水鳥ではなかった
ヒナが育ってきて、狭い池では子育てが難しくなった母親ガモが、子ガモを連れて、湖へ引っ越しをすることになった。
母ガモは池の岸に上がると、池を振り返って叫んだ。
「ハイ、みんな急いで、急いで。ぐずぐずしていると、すぐ日が暮れてしまうよ」
朝日が昇ったばかりで、すぐ日が暮れるはずはなかったが、母親は子どもを急かせてそう言った。
「ママあれは夕日?」
早々と岸に上がった一羽の子ガモが、朝日を見て言った。
「いいえ、あれは朝日です。でも、暢気にしていたら、すぐ夕日になって落ちてしまうのよ」
母親はそう言って、四番目の子ガモが岸に這い上がるのを見ていた。まだ六羽が池の中だった。一羽などは水をあけられて、間に亀が浮かんでいた。
全員岸に上がると、母ガモは広場を横切り、野道に入るまでの注意を与えた。母ガモはまとめて一度に渡らせたかったが、子ガモには順序ができていて、どうしても前のものについて行きたがった。そのために時間が長くかかってしまうのだ。広場には車も通るし、野良猫や野良犬も目を光らせているのである。なかには子ガモが可愛くて寄って来ている猫がいても、子ガモの肉が食べたくて来ているのか、じゃれて遊びたいのか、そのあたりの見極めは難しくて、簡単にできるものではない。だから母ガモはどんな動物にも、きつく向かってしまうことになる。
子ガモがみんな広場を渡り切って野道に入ったので、母ガモはひとまず安心して、歩みを一番遅いヒナに合わせて遅くした。野道にはたまに、蛇が寝そべっていることがあるので、その注意も与えなければならなかった。
「木とか草とか、上に向かって伸びているもの以外は、長いものには触ってはいけません。蛇が日向ぼっこをしていることがありますからね」
こう注意した矢先だった。
「ママ、丸くなっていたものが、体半分が上に向かって立ち上がったよ!」
列の仲程を進んでいた子ガモが、素っ頓狂な声を発した。とぐろを巻いていた蛇が、鎌首をもたげたのだと察して、母ガモは身を固めて、とっさにそちらへ向かって駆けだした。蛇は母カモの突進に恐れをなして、持ち上げていた半身を繁みの奥へ投げて、滑り込んで行った。
蛇の注意をした矢先、まったく油断も隙もないわ。母ガモはプリプリして、また先頭になって歩き出した。長いものの注意をしながら、自分たちが長い列になっていることに気づいて、急がなければいけないと身をもんだ。湖まではまだ半分の道のりを残している。
列の最後を気にしながら、せかせか足を運んでいると、道端に蹲ってピエピエ鳴いているヒナドリに歩みを止めた。まだ孵ったばかりのヒナドリだが、カモの子ではない。親が死んでしまったか、一羽だけ迷子になったのだろう。さっきの蛇に見つけられなくてよかった。母ガモはホッとすると同時に,このまま放ってはおけなくなった。
母ガモはヒナに身を寄せると、これ以上低くはならないところまで、体を低くした。卵を抱いて温めているときの格好だった。
「歩いてついてくることができないんなら、私の背中に乗りな」
母ガモは体を揺すって、ヒナドリを促した。母ガモの思いは種類の違う鳥のヒナにも通じて、ヒナは嘴と足を苦心して使って、母ガモの背に這い上がった。
「ママどうしちゃったのよ。こんなとこに止まってしまって」
一番後ろを歩いていたヒナドリが到着して、そう言った。
「見れば分るでしょう」
列の二番目か三番目を歩いていたヒナドリが言った。今はぜんぶのヒナドリが追いついて、母ガモの傍にまとまっていた。
「出発するよ、これからは十羽じゃないよ、十一羽だよ」
母ガモが立ち上がって子どもたちに言い聞かせた。
「三郎よかったね、あんたの後ろができて」
一番先に孵った姉さんカモが言った。
「三郎も大変だ。これからは一番最後に負けないように、頑張らなければいけないから」
二番目に卵から孵った兄さんガモが言った。
「おいらは最後でいいよ。最後は前のものを慰めるためにいるようなものだからなあ」
と三郎が言った。
「三郎ったら、あんなこと言って、今から予防線張ってるわ」
何番目かの姉さんガモが言った。
