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作者: 古根 葵

3年前に書いた小説を供養(´・ω・`)

 書店の自動ドアをくぐると、外の街並みは、いつしか夕暮れの赤い光に染めあげられていた。

つい先程まで雨が降っていた、その名残のようにわずかに湿気った冷気がビルの合間から流れ出して、僕の頬を撫で上げていく。僕は砂嵐を吐き続けるヘッドホンを耳から離し、行く手の高架街道に視線を向けた。新都線の高架が頭上を横切る街道に沿って、青ざめた街灯の明かりがぽつぽつと立ち並び、仕事帰りのサラリーマンや放課後の学生が、ついたりはなれたりしながら家路についている。いくつかの頭越しに街道の向こうを眺めやると、向こうの信号機はもうじき青になりそうだ……。

 僕は書店の袋を鞄のなかにしまいこんで肩に提げ、コンタクトレンズに映る補助現実――風景に重ねて視界に付加情報を表示する公共の拡張現実サービス――をスリープにしてから歩き出した。首にかけたヘッドホンはそのままに、いましがたまで眺めていた雑踏に混ざりこんで、下宿先である、朱西団地への帰路につく。

この時間帯の、ビルの合間から見える燃えるような夕焼け空は、ねずみ色に沈んだこの街でも数少ない美しい情景だと、僕は思っていた。だからこそヘッドホンは外したのだし、無遠慮にポップアップされる補助現実の広告のない、生の視界でこの夕焼けをみていたかった。遠くの空に悠然とたたずむ高層建造物群はかげろうのようにゆらゆらと揺らめいて、影絵のような街並みの合間に絡み合う高架街道や高速道路は、橙色の逆光にのなかにぼんやりとにじんでいる。

僕の下宿先は、僕が通っている都立高よりもむしろ、西二高――朱西第二高校の近傍にあった。新都線の車内、東朱美町駅で、朱東団地に住む友人のきりことはると別れ、僕は下宿先の最寄り駅であり、西二高の最寄駅でもある西朱美町駅で下車をするのだ。都立高よりも下宿先に近い西二高に通わないのは、西二高が、僕がこの街に越してきた三週間前――一昨月に起こった集団自殺事件で休校になっているからだった。現在の拡張現実技術の応用により、現実空間と仮想空間の完全同期が実験的に行われていたことで有名だった西二高は、卒業を控えた三年生の一クラス全員が一斉に自殺を図るという、薄気味の悪い事件で更に有名になった。……実際は、そのクラスのうちに、ひとりだけ死体が発見されずに現在も行方不明となっている女子生徒がいるという、もっと気味の悪い噂も流れているけれど、僕はあまり気に留めずに、結局須賀先生の便宜によって都立高に入学することが決まったのだった。

 歩いているうちに、やがて周囲の人通りはまばらになっていった。西二高通りという名前のそれなりに大きいこの高架街道は、西二高が休校になるより前はもっと下宿生にあふれていたのだろうけれど、この時世になると、もうほとんど人通りのない寂しげな通りに様変わりだった。もともと西二高に通っていた生徒たちも、今は別々の学校にみな出払ってしまったため、僕の下宿のある朱西団地は、もはや僕と、宿を移す金銭的余裕のない学生たちしか住む者のいない閑散とした住宅地になってしまっていた。

 街道の両脇、夕日のなかに整然と立ち並んだ、さながら幾枚もの巨大な板のような住宅群は、ひとけのない空気のなかで、夕暮れの深い陰影に沈んだまま、ただ静寂に包まれている。辺りに物音はほとんどなく、ときおりその合間をビル風が通り抜け、悲しげな風音がここら一帯に響き渡るのみ。

 僕は街道をまっすぐ進み、立ち並ぶ高層住宅のうちのひとつの、朱西団地第四集合住宅――西朱第四マンションのエントランスに立った。自動ドアの脇に据えられた透明な操作盤にコンソールを呼び出し、表面に指を走らせパスを打ち込んで認証、個人識別カードをかざして音もなく開いたドアをくぐり、いつものようにエレベータホールへ向かう。

