とある少女の追憶
私の毎朝の日課は、いつも遅く起きてくるお兄ちゃんを起こすこと。
一家で一つの寝室、大きめのベッドを二つ並べたそこに家族で眠り、起きてゆく。
父さんと母さんは早く起きて仕事へ向かい、大抵私とお兄ちゃん二人きりだ。
……だから、寂しい。早起きな私は、話し相手欲しさに同じ布団で眠るお兄ちゃんを起こすのだ。
「起きて、お兄ちゃん!」
「ルリア、うるさい。もう少し寝させてよ……」
お兄ちゃんは、一声発して布団へ顔を埋めようとする。
そうはさせない、私はお兄ちゃんの布団を剥ぎ取り大声を出した。
「起きて、お兄ちゃん! もうご飯出来てるんだから!」
「わ、わかったよ……。あと布団返して。寒いでしょ」
お兄ちゃんは「ハックション!」とくしゃみをした。自業自得ね。
私は、だらしないお兄ちゃんを寝台から引っ張り出し、一緒に朝食の席へ。
お兄ちゃんは眠そうな目を擦り、大きな欠伸をしながら私に手を引かれてぼんやりと歩いた。
私と同じ、茶色がかった黒い髪はてっぺんがピョンと跳ねている。これは寝癖ではなく癖っ毛で、私の髪にも同じ癖がある。
「じゃーん! 今日の朝ごはんは、野菜スープと手作りパンです! 美味しそうでしょー?」
朝っぱらからなんてテンションなの、私は……。
でも、お兄ちゃんは喜んでくれたようで、微笑みながら椅子に座り、私と母さんとで作った朝食を食べ始めた。
質素な食事。これは仕方のないことなんだと私は思う。
私達は、他の人とは違う。
決して良い仕事には就くことは出来ない。それでも、両親が仕事にありつけているだけ、恵まれているのだ。世の中には、仕事が無くて困っている人が少なからずいる。その人達と比べたら、私達は幸福者だ。
贅沢が出来なくても、私達は幸せ。この日常さえあれば他に何も要らないと、私は思っていた。
「お兄ちゃん、美味しい?」
「うん、美味しいよ。このスープに入ってるルタバガ(カブの仲間)、昨日採ったやつ? ほんのり甘味があって、すごい美味しい!」
「うふふ。そうでしょー? 皆で採った野菜は、苦労した分だけまたうまいものよ」
「あははっ、ルリアが一番頑張ってたもんね」
先に朝食を済ませた私はお兄ちゃんの正面に座り、お兄ちゃんが食べるのを眺めている。
私が話しかけ、お兄ちゃんが笑って言葉を返す。
お兄ちゃんの笑顔は、私にとって支えだった。お兄ちゃんのためなら、私は何でも頑張れた。
そう、大好きなお兄ちゃんのためなら、何でも。
ご飯を食べ終わったお兄ちゃんが、私に訊いてきた。
「ルリア、今日は何しよっか? 森に遊びにでも行く?」
「……その前に、着替えて顔を洗ってらっしゃい」
私が起きたままの格好でいるお兄ちゃんに口を尖らせて言うと、お兄ちゃんは眉を下げ苦笑い。
「ル、ルリア……。なんだか、母さんみたいな事言うね……」
「今お兄ちゃんを世話してるのは私だよ? よって私がお兄ちゃんにそういう事を言うのは当然で」
「わかったわかった。すぐ支度する」
お兄ちゃんは空になった食器をほったらかしにして、服を脱ぎ出した。
露になる上半身。私は、少しドキドキしてしまう。
お兄ちゃんは特に気にしていないみたいだけど、私は最近になってからお兄ちゃんを変に意識してしまっている。
こんな気持ち、昔は抱いたことなんてなかったのに。
何でだろう、お兄ちゃんを見ると心が浮き立つの。
「あれっ、ズボンどこやったっけ……」
下着一枚で居間をうろうろするお兄ちゃん。
私は顔を赤くしてしまう。妹の前でも平気で下着一枚になれるお兄ちゃんの無神経さに少し腹が立った。
「もう、お兄ちゃん! パンツ一丁でうろつかないで!」
「ご、ごめんっ、ルリア。多分もうちょっとで見つかるから」
そういうことじゃないっ!