背中に幼いヒナドリを乗せて、母ガモの歩みが極端に遅くなったので、カモの列は間が詰まってまとまって歩いた。
「湖の水は冷たく澄んでいて、それはそれは美味しいよ」
母ガモはひもじさをこらえて歩く子どもたちを励まそうとして、そう声をかけた。
「ピヤ、ピや」
背中では、ヒナドリがわけの分からない声を発しつづけていた。
そしてついに、一行は第二の故郷となる湖に到着したのである。
湖の水は母ガモが言ったように、冷たく澄んでいた。湖を輝かせているのは、日が暮れると心配していた夕日ではなく、真昼の白い光だった。その白い光のなかで、数人の子供たちが水浴びをしていた。子供の中には女の子も混じっていた。
女の子の一人が、母ガモの背にいるヒナドリを見て、首を傾げた。それから女の子は、そのヒナドリから眼を放さなかった。子ガモたちが先に湖に入った。最後に背中にヒナドリを乗せた母ガモが入った。
子ガモたちは、湖面に嘴を突き入れて水を飲んだ。十羽のヒナが、一羽残さず水を飲んだ。なかには遊びたいらしく、湖面を水澄しのように巡りながら、水を飲む子ガモもいる。二百メートルほど離れた位置に、アヒルや白鳥の一群が、白い輝きを放って浮かんでいる。この湖は、母ガモが偵察に飛んで来て選んだ場所だったのだろう。見渡せる位置にカモの群れはいないようだった。
子ガモたちは、十分水を含んで喉の渇きがなくなると、母ガモの周りに集まって、十一番目の末っ子に、背から降りて水を飲めとすすめた。母ガモは背中にしがみ付いて、少しも動こうとしない幼いヒナが心配になっていた。心配のあまり、湖の水にもまだ口をつけていなかった。そのうち周りの子ガモたちのはやす声に、幼いヒナドリは背中の低い方へと移動をはじめた。そして翼を収める側面に足を滑らせ、転げ落ちてしまった。
どうしたことか、この幼いヒナドリは、どぼんと水にはまりこんだまま、水面に浮かんでこなかった。そして厚い水の層に穴をあけるようにして沈んでいった。びっくりしたのは、周りではやしたてていた子ガモだけではなかった。
背中にヒナを乗せた母ガモを先頭に、子カモの一行が、この湖に到着したときから、その一部始終を見守っていた女の子がいたのであった。その少女は、ヒナドリが母ガモの背中を移動するのを、はらはらしながら見守っていたが、そのヒナが水に沈んで浮かんでこないと見ると、水中眼鏡を額から目に下ろして、水に飛び込んだ。狼狽している母ガモのところに来ると、そこから湖に潜った。ヒナドリはすぐ見つかった。少女はもがきながら沈んでいくヒナを右手に掴むと、足で水底を蹴り、左手で水を掻いて、湖面に顔を出した。そこから一番近い岸に泳ぎ着くと、ヒナドリを介抱した。ヒナは息をしていなかった。そのヒナを摩ったり、嘴を口にくわえて、息を吹きかけたりした。何度も何度も息を送り込み、さすったり叩いたりもんだりしているうちに、少女の顔がパット薔薇の花のように輝いた。
「ピヤ、ピヤ」
ヒナドリからあの鳴き声が漏れて出た。
心配して寄って来ていた母ガモが、湖に残っていた少女の片足を思わずつついた。
「あいたっ! 何すんのよ、あんたは」
少女は母ガモを足で押しやりながら、ぶつぶつ呟き出した。
「鳥の名前が分らないと、何を食べさせたらいいかも、分らないんだよねえ。そうだ角のあの家の人が、野鳥の研究員とか言ってたなあ。連れてって、訊けばいいんだ」
少女はそんな独り言をした後、ヒナドリを両手に包むと走り出した。母ガモもその後を追って走った。
民家の点在する郊外の道を、少女は水着ひとつで、掌にヒナドリを包んで走っていた。
母ガモはその後をつけながら、自分には十羽の子ガモのいたことを思い出した。幼いヒナドリのことは、あの少女に任せておいていいと思った。あんなに真剣に嘴から息を送り、生き返ったとき、パット花が咲いたみたいに喜んだんだもの。
母ガモはそう考えて、湖の方へ向きを変えた。と、潮騒とはちがうざわめきが母ガモを襲った。十羽の子ガモたちが喚き、たどたどしい足取りで、よろめきつつ追って来ていたのだ。その先頭を来るのは、いつもびりの子ガモだった。
<おわり>