 過去に一度だけ、須賀先生から朱東団地に住居を移さないかと声をかけられたことがあった。確か僕はそのとき、朱西団地が好きだから心配はいらない、という旨を彼に伝えたと思う。また、こずえやきりこにも東朱マンションに住んだほうがなにかと便利だ、だからこちらに越してこないかと誘われたことがある。そのときも僕は、住むのならば人が少ないほうが好きだといってやんわり断った。結局のところ僕は、大勢といるよりもむしろ、ひとりでいるほうが気が楽なのだ。こずえもきりこもはるもいい友達だけれど、少なくとも僕は人づきあいがあまり得意なほうではないし、そういう意味で、僕は孤独でいるほうがなにかと気が楽でいられた。

「ただいま」

九十二階の自室に、誰ともなしに呼びかけてから、僕は玄関に上がり込んだ。返事はない。しんと暗く静まり返った廊下を進み、リビングに向かう。そもそも僕はひとり暮らしだから、ただいま、と声を掛ける意味もないのだけれど、どうにも癖が抜けず続けてしまっているのだった。リビングのカーテンを閉じ、コンソールから風呂の湯張りをして、照明を点灯させる。携帯端末を取り出してメールを確認し、明日の予習と準備をして、あぁ、それから夕食をつくらなければならない。春から始めた念願の一人暮らしだけれど、誰にいわれずとも、やらなければならないことはたくさんあるのだ……。


――これが僕の日常。誰もいない廃屋のようなマンションで、孤独に、心安らかに過ごせる数少ないひとときを満喫する。



「みづき、一緒に帰ろうぜ」

 翌日、六限が終了したあと、きりこ――本名は片桐浩一という――が僕の机に近寄ってきた。すでに帰宅の用意を済ませたようで、学生鞄を肩に提げ、携帯端末の画面に目を落としている。

「二人は?」

「はるの課題だってさ。図書館で、終わるまで居残るって」

「数Ⅰの? きりこは終わった?」

「まだ。けど今日は役所に用事で、……明日教えてくれない?」

「おー」

 きりこには、はると同じように課題をぎりぎりまでためこんでしまう癖があった。提出期限間際には、はるときりこの課題を僕とこずえが夜遅くまで居残って手伝うのが恒例となっているのだが、今日はどうやら違ったようだ。「いつもホントすまん……」きりこは僕の答えに疲れたように笑い、それから「明日は地獄だな」とため息をはく。

 それから僕たちはすぐに校門で上靴を履きかえ、改札を通ってエスカレータに乗った。長大なエスカレータが中層広場にたどり着くまでには、およそ三分くらいの時間があって、そのあいだじゅう、僕はきりこと適当な雑談をする。

 そんな折、きりこが急に真面目くさった表情になって、妙なことをいい出した。

「あのさ、はるから聞いた噂、なんだけどさ」

「うん?」

「『旧市街』、って知ってる」

「……なに?」

「『旧市街』、旧い市街って書いて旧市町、ええっと、都市伝説? かな。なんていうか、何十年も前の街並みが、人知れずこの街のどこかに残ってるらしいんだ」

旧市街……なんだか興味をひかれる話ではある。もともと朱西団地に住むだけあって、僕は廃墟とか廃ビルとかに魅力を感じるきらいがあるのだ。

「旧い時代の……ってこと」

 まだ『水害』が起きていない、人々が地上で暮らしていた時代。きりこはそのころの暮らしぶりについて、妙に詳しかったような覚えがある。

「いや、……そんな大昔じゃないよ。もっと後、ええっと、四、五十年ぐらい前の」

「ああー……」

 なるほど。復興の渦中、成熟期、そして更なる経済成長の黎明となった期間、だいたい四十数年ほど前のその頃だろう。

 現代社会の授業で習った、今、僕らが使っているような電子機器が、先を争うように開発された時代。水害で一変した人々の暮らしを、かつての水害以前の技術レベルまで復興するにとどまらず、人工知能やあらゆる事物のネットワーク化、そういった水害以前から残存する技術を更に先鋭化し、拡張現実技術を頭取として、高度な科学技術による多くの発明がなされていった。現在の拡張現実用の眼鏡型やコンタクトレンズ型デバイス、個人識別カードなど、それらの機器類や、地球を覆っているネットワークインフラはおおかたその時代の研究に端を発しているといって差し支えない。