私はお兄ちゃんの鈍感さに憤り、呆れ果てた。
どうして、どうして察してくれないの!? 鈍感過ぎるのにも程があるよ……。
「もう、いいよ。私も探すの手伝う」
「ありがとう、ルリア!」
「その前に、上の服を着て。見てるこっちが寒くなるわ」
もう春とはいえ、朝方はやはり冷える。私は二の腕に鳥肌を立てているお兄ちゃんに、シャツを渡してあげた。
私は、もそもそと頭からシャツを被るお兄ちゃんに溜め息をつき、部屋を見回してズボンを探す。
「もう、何でズボンが無くなるのよ……お兄ちゃん、脱いだ衣類は脱ぎっぱなしにしないでくれる?」
さっきから、小言を言ってばっかりだ。
それもこれも、お兄ちゃんがだらしなさ過ぎるから。お兄ちゃん、もっとしっかりしてよ……。
「あ、あった」
棚の裏に、お兄ちゃんのズボンが挟まっていた。
謎である。何故こんなところにズボンが? 恐らく説明されても私には絶対に理解出来ないだろう。
お兄ちゃんの行動は私には予測もつかないものが多い。それは男の子だからか、それともお兄ちゃんが特殊だからか、私にはわからない。
わからないものは、わからないのだ。
「ありがとー! これでやっとズボンを穿けるよ!」
着替えるだけで、こんなに時間が必要になる。お兄ちゃんは本当に手がかかる人だ。
井戸で汲んだ水で顔を洗い、着替えもちゃんと済ませたお兄ちゃんが、家から出て来た。
薪を入れるかごを背負う私は、サッパリとした格好のお兄ちゃんにうっとりする。
私の贔屓目かもしれないが、手入れすればお兄ちゃんはとても格好いいのだ。美少年とか、王子様って言葉が似合うくらいには。
……フィルターかけすぎか。
でも私は、本当にお兄ちゃんを男性として意識してしまっている。その気持ちには、嘘をつけない。
私とお兄ちゃんは、父さんが違う。お兄ちゃんのお父さんは極東の人で、私が生まれる前にもう亡くなっていると母さんに聞いた。
お兄ちゃんは、その事を知らない。父さんが本当の父さんだと信じきっている。
母さんは、「お兄ちゃんには真実を黙っていてあげて」と言った。だから私はお兄ちゃんに真実を伝えようとは思わない。
だけど、時折本当のことを伝えるべきかと迷いを抱く。知らない方がお兄ちゃんの幸せなのに、真実を知らないお兄ちゃんを哀れに思う時がある。
何も知らないことが、本当に幸せなのかと。
私は自分自身に問い掛ける。答えはまだ出ていない。
「ルリア、どうしたの? ボーッとして」
「えっ!? な、何でもないよ! それより早く行こう。薪拾いは私達の仕事だから」
「うん。ついでに弓矢の練習もしたいしね」
お兄ちゃんは父さんに弓矢を習っている。毎日練習していて、最近では弓矢で狩りをするようになった。
それだけではなく、剣術もお兄ちゃんは習得していて、こっそり私にも教えてくれたりしていた。
私達は、森の中に入っていく。
私が手を差し出すと、お兄ちゃんはそっと握ってくれた。私より大きい、温かい手。
誰もいないような、森の奥へと進む。
私達だけが真実の姿を知っている、大樹の元へ。
私達兄妹が、幼い頃に迷い込んだこの森。迷った果てに辿り着いた精霊樹は、今では私達の良き話し相手で、先生だ。
『おじいちゃん』と私達が呼ぶ、大樹の精霊……『精霊樹ユグド』に、会いに行こう。
「精霊達が……」
もうすぐで精霊樹の元へ辿り着くという時に、お兄ちゃんは呟く。
耳を傾けると、確かに精霊達はざわめいていた。だけど、何を言っているのかはよくわからない。
「何か、あったのかな?」
「僕が聞いてみるよ」
私は、お兄ちゃんより精霊の声を聴く力が弱い。それは父さんが違うからだと私は知っていた。
母さんは精霊と人間のハーフ、だから私は精霊と人間のクォーターということになる。
でも、お兄ちゃんのお父さんは……。
「……そんなことが?」
「何だって、お兄ちゃん?」
お兄ちゃんは深刻そうな顔だ。私は心配になって訊く。
「何やら、悪意を感じるって、精霊達が言ってる……ここから離れた方が、良いかもしれない」
悪意。普段、私達が村人達から受け続けている感情。
誰か、私達の『敵』がいるのか。
「どうしよう、お兄ちゃん」
私はお兄ちゃんの腕にしがみつく。
恐怖が甦り、私の胸をきつく締め付けてくる。
(痛いよ、怖いよ……)
髪を掻き上げると見える、首元の痣は未だ消えていない。
お兄ちゃんが私を抱き締める。
「怖くないよ」とまやかしの言葉を囁いて。
「大丈夫。僕がついているから。僕がルリアを守ってあげるから、あの時のようには、もう決してしない」
あの時……私を助けられなかった事を、お兄ちゃんは悔いていた。
あの時私の身体は傷付き、汚された。辱しめられ、そして散々貶められた後、私は寒い道端に捨てられるように、置き去りにされたのだ。
最後に受けた冷たい鉄の味はまだ覚えている。
お兄ちゃんと母さんが私を見付けてくれた時には、私は死ぬ寸前だった。
お兄ちゃんはその時から、私の事を守り抜くと胸に誓った。
「精霊が声を上げる程の悪意……。普通じゃない」
私ははっとしてお兄ちゃんを見上げる。
もしかして、人より怖い……怪物が現れたんじゃあ……?
