第十話 おねがい
負けた。
それも驚くほどにあっさりと。
冷静になってみれば勝てるはずもなかったのだ。
相手は十一人というクラスの半数を占める男子の人数で、しかもその中で一番になるだなんて到底無理な話だろう?
むしろこういう時のたなぼた思想であるはずなのに、どうして俺はあれほど自信を見せていたのだろうか。
結果から言うと勝利の女神は今も半笑いの梓の隣でほくそ笑んでいる池麺太に微笑んだようだった。
きっと女神さまもあの端整な顔立ちに目を眩ませたのだろう。
でなきゃあんなふざけた名前のやつが勝てるものか。
それから俺は大人しく現実を受け入れ、ペアを作るべく辺りを見渡した。
が、努力も虚しく俺は言っていた通りあぶれた一人となってしまったのだった。
あれほど奇数クラスであることを憎んだことはなかっただろう。
しかし思えばおかしかったのだ。
いくら仕方がないといえど生徒一人を余らせるようなペア決めを率先して教師が行うものだろうか。
その時こそ俺はこの筋肉質な男性体育教師と二年次の体育を過ごすのかと考え絶望していたのだが、今思えばこの体育教師は転入生のことを知っていたのかもしれない。
「いっち、にー、さん、しっ! ごー、ろーく、しーち、はち!」
現在、俺の正面では例の転入生サラ・バレンタインが準備体操をしている。
今はペアが体操を通しでやっているのを見て動きを確認する時間なのだそう。
俺は準備体操の型なんてそこまで気にする必要があるのだろうか、という疑問を飲み込んでしっかりと責務を全うしていた。
「あー、そこ。腰は手に当てとかなきゃいけないんだよ」
「えーっと……こ、こうですか?」
「そうそう」
前後に曲げる運動……だったか?
腰に当てて体を前に後ろに逸らせる体操なのだが、サラは腕をピンと足に沿って伸ばしたままだったので気付いた俺が指摘をする。
だが基本的にはどれも滞ることがなく、説明もなしにサラはテキパキと体操が出来ていた。
外国にも日本のような体操があるのだろうか?
気になった俺はサラに聞いてみることにする。
「なあ、バレンタインさん」
「はい、なんでしょう?」
「さっきから見てるとどうも上手くこなせすぎてると思うんだけど、ひょっとしてそっちの国にも似たような体操があったの?」
「いえ、確かにアメリカにも似たような体操はありましたが、今私が多少準備体操が出来ているのは単純にアメリカにいた間日本のラジオ体操第一を朝の日課にしていたからなんです」
「え、これを毎日……?」
「はいっ」
サラは屈託のない笑顔を俺に向ける。
マジか、毎朝ラジオ体操してる人なんて夏休み中の小学生かご老人たちだけだと思ってたぞ……。
思ってもいない発言に俺は驚いてしまった。
それにサラは海外で育っている。
どうしてわざわざ日本産のラジオ体操第一である必要があるのか。
それについても聞こうと俺は口を開きかけたのだがそれを言う前にサラの口が開く。
「既に聞き及んでいるかもしれませんが、私はいわゆる帰国子女というやつなんです。五歳までは日本で暮らしていて六歳になる前にアメリカに出国しました」
あれ、なんだその全く聞き及んでいない情報は。
いや、でも思い返せば信輝が日本語ペラペラとは言っていたな。
その時点で俺が気付くべきだったのかもしれない。
「当初は日本にいるお友達を思うと引っ越したくなんてなかったですし、海の先にある未開の地というのが五歳の私には全く想像がつかなくて……本当に不安でした」
それはそうだろう。
両親がアメリカ人なのだとしても幼くして海を渡るというのはそれだけの不安があったはずだ。
