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ハリネズミの旅  作者: 木村アヤ
36/42

Social goodness

18禁かもしれない。

インターホンを押すと理恵さんが出てきた。僕が要件を言うと、理恵さんはお礼を言って、そういうことならぜひ泊まっていってほしい、と言った。

「でも三人分の食事はないから、外食でいい?」

僕はちらっと腕時計を見て、沈みきっていない太陽を見た。そして、ここにくるまでに前を通った、大通りに面したスーパーを思い出した。

「なんなら、そこのスーパーで何か買って来てもいいですけど。時間もありますし、料理の方は僕も手伝いますよ」

理恵さんはちょっと考えた。

「それはいいかもね。もちろん私も行くけど。少し待ってね。バッグを持ってくるから」

理恵さんは中に引っ込んで、大きめのバッグを片手にすぐに戻ってきた。

「じゃあ行きましょうか」

僕らはスーパーへ向かう道すがら、これから作る料理について話した。もっとも話していたのはほとんど理恵さんだったけれど。結局パエリアを作ることに決まって、スーパーに着くと理恵さんは材料をポンポン僕の持つ買い物かごの中に放り込んで行った。もちろん、度々僕に意見を求めるのも忘れなかった。僕は別にわざわざ聞いてくれなくてもいいのにな、と思いつつも一つ一つ答えていた。茜音ちゃんにも質問は振られたけど、茜音ちゃんも必要最小限の受け答えしかしなかった。

「茜音ちゃんって、あまり喋らない子なのね」

「そんなことはないと思うわ」

僕はお菓子のコーナーへ行ってたけのこの里をとって自分の籠に入れた。二人のところへ戻ると理恵さんに「たけのこ派なの?」と聞かれた。

「特にたけのこの里が好きだというわけではありません。前回買ったのがきのこの山だったというだけです」

必要そうなものを買って、理恵さんの家に戻る途中でも、茜音ちゃんは自分からは一言も口をきかなかった。理恵さんを警戒しているらしかった。

理恵さんの様子は喫茶店で会って話を聞いた時と全然変わらなかった。あの時、僕が本当に寝ていたと思っているのだろうか。

理恵さんの家に着くと、理恵さんは早速キッチンの前に立ってパエリアを作り始めた。僕も手伝って、茜音ちゃんは、自分のポケットから出したダンス・ダンス・ダンスの続きを読んでいた。その部屋には大量のクッションやぬいぐるみが所狭しとあったけど、茜音ちゃんは一つも使おうとしなかった。

三十分ほどして出来上がると、理恵さんはそれを一階のワンルームの中央にある卓袱台に置いた。茜音ちゃんはそれでも部屋の隅で寝っ転がって読み続けていたので、お皿や箸の準備も終わると僕が呼んだ。

「茜音ちゃん、食べるよ」

茜音ちゃんは少しして(多分キリのいいところまで読んで)、本を閉じてお尻のポケットに入れ、四つん這いでにじり寄ってきた。

理恵さんが、食べる前にはいただきますを言わないとね、と言ったので、僕たちはみんなで手を合わせていただきますをした。僕は歌のお姉さんと、周りの子供達みたいだなと思った。

パエリアはなかなか美味しかった。僕は包丁で切ったり、煮たり炒めたりといった基本的なことしかできないので、味付けは全部理恵さんに任せていた。大量に入っている山椒が、ピリリと後味のいい辛さを提供していた。

「美味しいです」

「ありがとう」

それから僕たちは取り止めのない話をした。

「私、マクドナルドでアルバイトをしたことがあるのよ」

「スマイルひとつください」

理恵さんはにっこりとマクドナルド式の気持ちの良い笑顔を見せてくれた。

「素晴らしい笑顔です。100万ドルの笑顔です」

「無料だけどね」

それで僕らはあはは、とかそんな感じに笑いあった。茜音ちゃんはエビの殻をむいていた。

「それで閉店した後に店内を清掃してると、机の上のど真ん中に村上春樹の風の歌を聴けが置いてあったのね。表向きで」

「誰かが忘れて行ったんですかね」

「それにしてはやけに堂々と置かれていたわ。まるで誰かが故意に、色んな人の目に止まるように置いて行ったみたいな感じだったの。まあ、今思えばってことだけどね。その時はそんなことは全然気がつかなくて、ただの忘れ物として、忘れ物置き場に持っていって、それっきり忘れていたわ。でも私はその時にちらっとこんなことを思ったのよ。村上春樹の作品も置き忘れられることがあるんだって」