『水害』。

『世界が沈んだ日』。

それを生きた記憶として知る者は、今やこの世界のどこにもいない。それらを克明に記した記録はデータベースからいつでも再生できるが、一世紀と半世紀、長い年月を掛け、それらは僕らにとって、ついに仮想ディスプレイを通して見る単なる歴史の一場面に過ぎなくなった。

僕らの生活は、かつての更に先へ進んでいる。

「……しかし、なんでそんな時代の、街……が?」

「知らないけど、確かあの時代って、首都の各地に政府が管轄してる研究区画がたくさん建設された、って話だろ。けど今、この首都にそんなたくさんの施設って見当たらないし、その痕跡もない。どうやらあの時代、末期には、なんらかの理由で閉鎖される施設が続出したらしい」

「ふうん……。なんで閉鎖されたんだろう」

「さぁ……? 噂では、なんか人体実験とか、非人道的な研究がされてた、みたいな話も聞くけど、まぁどこまで本当かはわかんないよね。結局おおかたの施設は売りに出されて、でも一部の施設は買い手がつかなかったらしいんだ。それで、どうなったのかわからないけど、どこかに存在する、いまは廃墟になってるその研究区画に迷い込むと、……二度と帰ってこれないって」

よく知っているものだ。そんな時代のことは中学の授業で習ったぎり、意識して覚えてさえいなかった。しかしそんなものはただの噂なわけで「けど、都市伝説なんでしょ」僕がそう漏らすと、きりこはそれからしばし黙して、少しの沈黙ののち、「うん、いや。どうなんだろう。というか、ここからが本題なんだけど」と切り出した。

「なんだか大昔のアプリを手に入れたんだ」

 ちょうどそのときエスカレータの終点に差しかかって、僕たちは役所通りを新都駅に向けて歩き出した。「アプリ?」僕はきりこが横に並ぶのを待ってから問い直す。

「うん、アプリ。なんというか、手作りっぽいやつ。っていうか、なんか年代物のサーバーいじらせてもらってたら、奥のほうにやたら厳重なロック……というか所定の手順じゃないと開けないようにファイルが隠されててさ。なんとかこじ開けてみたら、なんだか古風なアプリが一緒に出てきて」

「……それで」

「それがなにをしても起動できなくて、解析してみても独自のコンパイラ使ってるみたいで、言語もよくわからないし、一応識別カードで動作するっぽい感じではあるんだけど、詳しいプラットフォームもよくわからない。それでサーバーを持ってきた来島先生に聞いてみたら、そのサーバーが、いまいった時代のものだってわかったんだ」

「へえ」

「サーバーが使われてたのは、今はない政府の研究区画。それはデータを浚ってたらわかった。でも、それがどうやって流出して、どういう巡りで来島先生が手に入れたのかよくわからない、……ともかくその研究区画の場所を調べてみたんだ」

 きりこはそこで言葉を切る。彼はすっと足元に視線を落とし、言葉に迷うように沈黙するしたのち、ぽつりと呟いた。

「――存在しない住所だった」

それから降りる長い沈黙。きりこは顔を上げ、僕の反応を伺うように顔を覗き込む。

「……面白い」

「面白いだろ!?」

はしゃぐきりこ。逆光で表情がよくわからないけど、たぶん目を輝かせている。きっとこういう都市伝説の類が好きなのだろう。少し悔しいけれど、でも、面白い……。

「存在しない、っていうのはどういうこと?」

「存在しないんだ。今はないことはもちろん、過去にも存在しなかった。どこにも存在しない、あるはずがない住所――僕は今、それこそが旧市街なんだと考えているんだけど、実際のところはわからない」

「なるほど、……面白いよ」

「面白いだろ? それで、もしよかったら、みづきにも一緒に調べてもらいたいと思って。僕あんまりこういうの得意じゃないからさ。まずはとりあえずアプリのコピーあげるから、解析するだけでもしてみてくれない?」

 補助現実を通して中空にきりこからのメッセージウィンドウが表示される。とくになにも考えずに了承の文字をたたき、腕に巻いた個人識別カードの空き領域にファイルがコピーされるさまを眺める。

「よろしく頼むよ。……あ、ごめん、僕はちょっと役所に寄らなきゃなんないから、奨学金の件でさー……」

 エスカレータの終点のころ、きりこはそういって苦笑し、「また須賀先生のお世話だよ」と役所通りの先を指さす。駅へ行くにはこちら側のエスカレータを乗り継いで行かなければならないから、きりことはここでお別れだった。

