人の匂いがするところに住むのが好きなんです
「事情はよくわかりました。それで僕は何をしたらいいんでしょう」
「この近くに私の住んでいるマンションがあります。できればそこまで引き取りに来てもらいたい」
「僕が行くんですか? 田中さんではなく?」
「私としては今日中にケリをつけたいのです。妻には知り合いの子供を預かったと言ってありますが、もちろん不審に思っています。僕としてはあまりその状況を長引かせたくない。家庭環境が壊れてしまいますから。こういったことはまだ初めてなんですよ。だから早く終わらせたいんです」
「しかし僕が預かってその後どうするんでしょうか。まさか僕の部屋に置いておけとでも?」
「いや、車は出しますから、一緒に田中さんのお宅まで行ってもらいたい。そこで簡単に事情を話してもらえればさらにいい。その際もう私が彼女をつけていた理由も話してもらって結構です。もちろんお礼はします。十万円でどうでしょう? 一夜のアルバイトとしては破格だと思いますが」
僕は彼の申し出について考えてみた。何か倫理的に破綻しているところはないか? 一つだけあった。
「ひとつだけ。条件があります」
「聞きましょう」
「僕が茜音ちゃんを返した後、直接彼女に謝ってください。一言でもいいです。それからもう絶対に彼女をストーキングするのはやめてください」
王さんは少し黙っていた。自分にとって損をしない条件か、考えているのだろう。
「いいでしょう。約束します。後で直接謝る。二度と跡をつけない。わかりました。必ずそうします」
店内は薄暗い。店員はキビキビとお客の間を回り、注文を取ったり、できた品を運んだりしている。王さんは残りのお茶をずいっと全部飲んだ。
「では行きましょう。すぐそこです。車を呼ぶ必要もありません。でもその前にちょっとだけ電話をさせてください。一応妻に迎えが来ることを伝えておきます」
王さんの住んでいるマンションは飲食街から一車線の道を一本挟んだ、二本目の道の片側にあった。どちらかといえば古い白塗りのコンクリートマンションだった。七階建てで、一階につき五戸くらいだ。ベランダは非常時には割ることのできる壁で仕切られている。ところが、七階のベランダには仕切りの壁が付いていなかった。
「七階のベランダを見てください。壁がないでしょう。七階が丸々、私の部屋です。それぞれの部屋の壁を抜いて、全部繋げてあります。まあ、本当はこんな裏道に面したマンションなんかに住む必要はないのですが、そこは僕の趣味で、こういった少し人の匂いがするところに住むのが好きなんです」