しばらく僕らは忘れられた村上春樹の本について考えていた。

「そう言えば私は大学生の頃、人間はみんな腐っていくものだって思ってたのよ」

「そうですか」

「でも違かった。私たちには新陳代謝っていう機能が付いていて、古くなった組織は廃棄されて新しい健全な組織が生み出されるのよ。その時に腐ってしまった部分も本当なら一緒にどこかにいってしまうはずなのよね」

「でも僕は腐ってしまった人も嫌いじゃないですよ。人間のある一側面としては正しい反応じゃないなんじゃないですか?」

理恵さんはマクドナルド的な笑顔を一瞬見せてすぐ消した。

「でも腐ってる本人は自分のこと嫌いだと思うわよ」

食べ終わってしまうと、茜音ちゃんは読書に戻り、僕と理恵さんは手分けして使った食器を洗った。

「別に寛いでもらっていいんだけど」

「そんなわけにはいきませんよ」

「先輩の言うことが聞けないのかしら?」

「聞けませんよ。僕はもう体育会系は卒業したので」

「あら、都合のいい舌ね」

「理論なんて自分の信じるもののためならいくらでもでっち上げられますって」

「え、何を信じてるの?」

「Social goodnessです。この場合は手分けして食器を洗うことですね」

「食器を手分けして洗うことが社会正義にどう繋がるの?」

「まあ、利益の少ない労働は分担すべきである、みたいなところですかね。ちなみに正確に言うならgoodnessは善とか善性っていう意味です」

「どう違うの?正義と善って」

「さあ。でも僕は正義のためには頑張れませんが、善のためには頑張れます」

理恵さんはいきなり水を切った手を僕の頭で拭いた。僕はなすがままにしておいた。

「風邪引くんですけど」

「じゃあお風呂沸かすから入りなさいよ」

僕は貸してもらったドライヤーで、念のために頭を乾かして、シャワーヘッドをバスタブの中に突っ込んでお湯を出し始めた理恵さんを横目にリビング兼ダイニング兼キッチンの八畳一間に戻った。

なんとなく手持ち無沙汰だったので、茜音ちゃんを見習って寝っ転がってみた。すると、理恵さんが戻ってきて言った。

「私はどこに座ればいいのよ。あなたたちちょっと寛ぎすぎじゃないかしら」

そういうと理恵さんは僕の横に寝っ転がった。そして僕のみぞおちの上に右腕を乗せ、太ももの上に右脚をかけた。

「今日は魅力をonにしないんですか?」

「あれはエネルギーを使うのよ。それとも今のままじゃ魅力的じゃない?」

「いえ、魅力的です。十分」

どれくらい魅力的なのかは彼女の太腿が感じているはずだった。

彼女は手のひらを僕の首にあてた。

「ねえ、このまま絞め殺していい?」

「それはsocial goodnessに反するのでダメです」

理恵さんは軽く笑った。

「あら、どう反するのかしら?」

「つまり、僕が死ぬよりは生きた方がsocial goodnessの総量が増えると思われるのでダメです」

「あなたは自分なんか死んだ方がマシだという風には考えないのね?」

「そうですね。正確にはそれは一つの意見として受け入れます。でも色々な側面から考えた時に、僕に関しては、それが当てはまるとは思えません」

「どうして?」

「僕は仕事をちゃんとこなすし、他人に害を与えることも、それはたまにはあるかもしれませんけど、基本的にはありません。もう何年かすれば家族を持てると思いますし、僕が今のような僕である限り、その家族を養っていくこともできると思っています。客観的に言って、僕は生きる価値のある人間です」

理恵さんは服の上から僕の乳首をいじった。

「今しているのは客観的な話じゃないわ。主観的な話よ。あなたには主観がないの?」

僕は理恵さんの肩に手を回したくなるのを我慢しながら言った。

「ありますよ。ただしそれは常に一つのところにとどまっています。それは、《物事を客観的に見ろ、そして客観的に行動しろ》というものです。そうしておけば、大きな間違いは犯さないと思っています」