「ルリア、急いでおじいちゃんのところに向かおう。おじいちゃんなら僕達を守ってくれる」
私は力なく頷き、お兄ちゃんに手を引かれて走り出す。
悪意は増幅し、私達のすぐ後ろまで迫ってきた。逃げる私達に反応し、追いかけてくる。
荒い息遣い。止まりたくても止まれない。
振り向くことも許されず、私達はひたすらに走った。
「怖い、怖いよぅ……」
走りながら泣く私に、お兄ちゃんは自分も泣き出すのを堪えながら言う。
「もう少し、もう少しで着く! ルリアは、僕が守る……!」
必死に逃げる私達。追いかけてくる怪物。
私は、恐れるそれをつい、振り返ってしまった。そして、後悔する。
醜悪に歪んだ顔、汚れた黄色い爪や歯。やや前屈みの姿勢で走る、犬面の怪物。
『人狼』だった。獣人と違うのは、やはり悪意の存在だろうか。
呪われた狼の獣人が姿を変えたという『人狼』。そいつは、人の肉を喰らう。人を喰って、力を増す化け物だ。
「お、お兄ちゃんっ……!」
心臓が破裂しそうだ。あの時に受けた恐怖とは、また異なる恐怖。
生命が危うい状況で、私の鼓動は一生で一番激しくなっていた。
『人狼』は、どんどん獲物を追う速さを上げていく。加速する怪物に、私は絶望を覚えた。
もう駄目、殺される……!
お兄ちゃんは目に一杯涙を溜め、歯をガチガチいわせていたが、勇気を振り絞って後ろを振り向いた。
「ル、ルリア……。あいつに一発、矢を当てる。そうすれば、あいつが痛みにうめいている間に逃げ切れるかも、しれない」
お兄ちゃんは私から手を離し、弓をつがえた。
よろめく私は、「離さないで」と声なき叫びを上げる。
もう五メートルにも迫っている人狼。お兄ちゃんは、震える指を矢に添わせ、弓を引き絞る。
「うっ……うあああああッッ!!」
お兄ちゃんは雄叫びを上げ、矢を怪物へ放った。
風のように飛び、駆ける矢は怪物の心臓に突き刺さった。怪物は走る足を止め、ばたり、と倒れる。
私達は、命からがら、怪物から逃げ切ることが出来たのだった。
精霊樹ユグドの下。目を赤くする私を、お兄ちゃんは優しく腕で抱き締めてくれた。
頭を撫でながら、「もう怖くないよ」と、自分にも言うように呟く。
怖かった。そして、逃げおおせた私は生きていて良かったと、心から思った。
お兄ちゃんも思いは同じなのか、安堵の息をつき、精霊樹にもたれかかる。
「お兄ちゃん……ありがとう」
助けてくれて。お兄ちゃんが矢を当ててくれなければ、私達は命を落としてた。
「かっこよかったよ。大好き」
矢を放ち、怪物を倒したその姿は私にとっての英雄そのもの。
普段は全然自分のことができなくて、私に小言を言われるのもしょっちゅうあるけど、いざとなったら私を守ってくれる。
お兄ちゃんは、私のたった一人の英雄だ。
「――僕も、大好きだよ」
そしてお兄ちゃんは、私の額にそっと唇を落としてくれた。