「じゃあ、よろしくね。また明日」

「また明日」

 僕が声をかけると、きりこはすっと手を挙げてから背を向けて去って行った。僕は新都線に乗るべく中央駅を目指し、また次のエスカレータに乗り継いでいく。



 新都線は、高層住宅群のあいだにはりめぐらされた線路を、音もなく滑っていく。実際外から聞いたらそれなりに騒音を立てるのだけれど、最近になって運行を始めた新型の車両は遮音性能がとても高く、車内はそれこそ水を打ったように静まり返っている。とりわけ中央朱美町駅を通り過ぎてしまってからは車内のほとんどが空席で、まばらに座る人々もみな、補助現実の孤独な世界に没入してしまっているから、身じろぎの音とか書類の音とか小さな物音でも車内にはとてもよく響く。

 きりこからもらったアプリは、補助現実を通して視覚を切り替え、データをグラフィカルに表示するチャンネルで見ると、なんだかうすぼんやりとした、透き通った立方体のような造形をしていた。中空でくるくると回転するオブジェクトは、空気にわずかな屈折率を与えたような質感をしており、かろうじて見える透明な輪郭に、物理的ではない光源からの光を青白く照り返している。それはさながら蜃気楼のようで、僕はその現実味のないいずまいに、そんなことはありえないと知りつつも、触ったらすぐさま砕け散ってしまいそうな儚さを感じた。

 窓の外を後方に流れていく街並みは、次第に茜色から深い紫色に変化していった。携帯端末を確認すると、十八時少し前、昨日よりもだいぶん遅い時間で、僕は帰り道に夕日が見れないことを、ほんの少しだけ残念に思った。ファイルのオブジェクトを不可視化して、僕はいつもの通り補助現実をスリープにし、ヘッドホンを首にかけたまま、色鮮やかに夕日を反射する高層住宅群を眺める。

やがてけだるそうな車内アナウンスが流れ、新都線が西朱美町駅のホームに滑りこむのに、それからたいした時間はかからなかった。



 改札を抜けて西口から外へ出ると、日が沈んだあとの空はすでに群青色の光に満ちていた。高層建造物も、高架街道も、帰り際の学生たちも、すべてただ薄暗い陰影に沈んで、車道の信号だけが嫌味なくらいに鮮やかな光を振りまいていた。僕は暗くなる前にまでには帰らなければと、青白い街灯の光が等間隔に照らす歩道を早足で歩いていく。

 駅前から少しばかり離れると、途端に行きかう人の数が少なくなった。この先はもう、人のほとんど住んでいない朱西団地があるばかりだから当然なのだけれど、これだけ閑散とした街並みには、やはり少しだけ物悲しさを覚える。ぼんやりとそう思い馳せながら街道を進み、さびれたオフィスビルが立ち並ぶ街道に差しかかったとき、――見慣れない道を見つけた。

「……?」

なにげなく通り過ぎそうになって、ふと感じた違和感に、僕は思わず振り返る。松下ビル、という小さなオフィスビルと、大きなマンションのあいだに、小さな道路が口を開けている。車両がひとつくらい通れそうな、街道と同じタイルばりの道路。ふたつの建造物の合間をずっとまっすぐに伸びた道路は、行く先まで視線をやると、奥まったほうは濃紺の宵闇に紛れて消えてしまっていた。はたしてこんなところにこんな道があったろうかと、かすかな違和感に首をかしげて、しかし等間隔にたたずむ街灯の光になにかいい知れぬ魅力を感じて、僕はざわつく心を抑えて少しだけ寄り道をすることを決める。

 奇妙なことに、どれほど進んでも、こちら側に入り口を向けている建物はひとつも見つからなかった。道路はもうずっと枝分かれのない一本道のままだし、両脇を挟み込むビルもマンションもみな、のっぺりとした窓のない壁面をこちらにさらしているばかりだった。頭上を細長く伸びる群青の空もいつしか光を失って、道自体も、しばらく行くと徐々に道幅が細まって、くねくねと曲がりくねるようになった。申し訳程度に据えつけられた街灯の光は、いつからかどこかざらざらとした翳りをみせて、足元に落ちる影はさながら砂嵐といったふうに流動しているようだ。

