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ハリネズミの旅  作者: 木村アヤ
19/42

そして大地が割れ

軍田の後ろのおじいさんが立ち上がって、そのまま店を出て行った。

「昨日はたしか、僕の大道芸の能力がどこまで落ちているかを確認するために、ジャグリングとかをやってみたところまで話したよね。

一通り、単純な芸はやってみて、うまくいった。それから一輪車に乗ったままジャグリングができるか試してみた。

できなかった。上半身と下半身がまるで二つの別々のパーツでできているようだった。二つの部分はお互いに連絡を取り合うことなく、別々のことをしようとしていた。落ちてきたクラブをキャッチできず、クラブは続けざまに地面に転がった。

しかし僕の体は、クラブを落としてもなお、一輪車の上でバランスを取っていた。これなら大丈夫。練習すればできるようになるはずだ。

僕はまず、五本のクラブを三本に減らした。それから心配になって、もう一本減らした。二本。最低の数だ。

僕は一輪車に飛び乗って、走りながらもう一度ジャグリングをしてみた。

クラブを投げあげようとして、この時初めて、失敗したらどうしよう、という疑念が浮かんだ。もしもこんなこともできなかったら、とても低レベルな大道芸人としてしか復帰できなかったとしたら。

大道芸の技はほとんど僕の人生と等価だった。多分このことは他のことにも言える。競泳選手の水のかき方、陶芸家のろくろの回し方、バスケットボール選手の相手をかわす技術。どれもその人の人生を消費して、違う言い方をするなら時間という対価を払って、手に入れたものだ。時は金なりとはよくいったものだと思うよ。

でも僕の心配をよそに手はきちんと動いてくれた。できたことを確認するとすぐにやめて、今度は三本でやってみる。これも問題ない。

次は四本だ。だんだん失敗した五本に近づいていく。クラブはテンポよく宙を舞った。4本まではできた。

5本目はやはりできなかった。クラブはバラバラと地面に落ちた。でも、僕はそれからその日いっぱい練習して、とりあえずできるようになった。一応元々は8本でもできていたんだし、頭の中にできるようになるまでのロードマップみたいなものはぼんやりとあった。

他の技も

 僕のスマートフォンが鳴った。電話は理恵さんからだった。軍田に断ってから通話ボタンを押すと、理恵さんの焦った声が聞こえた。

「茜音ちゃんがまたいなくなったんです」

 僕が家を出た後、一眠りしている間に茜音ちゃんは姿を消したそうだ。

 電話を切った後、僕は昨日貰った王さんの名刺に書かれていた電話番号に電話してみた。3コール目で王さんは電話に出た。

「茜音ちゃんがまたいなくなったんです。心当たりはありませんか」

「ちょっとわからないな」

 本当にわからないようだった。僕はお礼を言って電話を切った。

「またいなくなったのか」

「ああ。でも僕にできることはもうほとんどなさそうだ」

「お前は理恵さんとやらと寝たんだな」

「そうだけど、それがどうした」

「いや、別に。別にお前がどこの誰と寝ようが俺は気にしない。ただ時間の流れを感じるだけだ。流れというか、俺の知っているお前が今のお前になるまでの時間の空白だな」

「そんなものはいつだって感じているはずだ。近しい人でも、今日のその人と明日のその人は全然違う。僕の知らない時間の空白があって、その人はそこで何かしら変化しているんだ」

「確かにそうかもしれない。それはそうと、お前、理恵さんの所に行って詳しい話を聞かなくていいのか? 理恵さんの家にはまだ何かしらの手がかりがあるかもしれないぞ」

 その時、僕のスマートフォンが再び鳴った。僕は軍田に目をやって、電話に出た。

「こんにちは。私の声を覚えてる?」

 勿論忘れるはずがなかった。ある意味では理恵さんよりも印象的な声だったのだ。痩せていて、背の高い女の子の声だった。

「茜音ちゃん? どうして僕の電話に?」

「昨日あなたが理恵さんと一緒のベッドで寝ている間に、リビングに置きっぱなしになってたカバンから名刺を一枚拝借したの。許してね」

「誰もそんなことは気にしないさ。名刺っていうのは無くなれば無くなるほどいい物なんだから。それで、今どこにいるんだい?」

「私を無理に連れ戻そうとしないなら、教えてもいいわよ」

「どうしてまた?」

「今私は色んなことがあって混乱しているの。それを整理する時間が必要なのよ。それで、誰かに話した方が物事がはっきり見えてくるかもしれないと思って、電話したの。私に協力してくれない? 私の周りでまともに話が出来そうなのって(僕の名前)さんだけなのよ」

