正義の味方の敵が、常に正義の敵だとは限らない
「大丈夫?」
「うん。今から警察の人たちが、あの男の子が入っていったマンションで聞き込みを始めるみたい。そっちは今どこにいる?」
「今はさっきの定食屋の近くの喫茶店にいるよ。ずっと電話してたんだけど、通話中だったからとりあえず喫茶店に入って待とうかっていう話になったの」
僕はスマートフォンを右手から左手に持ち替えた。
「それは良かった。今、実はパトカーに乗っててさ」
「私以外の女の子に頬ずりしたの?」
「違うよ。だいぶ遠くまで来たから送ってもらってるんだよ」
「よかった。でも私以外の女の子にはやっちゃダメだよ。私は仲良いから許せるけど、他の人にやったら犯罪だからね」
僕は小さな声で言った。
「実際のところ二十歳未満の女の子一人たぶらかすなんて、分別のある成人男子にはできて当然らしいけどね」
「何か言った?」
「いや、何も。虚言しか言ってないから気にしなくていいよ。それより何を飲んでるの?」
「あ、ごめんなさい。電話であまり長く話すなってお母さんから言われてるの。じゃあ〇〇〇〇で待ってるから、早く来てね」
そう言って茜音ちゃんは電話を切った。お母さんの言いつけを、こういう状態になった後でも守っているのか。茜音ちゃんらしいといえば、らしかった。
「じゃあセンター街の端っこの方で降ろしてもらえればいいので。よろしくお願いします」
僕がそう運転している警察官に言うと「もうすぐ着きますよ」と返ってきた。
その警察官は三十代後半くらいに見える男性で、恰幅が良く、でも何故だか表情は暗かった。
パトカーはほとんど揺れなかった。いい車だなと思った。ブラインドが上がっていたから暗い車内の僕の顔は外からはほとんど見えないはずだ。会社で何か言われるかもと心配していたけど、少し安心した。車に乗っている人の顔を覗き込もうとする変わった人は少なくとも僕の会社にはそんなにいないと思うけど。
センター街の端に着いた。あまり人通りがないところだ。
「ここでいいです」
と僕が言うと、外に出て扉を開けてくれた。
「お疲れ様でした。ご協力、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
と僕が言ってその場を立ち去ろうとすると、後ろから呼び止められた。
「あの、すいません」
「なんでしょう?」
「あなたはとても正義感溢れる人です。あの状況で、とっさに追いかけるという判断をできるなんて、並みの精神じゃありません」
「ありがとうございます」
「そこで少し教えて欲しいんです。なんであなたはとっさにそのような判断を下せたんですか?」
僕はいきなりの質問に面食らったけれど、警官の顔は真剣だった。小説チックな話だけど、もしかしたらそのとっさの判断ができず、犯人を取り逃がしたことがあったのかもしれない。それでその時のことを後悔したまま、感情の迷路にはまり込んでいるとか。
「そうですね。でもはっきり言ってたまたまだと思いますよ。いくら正義を愛している人間でも、人間である以上、正義に反することもしますよね。それでも人間は習慣の動物と言われているくらいですから、習慣的に正義に則った行動をすることもありますけど。百パーセント、正義に則した行動ができるとは限りませんが、九十パーセントくらいはできるかもしれないよね。あるいは六十パーセントかもしれない。僕もおそらくそのようなものですし、大体の人はそうなのではないでしょうか。しかしその九十ないし六十パーセントの内訳は人によって違います。今回のことは、ただあの状況で追いかけるというのは僕の実行可能な六十パーセントの正義に含まれていた、というだけのことです。他の状況では追いかけないかもしれないし、普段そこまで正義に則した選択をしているかというと、それなりにできていない部分があります。なので、えっと、質問に答えると、僕がとっさにそういう選択ができたのは、僕の中にたまたまそういう精神が存在していて、それを妨げるものが特になかったから、となるのではないでしょうか」
「なら、たまたまそういう精神性を持っていなかった人間はどうすればいいんでしょう?」
「さあ、そちらの事情は知りませんが、僕だったら諦めますね。悩んでも仕方のないことだと割り切って」
しまった、と思った。言い方が冷淡になってしまった。警察官は初めて顔を上げて僕と目を合わせた。
「あなたは悩みなどなさそうですね」
「そんなことはないですよ」
僕は少し気まずくなってしまった空気をどうにかするための言葉を探した。だけどそれは確かにそこにあるのに、ほとんど見えないものとして僕の前を漂っているだけで、その姿を現してくれなかった。「み、水がほしいぃ」「水ならあるよっ。ただし水蒸気っ!」みたいな感じだった。
警察官は黙ってしまった。
「やはり、オズの魔法使いにでも頼むしかないのかな。正義をくださいって」
僕は警官が場を和ますようなことを言ってくれたのに内心で感謝しつつ、連想で一つのことを思いついた。
「そうかもしれませんね。あ、待ってください。本を読めばいいんじゃないですか? 特に正義感溢れる人を主人公にした小説とか、あるいはそういった人の伝記なんかがいいと、僕は思いますよ」
警察官は腕を組んだ。
「なるほど、それは確かにいいかもしれない」
そして警官はそのまま黙り込んで何事かを考え始めてしまった。その警官を眺めながら、僕はこう思った。「でもそういう本にはあまり書いていない、大切なことがあるんだよな。正義の味方の敵が、常に正義の敵だとは限らない」
僕の後ろを若い男の子達が話しながら通って行った。それで、なぜだかよくわからないけれど、僕は茜音ちゃんのことを思い出した。
「すいません、人が待っているので、これで失礼します。あの男の子が放火した犯人だったら、捕まるといいですね。そして更生してくれることを、僕としては祈っています。では」
そう言ってお辞儀をすると、警官はすぐに丁寧にお礼を言ってくれた。
「あ、はい。お引止めして申し訳ありません。個人的な相談にも乗っていただき、ありがとうございました」