 なにか嫌な感じがする。

ふと不安に駆られて、僕は識別カードの位置情報追跡機能を起動した。GPSで取得した位置情報を、立体映像の地図に表示してくれる機能だけれど、今補助現実はスリープにしているから、僕は識別カードの小さい画面に表示される二次元平面地図を覗き込む。

「えっ……」

僕の現在位置を示すマーカーが、道のない区画を横切っていくさなかだった。どう見ても建物のど真ん中を突っ切っている。僕は一瞬だけ息をつめ、しかしすぐに思い直す。この機能に用いられている地図にだって、未だに登録されていない抜け道のような道路があることは少なくないと聞く。案ずることはない、ここもきっとまたそうなのだろう、僕はそう納得することにする。

それに、ほんの少し、わくわくする……。

きりこの気持ちが少しわかる気もする。都市伝説、見知らぬ道、地図にない区画、まるで幼心に帰ったようだけれど、冒険のようだ。

しかし道は、行けどもいまだに途切れる気配を見せなかった。一本道を進んで街道に行き当たらないのはおかしいのではないだろうか、少しずつ首をもたげてきた不安にやがて息がつまってきたころ、折れ曲がった角の先が急にひらけて、僕はどこか大きな広場のような場所に行き当たった。唐突に訪れた解放感に少なからず戸惑ったあと、四方を建造物に囲まれた空間の正面に、こちらに向けて、ぽかりと口を開けた建物が黒々とそびえていることに気がついた。

それは大きなオフィスビルの廃墟だった。

頭上に四角く切り取られた空に向かって、悠然と屹立する威圧的なたたずまい、……旧市街、きりこから聞いたその言葉がふいに脳裏によみがえって、鮮やかな現実味をもって僕の思考に訪れる。

 そのビルは最初、どこかねじくれて建っているような印象を僕に与えた。狭い空間に無理矢理に押し込んだような、そんなかすかな違和感が頭をかすめて、しかしその違和感はすぐにするりとどこかへ逃げてしまって、あとにはわずかな不安と、廃墟のなかを探索してみたい好奇心が残った。壁面いっぱいに張られた窓ガラスはあちこちがひびわれて、廃墟には寒々しく風が立ち入っている。近寄ってみると、青白いたたずまいはオフィスビルというよりはむしろ病院に近いような雰囲気で、幽霊のような冷たい気配を窓から滔々とこぼしている感じがした。正面の自動ドアは奇跡的に無傷の状態だったものの、脇に据えられた操作盤に僕がいくら手をかざしてもコンソールが呼び出せないことから、この廃墟のシステムも、もう生きてはいないことが予想できる。

 それから僕は、きりこに連絡を取ろうと携帯端末を開いた。旧市街という話を思い出してから、僕にはもう、ここがその旧市街であるとしか思えなくなっていた。しかし端末の画面の隅には「圏外」のアイコンが明滅しており、ここら朱美町周辺のリージョンネットワークにも接続ができない状態だった。仕方なく僕は端末を学生鞄にしまい、どこか廃墟のなかに入れる場所を探すことにする。


 錆びついて風化した手すりを握ると、クレヨンのような赤い色が、僕のてのひらにべったりと付着した。ずいぶんと長いあいだ放置されていたのだろう、ビルの壁面に設えられたコンクリート製の非常階段は、あちこち白い塗装がはげて崩れかけていた。辺りはすでに夜の気配が濃く降りてきていて、僕はとても明瞭とはいい難い視界のなかで、足元に細心の注意を払って非常階段を上っていく。

 ときおりビルの谷間を冷たい夜風が低く唸り声をあげながら通り抜けていく。非常階段から少しだけ身を乗り出して下方へ目をやると、ひたひたと満ちた暗闇に、まるで下層が見通せなくて、ただ縦横に延びたコンクリートの渓谷だけが奈落のように大きく口を広げていた。僕は半ば無意識のうちに非常階段の中心の側に寄り、寒くなった背筋を温めようと踏み出す足の歩調を速める。

