの人に迷惑をかけてる事に代わりはないでしょ!」
「あははは。……じゃ聞くけどさ。ただ笑っているだけの俺と、大声張り上げて怒鳴っている今のお前。どっちのほうが迷惑だと思う?」
「それは……」
奏は反論できずにうつむき加減になる。
これは少し考えれば分かる。笑い声だけなら仲の良いご家庭なのねオホホホ、で済むのだが怒鳴り声は女であろうと少し野蛮な雰囲気をまとっている。
なので、怒鳴り声のほうが不快レベルは高いのだが……どっちも不快なことには変わりはない。
見ての通り、口先の強さは戸宮のほうが圧倒的で、今まで何度も負かしてきている。
だが、勝ったままでは彼女が泣いてしまう。なので、戸宮はいつも完璧な勝利の後上手くフォローしてあげる。
「――なんてな。どっちも迷惑なんだから、どっちもやめればいいだけの話だ。だから俺も笑うのやめるから、お前も怒鳴るのやめろよ」
それを聞いた彼女は今にも泣きそうな顔から、拗ねてはいるが幾分がましな表情に戻った。そして小さな声で「分かった」と呟く。
「おし、それじゃ夜も遅いし。回覧板は俺が渡しとくからな」
そう言って戸宮は彼女が持つ回覧板を頂て、足早に玄関から家に入ろうとし、
「それはいいけど、有最近私をいじくって楽しんでるでしょ?」
そんな何気ない質問に制止された。
確かに彼女の推測は正しい。特に今日みたいな楽しかった日の最後には、彼女を茶化すのがお決まりになりつつある。
なのでそこは正直に「そうだけど?」と答える。
「ふーん。有は女の子いびって楽しいんだ……」
そう言って彼女は意味ありげな笑みを浮かべ、
「これ、美子都ちゃんに言ってもいい?」
そう、当たり前のような声でチェックメイトが宣言された。
「……、」
沈黙する戸宮。それはなんと言うか、いろんな意味で困るわけで。
つまるところ、これが幼馴染言い合い合戦で、はじめて戸宮が敗北した一戦となった。