「でもそこまでしてアメリカに行かなきゃならない理由でもあったのか? 聞いてるとバレンタインさん抵抗あったみたいだし、ご両親も娘の気持ちを優先してくれそうなものだけど」
「はい、両親は凄く優しいですよ。 ですが父にも仕事がありましたので。 元々日本にいたのは身籠った母が心置きなく私を産めるようにと父が提案したからなんです」
「ん……? なんでバレンタインさんのお母さんが日本に来る必要があるんだ?」
サラは淡々と話を進めているが俺にはお母さんの話だけが疑問だった。
話を聞くにアメリカ人であろう彼女の家族がどうして日本に来ようと思ったのか。
まさかサラのお母さんが大の日本好き等という安直な理由だったりするはずもない。
「へ……? あ……なるほど。ご存じなかったんですね! 私の母は日本人なんです。つまり、私は日本人とアメリカ人のハーフということになります」
俺の問いかけに一瞬キョトンとした様子だったサラだったが、すぐに俺の疑問を察したのか笑顔で答えてくれた。
そうか、ハーフなのか。
本当に属性がてんこ盛りのようだった。
「いち、に、さん、し……次は腕と足の運動ですね!」
「うん、そうそう……って、いやいや違うよ! ジャンプを飛ばしてるよジャンプを!」
俺が彼女の多才さに感心していると、彼女の体操の方にやや問題が生じていた。
俗に言う両足跳びの運動。
これを忘れていた。
「ジャンプ……ですか?」
「そうそうジャンプ。 腕と足の運動の前には両足跳びの運動ってのがあるんだけど……え、やってなかった? 毎朝やってたっていうラジオ体操で」
基本的にこの運動は体全体を動かすうえに動きとしてはやりやすく、そう忘れる体操ではないはずなのだが……。
ましてや毎朝ラジオ体操をやっていたというのであれば尚更だ。
しかし俺の指摘に対してサラはそれでも不思議そうな顔で俺を見ている。
あれ、本当に知らないのか?
「あー……そんなのもあったかもしれません……」
「あ、良かった思い出した?」
「はい」
「じゃあ早速やってみようか」
「はい」
変に生のない声で返事をするサラ。
が、そのまま少し経っても……。
「――バレンタインさん?」
呆然と立ち尽くしたままなのであった。
これはもしかして……もしかしてだが。
気付かれてしまったのかもしれなかった。
俺の、いや俺たち男子の邪な視線に――!
今の今まで敢えて触れなかったがサラの体操服姿はもう、えろい……間違えた。
えらいことになっていた!
信輝の前情報通りに豊かな胸部は体操服により締め付けられ、中の密度はばかにならないように思える。
そしてそんな彼女がジャンプなんてしてみろ。
確実に出血による死人が出るだろう。
だがそれを理解していても見てしまうというのが男の性。
故に何人もの男子生徒たちがこちらをまだかまだかとさながらハイエナのように見ていたのである。
そしておそらくだがそれに彼女は――。
「バレンタインさん、こうやって跳ぶんだけどわかる?」
しかしそれしきで諦める俺ではない。
本当にこの運動を知らないという可能性を考慮して俺は手本を見せてみた。
上下にぴょんぴょんと飛び跳ねて見せる。
だが当のサラはというと、
「わざわざありがとうございます。 でもいいんです! なんだか体調が優れないというか……飛び跳ねるのはちょっと……」
「いや、でもさっきまでの感じを見るに体調悪そうには見えないけど」
「もう本当に体調が悪いんです」
「ほんと? なら保健室に――」
「いえいえ! それ程ではないので!」
「んー、それなら仕方ないか」
よくわからない理屈ではあったがサラは必死になってそれを避けていた。