 やがてしばらく上ると、非常階段の終点は中空にせり出したラウンジのような場所につながっていた。おそらくは従業員の憩いの場であったろうカフェテラスのようなラウンジは、煩雑に椅子やテーブルの類が押しのけられていて、オフィスビルはそのラウンジのある階を境に、壁面の色がくすんだ白色から鈍い青灰色に変化して、建築様式も一様に変わっていた。きっとここから下のビルを土台にして新しくビルを建てたのだろう、首都ではさほど珍しいことではない。僕はそれからビルの側のガラス張りのうちで、ひとつだけ割れ落ちて穴の開いている窓を見つけ、突き出しているガラス片に触れないよう慎重に体をビルのなかへ滑り込ませる。



 ようやっと踏み込んだビルの内側は、近代的な趣向の立体構造のロビーだった。つやがかった石造りの床に、ガラス張りからの光が鏡のように映りこんで、薄暗いフロアーじゅうを淡い光で満たしていた。ひんやりとした静寂が支配するロビーは、歩くたびに足元に薄く埃がまとわりついて、くぐもって聞こえる足音が泡沫のように周囲に響き渡る。

室内に満ちる静止したような空気は、僕にとってはどこか心地のよいものだった。僕は静寂のなかに息をひそめて、ビルを吹き抜ける風の音に耳をそばだててみる。普段なら絶えず聞こえるはずの、高速道路を往来する車の音だとか、高架街道の人々の喋り声だとかの都会の喧騒の一切が、ここにきたころから遮断されていて、ただ本当の静寂だけが僕の耳に染み入るばかりだった。人の気配のまったくない、死んだような廃墟の空気が、いつしか僕の肺を満たしていく。

ふとある考えが頭をよぎって、僕はヘッドホンの端子が接続されている受信機のチューナーをここら一帯の通信の周波数に合わせた。ここが旧市街だというのなら、僕が期待するものではないにしても、もしかすると普段のものとは異なる通信音が漂っているかもしれない。ヘッドホンから一定の大きさの砂嵐が流れ出すのを確認し、それから僕は前方に見えるエレベータホールに足を向け、左手をあげて識別カードのマップを確認する。

位置情報は比較的正常に表示されていた。相変わらずマーカーは突拍子もない区画にめりこんではいたけれど、僕が歩く方向に合わせてのろのろと進んでいたから、おそらく壊れているということはないだろう。ひとまずは安堵して表示を解除しようとして、

「……?」

ディスプレイの片隅に小さくダイアログボックスが表示されていることに気がついた。

 僕は立ち止まって補助現実を立ち上げる。識別カードのディスプレイはごく小さく、カードの機能を十分に使用するには補助現実との連動が必要なのだ。視界にオペレーティングシステムのロゴが表示され、それからまもなくホーム画面が立ち上がると同時、僕はダイアログボックスの文句の真意を理解して唖然とした。

 視界におびただしい数のウィンドウが表示されて、すごい速さでどこからかデータがダウンロード、自動的に読み込まれている。一つの処理が完了すると、僕の識別カードの内部データのようなものが一斉に書き換わり、間髪入れずに次のデータのロードが開始される。周囲には状態表示のウィンドウが散在し、僕は一瞬呆然とそのせわしない営みを見送って、次いで識別カードのデータが書き換えられていることに危機感を覚えてあわててプロセスの中断を試みる。が、識別カードは僕が打ち込んだコマンドを一切受けつけない。

――管理者権限が奪われている……?

 識別カードが解析されたなどという話は聞いたことがない。個人情報を扱い、首都の住人の生活のかなめの媒体である識別カードのセキュリティは、最近の電子機器類のなかでも最も強固なはずだった。それがやすやすと突破され、そのうえ中身を書き換えられるなどありえようはずもない。なすすべなく呆然と自分の識別カードの内部データが書き換えられていくのを見送ると、それからしばらくののちに最後の処理が終了した。なぜか権限が戻ってきて、僕はほとんどうわの空で終了ボタンに触れる。すると今度は短い警告音とともにエラーメッセージが表示された。

――システムの構成に失敗しました。推定空間一・二四のすべての機能をご利用いただけません。

もうわけがわからない。システムの再起動を促す表示がなされ、仕方なく再起動を行うと、その後いくつかのエラーメッセージが表示されてはフェードアウトし、最後に一つのダイアログボックスがクローズアップされる。

