一話 非日常の始まり
「俺のことが好きじゃない振りをしてて欲しい、そしたらいずれ本当に好きじゃなくなるから。」
私が彼を好きになったのは桜が舞う春でも雪が降る冬でもなく、なんの変哲もない季節である中学三年生の六月頃だった。
~六月九日~
今日も私の心とは裏腹に天気はいい。
私の心のように濡れている机はいつも通りの光景だった。花瓶に花が生けられて綺麗だ、なんて自虐を浮かべ鼻で笑った。
いじめられ始めたのはいつからだったかなぁ。慣れてきた、なんて感じるのは自分の心を守るための盾でしかないのはどこかで気づいているけど、それを言葉に出して具現化してしまえば自分が壊れてしまうのは明瞭であり残酷な事実だから、今日も他の誰でもない私を騙し続けている。
「今日も生きてる~。」
他人の声なんて何も聞こえない。
イヤホンで塞ぐ耳に届くのは、好きなアーティストの一般化された人々に向けられた愛を綴った歌詞だけでいい。
先生が来る前に机の水を拭き花瓶を元の位置に戻す。この動作も繰り返された作業の中の一パターンだ。これがペンで書かれ机に乗っかった罵声を消したり、机に置いてあるゴミを片付けたりする日もある。相手が女子なのであまり暴力は振るわれないのが唯一の救いだと思っていた。
こんな毎日が今日で最後になってほしい、なんて叶わない希望。
こんな希望が明日叶うなんてこと、心の底にもなかった。
いつも通りの一人のお昼休みに、突如、前の席だった彼が振り向いてお弁当を出し始めた。新しい、いじめなのか。
「な、なに。」
「お前さ、このまんまじゃ何も変わんねえの分かってるんじゃないの。生きてるんだから、やれるだけやれば。」
何も言い返せなかった。
彼の真剣な物言いは、私の心に大きな穴を残した。
家に帰っても彼の言葉が頭の中をぐるぐる駆け回った。
翌朝
私の眼下にある机には、ペンでの罵声が暴れている。
視界で暴れる罵声をかき消す私の脳内に流れるのはやっぱり彼の言葉だった。
「私の何がわかるの?!」
「そうやってまた逃げるの?」
彼が言ってない言葉まで妄想の中では自由自在に飛び回る。
「彼の言葉は私への”優しさ”なんじゃないの。」
どこかにいる自分の、具現化された言葉に、感情が涙を伴って溢れ出した。
重力に逆らわない涙を無視して私の右手は彼の、尾海裕介の制服を後から摘んでいた。
「助けて。お願い、辛いよ、一人じゃどうにも出来ないの…。」
振り返ると、軽く笑って教室にある雑巾を二枚持ってきて一枚を私に押し付けてくる。
「ほら、消すよ。」
「う、うん。」
流れる涙は止めどなく流れ続けた。
涙で濡れる机に、これじゃあ拭いても拭いても意味ねえじゃん、と笑う尾海君は本当に綺麗に見えた。
拭き終わる頃、彼は残り少しのところで教卓の側まで歩いていき、教卓を蹴り飛ばして静かな雄叫びをあげた。
「次あいつ、武田優里に嫌がらせしてみろ。」
手の中なのスマートフォンには私の机に罵声を並べる女子達の写真が映されていた。
「これ、ばら撒くから。」
その静かな声から出る気迫に勝る者はいなかった。
その日から、他人にとっての日常、私にとっての非日常が始まった。