「なるほど、つまり他の人に僕は君がいるところを言わない方がいいんだね?」

「そう」

「そして君は僕に話を聞いてもらいたがっている」

「まあ、相談ってところかな」

「訂正するよ。相談したがっている。でも、僕以外にも、適当な人はいるんじゃないかな。お母さんとか」

「あなたまでそんなくだらないこと言うのやめてよ。だいたい、そのお母さんが原因なのよ。私が色々と収拾がつかなくなって家出をしているのは、その人のせいなんだから」

 僕はちょっと面食らった。

「それは、どういうことなんだろう?」

「いいから、今から私が言うところに来て。誰も聞いていないわよね?」

 僕はスマートフォンに向かって頷いた。そして慌ててうん、と言った。むこう側の電話の前で茜音ちゃんがため息をついた気がした。

 茜音ちゃんが言った場所は渋谷ハチ公前広場だった。

「なんでまたそんなところで?」

「いいじゃない、別に。今ちょうど近くにいるの。それであなたは? ……吉祥寺からなら三十分で来れるわね。わかったわ。今ちょうどユーチューバーが何か面白いこと始めたから、それ見ながら待ってる。早く来てね。着いたら電話して」

 それだけ言うと茜音ちゃんは電話を切った。

 軍田はにやにやと笑っていた。店の音楽はいつのまにかシリアスなものから面白みのあるものに変わっていた。道化師の朝をアレンジしたものだ。多分。実は僕も少し事の成り行きに面白みを感じていたりもしていた。なので、軍田に向かって唇の端を釣り上げて見せた。次は何が起こるのだろう? いざこざがあってもはたから見ている分には楽しかったりもする。

「茜音ちゃんからか。今から行くのか?」

 僕の言葉から会話の内容を推察していたようだった。僕は茜音ちゃんが言ったことを説明した後、来るように言われた場所だけは言わずに、「僕は行った方がいいと思う」と軍田を見た。

「もちろんだ。今すぐに出よう。俺の話なんかどうでもいいさ。女の子の家出に比べれば、月とスッポンだ」

「そんなことはないさ。せいぜい金太郎と桃太郎ぐらいのもんだろう」

「それはどっちがどっちなんだ?」

軍田は笑って、カウンターまで行き、クレジットカードでお金を支払った。伝票はカウンターの内側がどこかにあるらしかった。

 ホテルを出ると並んで待っていたタクシーに乗り、吉祥寺駅まで行った。タクシーに乗り込む時に見えた駐車場には高級車ばかりが並んでいて、ここにある車だけで全高級車のカタログが作れそうだった。その中で場違いのようにホンダのミニバンが止まっていた。それは「僕にだってここに停まる権利はある」と全身で(全パーツで?)主張していた。確かにその通りだったけど、甲子園球児の中に一人だけリトルリーグの選手が混ざっているような違和感があるにはあった。

吉祥寺駅に着く前に軍田がこのまま茜音ちゃんが待っているところまで送ってやろうかと聞いてきたけど、断った。約束を破ってまた姿をくらまされてははかなわない。

別れ際に軍田は

「もう直接話す機会はしばらくないだろうから、最後に一つだけ伝えたいことがある。僕は一旦大道芸から離れて一年後に再スタートを切るまでは、確かに両親の操り人形だった。でも僕はいくつもの技術的困難を自分の意思で反復練習をすることによって乗り越えてきた。そして、僕は技術的側面からいえば、以前と同じ水準まで自分を引き上げ、それからさらに発展することができた。そして、僕が以前と同程度の水準まで回復したと悟った時、僕は一つの事実を認めた。それは、人の内面というのは、辿ってきた道筋によって規定されるのだ、ということだった。その時の僕は、技術的には以前と同等だったけれど、内面においてはパンダとレッサーパンダくらい違っていた。僕にはこれから僕はもっと成長して行くのだという確信のようなものがあった。そしてそれは僕の断固たる決定で、僕の人生における選択だった。そしてその時僕は、自分が大人になったことを感じた。僕はもう大きく変わることはないだろう、と。僕の人生の方向性はその時定まったんだ。