よっぽどハイエナ共の視線が怖かったに違いない。
俺も鬼ではないので目の前で絶景を拝めなかったことに関しては残念だったが、ひとまず諦めることにした。
いつかは見てみたいものである。
――それからは特に彼女の体操に関して俺は言うこともなかったので俺はその間ただ突っ立っているだけになってしまった。
時折やって来る体育教師と池とペアを組んでいるはずの梓からの視線が痛い。
だが梓からの視線は怒っているような視線ではなくこちらを案じているような、そんな視線だった。
何をそんなに不安に思う必要があるのだろうか。
あまり目を合わせていても不自然なので俺はすぐに視線をサラの方へと切り替える。
「じーっ」
するといつからそうしていたのか俺のペアであるサラは、俺のことを何か訝しむような眼で見ていることに気が付いた。
だが少しすると目を見開き、それから面白いものを見たという顔になる。
そのころころと変わる表情に俺が付いていけずにいるとサラは、
「まあ! 佐藤さんがこんなにもわかりやすい方だったとは! でもそうですよね、梓ちゃんって凄く可愛いですし好きになってしまうのも仕方がないのかもしれません」
「おいちょっと待て」
とんでもない誤解をしているようだった。
「以前から思っていたのです。 あれは私がこの二年三組に転入して来た日でした……」
「え、回想に入るつもりなの?」
「いえいえ! すぐに終わりますのでそう身構えないでください」
「わかった」
サラの話はこうだった。
転校初日の放課後、用事のあったサラは早めに帰宅するためそそくさと教室を後にしたそう。
だがそんな彼女よりも急いで靴箱へと駆ける者が二人。
それが俺と俺を追う梓だったようだ。
おそらくというか確実に居残り明けのあの日のことだろう。
その光景を見たサラは何を思ったかこういう風に日本でも仲の良い友達を作れたらなあ、と考えたらしく、自らの手を合わせて羨ましそうに話している。
あれはただ俺が真剣に命を獲られまいと努めていただっただけなのだが、どうして彼女にはそれが仲の良いお友達に見えたのか甚だ不思議ではあるが。
「つまり最初に言ってたお話してみたかったってのは割とほんとだったんだな」
「割とも何も私は百パーセント本気だったのですが……?」
まずい、危うく捻くれているとか言われるところだった。
今少し話していてもわかったが、この子は本当に裏表がないように感じる。
誰に対してもその華やかな笑顔を絶やすことがないし、おまけに語調も態度も変わらない。
不思議なまでに嫌なところが一つたりともないのだ。
そりゃあ人気を集めるわけだった。
「では次は佐藤さんの番ですね! 私もあまり教えられる立場ではないと自覚していますが出来る限り頑張らせていただこうかと思いますっ」
「いやいや、さっき見てた感じだとほとんど問題なかったしばしばし指導してくれよ。よろしく」
「はい! ――毎日の面倒なラジオ体操にも意味がありました……!」
「ん? 何か言った?」
「いえ、何も!」
「そっか。それじゃあ早速……やるか。いっちに、さーんしー」
サラは正面から準備体操を行う俺の全身をくまなく見ている。
腕の先からつま先の動きまで全てをだ。
別にそれが普通だしむしろサラは俺のためにと頑張ってくれているのだろうから特に何か言うわけにもいかないのだがしかしどうも……。
――美少女に見つめられながら体操するの、恥ずかしすぎる!
だってこんなこと早々ないだろ!
逆に聞きたいのだがこんなスーパー美少女にここまで全身見られることがあるのか普通!?
俺はないですなかったですはい!
