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ハリネズミの旅  作者: 木村アヤ
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いつも本をポケットに入れてるの?

「じゃあよろしく頼むよ」

「はい。ところで、僕は田中さんの家を知らないのですが」

「大丈夫だ。今車を呼んだ。運転手が知っている」

茜音ちゃんはじっと王さんの手を握ったまま立っている。確かに二人を並べてみていると、顔貌に共通する点がある。奥さんを見ていなければ、娘だと言われても信じていただろう。でも雰囲気はほとんど対極といってもいい。かたや俗世的な活力にあふれ、かたや神秘的なたたずまいをしている。

「じゃあ、この人が理恵さんのところまで送ってくれるから」

 王さんが茜音ちゃんの手を離して背中を軽く押すと、茜音ちゃんは僕の足元までやってきた。どちらかといえば背の高い女の子だった。頭が僕の胸の真ん中くらいにある。

 王さんと別れてマンションを出ると、狭い道いっぱいに理恵さんから聞いていた黒いベンツがとまっていた。ハイ・クラスな乗用車。運転手は六十歳くらいの初老の男性だった。白髪を角刈りのような形に整え、前髪だけを鋭く切り立った崖のように斜めに上げている。けれども顔全体の印象はとても柔和だ。「孫がかわいいんです」とそのうち言い出しそうな感じだった。白崖さん、と僕はあだ名をつけることにした。その白崖さんが後ろのドアを開けてくれたので、先に茜音ちゃんに入ってもらい、僕も後からそれほど柔らかくなく、硬くもない黒い皮のシートに腰を下ろした。座っていて全く不快感はないけれど、ずっと座っていたいと思わせるものではない。ずっと座っているな、つまり怠けるなというメッセージを発信し続けている。そうすれば、この車にずっと乗っていられるぞ。

茜音ちゃんはジーンズのお尻のポケットから文庫本を取り出した。表紙をちらっと見ただけで、僕にはその本がなんだかわかった。村上春樹のダンス・ダンス・ダンスの上巻だ。青っぽい部屋で三十歳くらいに見える男性が、不自然に伸びて壁に映った、女性の形をした自分の影とダンスをしている。僕は少し嬉しくなった。僕も村上春樹のファンだからだ。でも僕はそれについて、茜音ちゃんに何も言わなかった。村上春樹は「わー、君も村上春樹読んでるの? 僕もだよ!」などと言うような作家ではないのだ。

それに、文庫本はポケットに入るのだから、わざわざリュックサックの中に入れる必要なんかない。僕も本の虫だったので、高校生の時文庫本をポケットに入れておけば、好きな時に読めるというアイデアには思い至っていた。でも、実行する勇気がなかった。ところが目の前の女の子はなんでもないようにポケットから引き出した小説を読んでいる。僕は茜音ちゃんをちょっと尊敬した。

すると僕が見ているのに気がついたのか、茜音ちゃんは本から顔を上げて聞いた。

「何?」

「何でもない。ちょっと見とれていた。いつもポケットに本を入れているの?」

茜音ちゃんは本を開いたまま裏返して表紙を見た。そしてまた元に戻した。

「いつもじゃない。学校では大体鞄の中にしまってる。それか机の中。椅子が硬いと座る時に気持ち悪いから。でも確かにプライベートの時は大体ポケットに入れてる」

「そしてお風呂に入る時も、もちろん持っていって、濡れないように読む」

茜音ちゃんはちょっと驚いた目で見た。

「よくわかったね」

僕はよくわかる、僕もそうしてたからといううなづき方をした。

「その本は家から持ってきたの?」

茜音ちゃんは少しためらってから「ううん」と首を振った。長い髪の毛が乱れない程度に。

「アガットさんがくれた。王さんの奥さん。彼女は多分村上春樹の小説を全部持ってた。本棚を見せてくれた。翻訳とか、インタビューとかまではわからないけど」

「それで君はその本をもらったの?」

「そう。なんでも好きなものを読んでいいって言われたから、これにした。さっきアガットさんに電話がかかってきて、その時まだ読んでたから、これからお迎えが来るけど、その本は持って行っていいよ、って言われたから貰ってきた。代わりに読み終わったヴェニスの商人を置いてきた」

「演劇も読むの?」

「物語なら特に好き嫌いはない」

前の席の間から前の車が見えていた。ナンバープレートが黄色くて、本体が白いホンダの軽自動車だった。大きな交差点を左に曲がった。遠心力で体が倒れそうになるのを耐える。白い軽自動車はまだ目の前にあった。白崖さんはきっと前を向いたまま、ハンドルを細かく調節している。

「なんで、王さんの部屋にいたいと思ったの?」

「わかんない」

二人に沈黙が降りた。流石の車で、外の音はほとんど聞こえない。でも何の音なのかわからない、重くて低い音がずっと聞こえていた。聞こえるか聞こえないかの境目で控えめに響いている。

少し待っていたが、茜音ちゃんはそれ以上話す気がなさそうだった。僕は諦めて窓の外を見た。梅の木が並んでいた。街灯のおかげで紅色の蕾がついているのがわかる。葉っぱは一枚もない。その向こうはどうやら原野になっているらしかった。さらにその奥には黒い山影がのっそりと立っている。走ってきた方を見ると、一台の軽トラックが原野の間の細い道を歩くような速さで山の方へ向かっていた。


 

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