あるインタビュアーに同じ話をして「しかしそれは、人生の方向性は子供の頃からあらかじめ定まっていて、一年間の休憩は、単にそれから逸れただけとは考えられないでしょうか」と質問されたことがある。僕はこう言った。違う。この人生を歩んでいるのは僕の選択の結果だ。子供の頃に得ていた技術を有効活用することを僕は選択したんだ。他のことと比べてやっていて楽しい大道芸を再開し、続けること僕は自分の意思で選択したんだ。僕には大道芸をやめるという選択肢もあったし、それでいてもそこそこな人生は送れていたと思う。そういう方向性もあったし、他に例えばウォールクライミングとか、他のことを始めるという方向性もあった。料理を習い始めるという選択肢もあったし、アルバイトをして、うまくいけば彼女を作ってディズニーランドに遊びに行くという選択肢もあった」

「ごめん」

僕は遮った。仕方がない。こういう態度が必要な人なのだ、軍田長は。すでに十分以上が経っていた。軍田は我に返ったように、

「すまん、気がつかなかった。じゃあまたな。色々とうまくいくことを願ってるよ」

「お前もな」

僕はやってきた快速に乗り込んで、新宿で埼京線に乗り換えた。渋谷に着くと改札を出てハチ公広場に出た。

茜音ちゃんはハチ公像の裏で他の人たちと一緒に座ってスマートフォンの画面を見ていた。

「ごめん。おまたせ」

茜音ちゃんは僕の顔を見上げてからスマートフォンの画面を親指で急いでタッチした。

「遅かったね」

「ごめん。ゴジラとガメラがタップダンスしてたから、つい眺めちゃったんだ」

茜音ちゃんは僕の顔にゴミでも付いているように、目を細めた。

「ねえ、本当にそんなことがあったら、今頃渋谷は地震で大変なことになっていると思うんだけど」

「そして大地が割れ、みみずくんが目を覚ます」

茜音ちゃんは鼻から息を吐いた。

「あなたは素直に謝れない人なのね」

「ごめん。確かに悪かった。軍田が別れ際にえらく長く話したから遅れちゃったんだ」

「軍田って?」

「大道芸家。何日か前、君が公園で会って話した前髪が黄色い男の人」

「ああ、あの車の鍵を拾ってあげた人ね。ふーん。世間は狭いわね」

「それより、君の言っていた問題っていうのはどういうものなんだろう?」

「待って。場所を変えて話しましょうよ。人目を引いてるわ」

確かにさっきから半円を描くように座っている人たちがスマートフォンから目をあげてチラチラ僕らを見ていた。

「でも、どこに行くんだい?」

「あなたが決めてよ。いい年した大人なんだから、話ができて他の人に聞かれないお店を渋谷に一つくらい知ってるでしょう」

「マクドナルド」

「話ができるなら、どこでもいいわよ。じゃあ行きましょう」

「ただし問題は周りに聞き耳を立てている人もいるから、あまり大きな声で話せない」

「それじゃあ、ここで話したって同じじゃない。第一私は自然と声が大きくなる時に我慢するなんてことできないわ。大きな声を出しても大丈夫なところがいい」

 僕は少し悩んだ。大きな声を出しても大丈夫なところと言えば、音楽がガンガンにかかっているジャズ喫茶くらいしか思いつかない。いや、飲食店でなくてもいいのか。

「カラオケボックスはどうかな。防音は結構しっかりしてる」

「そこでいい」

僕らは渋谷の交差点を渡り、線路が走っている陸橋の下をくぐって、線路沿いのアスファルトむき出しの道に入った。看板が見えているので、その小さなビルに入る。一階は居酒屋で、階段で二階に着くとキンコーンとチャイムが鳴った。


 

 


 





 




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