だが心の内ではかなり恥ずかしい思いをしているのだとしてもそれを表情に、表に出してしまってはきっと今既に彼女の中で形成されているであろうクールな佐藤さん像が崩れてしまう。
それは大変よろしくない。
よって俺は何か話題をふり、そちらに集中することで心の安寧を保つという手段を取ることにした。
そこで俺は今も一緒にいちにーさんしと楽し気に掛け声をかけてくれているサラに、
「なあバレンタインさん」
「いっちにーさんっ……どうされました?」
「疑問だったんだけど、どうしてまたはるばる日本にやって来たんだ? ほら、親御さんは仕事が忙しいんだろ? まさか一人でこっちに来たとは言わないだろうし」
場繋ぎには丁度よさそうな話題を脳内から抜粋して提示した。
こんなに色々と聞くのは嫌がられてもおかしくはないとも思うが、サラが転入生であることと何より今まで大して絡むことのなかった俺たちが会話を続けるにはこうして何かを尋ねたりするしかなかったのだ。
「はい、一人ではなくて日本には母と二人で来ました。 父にはやっぱり仕事がありますので……」
「そうか、お父さん置いてけぼり食らっちゃったんだ」
「父も私と母の出国の際には号泣していました。 でも実は父とはあっちにいた時に色々ありまして……しばらくは口も聞いてあげてないんです」
「うわぁ……何があったのかは聞かないけどお父さんは少し可哀そうだな。 あっちでバレンタインさんのために稼いでくれてるんだからある程度のことは目を瞑ってあげたら?」
「いいえ、それのせいで私は散々な目にあったんですから! 簡単に許してあげる気はありません!」
「絶対に?」
「絶対にですっ」
「はぁ……」
父親の話をする時のサラは鬼気迫るものがあり、彼女の父が優しげな彼女をここまで怒らせるということは余程のことをしでかしてしまったのだろう。
すみません国境の先にいるサラのお父さん。
娘さんは思いのほか頑固なようで非力な俺には説得できませんでした。
いつか二人がまた良好な関係を築ける日が来ることを心待ちにしております……。
俺は今も家族のためにと懸命に働いているであろう彼女の父に激励の言葉を贈った。
「すみません、話が逸れてしまいました。 それで私がこの日本にやって来た理由ですが……」
「ん? あ、そうだった。 そっちが本題だったな」
「ずばり! 思い出を手に入れに来たんですっ!」
「思い出を……?」
「はい!」
ふんす、と体操をする俺の方に身を乗り出してまで話をしようとするサラ。
それほど聞かれたかった話題なのだろうか。
ふわりと漂ってきた甘い花のような香りに俺は一瞬たじろぐ。
――思い出を手に入れに来た。
確かに話していた中で俺と梓のような仲の良い友人が欲しいと言っていたことや、クラスでもすぐに輪に溶け込んでいたことといい、彼女は校内で精力的に人と触れ合っているような気がする。
思い出というのは人と人と、その繋がりの中に生まれるものだ。
そう考えれば彼女の言う目標は納得のいくものだし、同時に幸先の良いスタートが切れているということは誰の目から見ても明らかだろう。
強いて言うならその目標をどうして日本にまで来て達成しようと考えているのかは定かではなかったが、そこまで踏み込むというのも野暮というものだ。
とにかくこのサラ・バレンタインという心優しい少女は楽しく学校生活を送りたいと考えているのだ。
それだけわかればいい。
だから俺は、
「バレンタインさんならきっと手に入れられるよ。 邪魔にさえならなければ俺も出来る限り協力したい」
「――っ!」
彼女の目標を微量でも応援したいと思った。
まだ少ししか関わっていない俺と彼女だが、彼女は俺にそう思わせるだけの不思議な何かがあるように感じたのだ。
「それでは早速私の目的達成のためにお願いなのですが……」
「いやほんとに早速だな!」
まさかこんなにも早く何かを頼まれるとは流石に思っていなかった俺は思わず笑ってしまっていた。
だが男、佐藤優太に二言はない。
この可愛い少女のために俺はどんなことだって頼まれてやるという気でいた。
ま、まぁ……クラスの女子と話すのを手伝ってとか、校舎裏によくいる怖い人たちとお友達になりたいとか? そういうのはちょっと難しいかなぁって思うけど?
俺はサラの『お願い』というのに少し、というかかなりビビッていたが、それでも今の彼女の表情を見ればそんなことは杞憂なのだろうなとごく自然に思える。
「優太さん、私のことはサラと呼んでください。 バレンタインさんだなんてなんだかお友達じゃないみたいじゃないですか」
サラはよく映えた笑顔でこちらを見つめている。
その笑顔が照れ隠しであるということは、僅かに染まった頬からいとも容易く察することができた。