「それで今あなたは」理恵さんは僕の乳首を、クリクリクリクリクリクリといじりながら聞いた。

「この状況で、客観的に、どう行動すればいいと思ってるの?」

「今僕がやっているこの行動ですよ。つまり、両手を頭の後ろで組んで、ただ耐えることです」

ザッと理恵さんの右脚が僕のおへその辺りまで上がった。そして理恵さんは僕の乳首をいじるのをやめた。

「あなたはほんとにビッグボーイね」

そう言うと理恵さんは立ち上がって、ユニットバスの中に入って行った。シャワーの音が止んで、もう入れるわよ、という声が聞こえてきた。

僕は中に入って服を脱いでトイレの蓋の上に置き、カーテンを閉めた。

シャワーを浴びながら僕はまだ堅さの名残があるおちんちんを見下ろした。僕の手以外の人の肌にはまだ触れたことがない。

実際のところあまりやらない方がいいのはわかっているし、最近は仕事が忙しいのがいいのかめっきりやらない。

僕は身体を洗おうとしてタオルがないことに気がついた。身体を洗うときは使わなくてもいいにしても、出る時には出来れば使いたい。しかしお風呂を勧めておいてタオルを貸してくれないほど、理恵さんは鬼ではあるまい。

だが、実際には鬼だった。僕が出ようとする時に、タオルを貸してくださいと頼んだ時の理恵さんの応答はこうだった。

「じゃあ二階のタンスの中に入ってるから、自分で取ってきてー。今動きたくないからー」

僕は少し考えてから茜音ちゃんに助けを求めることにした。

「茜音ちゃーん」

返事はなかった。他人の家では借りてきた猫のようになる性格らしかった。

「仕方ないな」

僕は軽く身体の水を手で払ってから、濃紺のボクサーパンツを履いた。我ながら変態だとは思うが、これで突撃するしかないのか?

「冗談よ。便器の横にプラスチックの容器があるじゃない。その中に入ってるわ」

僕はピンク色の四角い箱を開けた。中には折りたたまれたタオルが入っていた。

「下の方にバスタオルが入ってるわー」

でも上の方の身体を洗うためのタオルでも十分用は済ませられそうだったので、一番上のものを借りた。

外に出ると理恵さんがタオルを受け取って洗濯機の中に放り込んだ。

「ねえ、お酒飲もうよ」

「茜音ちゃんがいるんですよ?」

「茜音ちゃん、私達、お酒飲んでもいい?」

茜音ちゃんは何百年もイースター島の歴史を眺めながら立ち続けたモアイ像のように何も言わない。

「何も言わないってことは、好きにしていいっていうことじゃないかしら」

僕は内心気が進まなかったが、理恵さんの家だし、あまり強く反対できなかった。

「茜音ちゃん、いい?」

「勝手にすればいいじゃない」

「そういうわけにはいかないさ」

「じゃあ、飲んでもいいと思うわ。でも、その代わり、田中さん、私は二階にいていいかしら?」

「いいわよ。ごめんね」

「別に謝らなくてもいい。健康を損ねるのはそっちだし、むしろ私が止めなくてごめんなさい」

そう言い残すと茜音ちゃんは階段を駆け上がっていった。茜音ちゃんが行ってしまうと理恵さんは微笑んだ。

「彼女は彼女なりの信念に基づいて行動してるんでしょうね。そして私は私の信念に基づいて行動するわ」

理恵さんは冷蔵庫からよく冷えてそうなビールを取り出した。偶然にも、僕の好きな銘柄だった。

「あら、普段もビール飲むの? 意外ね」

「まあ、付き合いと、あとたまに家でも飲みますね。そんなに頻繁にではありませんけど」

「おつまみは枝豆しかないんだけどいい?」

「なんでもいいですよ」

「じゃあ、私をどうぞ」

「遠慮なく」

「冗談よ」

「知ってますよ。すいません、お返しといってはなんですが僕のこともおつまみとして食べてくれて構いませんよ」

「考えておくわ。ビッグボーイ君」

「どこら辺がビッグなんですか?」

「あら、ビッグなの?」

「たぶん」

「へー、それは興味あるわね」

「触ってみます?」

「まあ、とりあえず飲みましょう。そっちの方はなかなかイケるみたいだけどビールはどうかしら?」

「あんまり沢山飲んだことはないんでわかりませんね」

「あら、また真面目な返事に戻ってる。早く飲みなさい。それじゃあ面白くもなんともないわ」

それで僕は飲んだ。理恵さんも飲んだ。お互い酔っ払って、理恵さんが肩を寄せてきたので僕はそれを抱いた。今度はsocial goodnessのことなんか少しも頭になかった。それからたわいの無いお喋りをして、話が途切れた時に理恵さんが顔を上げたので、僕はその唇にキスをした。理恵さんも目を瞑ってそれを受け入れた。年上の女性にキスをすることは、どこか恐れ多くもあったけど、同時に何かほっとするような安心感があった。









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