――ゲストユーザー、青山光希さま。朱西推定空間一・二四へようこそ。

なるほど、そういうことか。ようやく僕は、ここで配信されているネットワークシステムが通常のものでないことに気がついた。

 道理で通常の方法でリージョンネットワークに接続できないはずだ。このオフィスビルで稼働されているネットワークシステムは、バージョンこそ違えど、かの有名な朱西第二高校で実装されていた推定空間と、明らかに同じ種類のものだ。



 僕の識別カードに推定空間への偽装ゲストアカウントがインストールされてから、エレベータホールに一斉に電源が入ったようだった。閲覧ソフトの起動に伴う処理が視界の端で行われているのを頭の隅で認識しながら、僕はホールを訪れると同時に、あたかも誘導するかのように口を開けたエレベータに足を踏み入れる。それから扉が閉じて、脇にあった操作盤のボタンがひとりでに点灯し、ぐんと重力が増す感触とともに、エレベータは加速をはじめる。

 エレベータの壁は、背後の一面がガラス張りで、景色が展望できるようになっていた。向かいの雑居ビルののっぺりした壁面を茫洋と眺めながら、僕は識別カードの機能を起動しなおして、起動状態と権限が通常に戻っていることを確認する。

マルウェアの目的は識別カードの書き換えと偽装ゲストアカウントの取得であり、それを行ったプロセスはきりこからもらったファイルが起動していた。さきほどシステムの全体をスキャンしていたところで例のファイルに思い至り、プロセスログから調べると案の定そのファイルが起動されていたのだ。おそらく特殊なモードを持つファイルで、このネットワークシステムが管轄しているエリアに所有者が踏み込むと自動的に起動し、不正規のゲストアカウントを構成するととともに推定空間の閲覧に関わるソフトウェアを自動でインストールするようになっていたのだろう。補助現実のチャンネルを切り替えてファイルを見ると、電車のなかでは透明な立方体だったそれは、いまは淡い輪郭のなかで色とりどりの波紋を周囲になびかせつつ、ときおりネットワークとのやり取りを示すようにちかちかと明滅している。

システムのスキャンを行ってから、発覚した事実がもうひとつだけあった。きりこのファイルは偽装ゲストアカウントと閲覧ソフトだけでなく、僕の識別カードを質に取るようなソフトウェアまでもインストールしていた。あからさまに見つかるような領域で活動しているそれは、識別カードの中身をネットワーク上にばらまくソフトで、解除は不可能、トリガーは僕の識別カードがこのオフィスビル以外のネットワークに接続すること、手っ取り早くいえば、僕はこのビルのなかに閉じ込められてしまったわけだった。これでどうやらあとには引き返せなくなったのだけれども、なぜだか僕は不思議と差し迫った危機感は感じなかった。

 しばらくぼんやり思考にふけっていると、突然立方体の形が崩れ、空気に溶け込むようにして立方体の輪郭が空間のなかに消えいった。直後に小さくウィンドウが開かれて数値データのようなものが中空に投影され、なにかの座標情報のようなそれに、僕は反射的に視界をキャプチャする。僕が画像を保存すると同時にウィンドウが閉じ、それきりプロセスの一覧にそのファイル名が現れることはなく、ログを見る限りでは、きりこのファイルは自動で削除されたようだった。

頭上の表示パネルは階数をすごい速さで数え上げていき、ついに数字は二百階台を数え、もうそろそろ最上層に到達するころだった。ガラス越しにうっすら見える風景はいつしか黒々とした宵闇に覆われて、ガラスはもうほとんど鏡のように僕の顔を映している。操作盤のボタンが示す階数は二四三階、最上階から三階層階下のフロアーで、それ以降の階へエレベータで昇るためにはどうやら正規の特殊な権限が必要なようだ。さきほどの画像に表示された数値をこの一帯の立体マップに入力すると、マップに投影されたマーカーはひとつのポイントを指し示した。僕の現在地のいくらか頭上、映像自体はでたらめだからあてにはならないものの、標高から推察するに、マーカーが示すのはおそらくこのオフィスビルの屋上だろうことがわかる。誰がこんなことを仕組んだのか知らないけれど、この一連の誘導、用途不明のファイルに始まり、推定空間のアカウントの偽装から、座標データの配信と、やけに手が込みすぎている。



やがてエレベータは緩やかに停止し、低い音を立ててエレベータの扉が開かれる。エレベータのなかに二四三階の空気が流れ込み、途端になにかすえたような黴臭い匂いがかすかに鼻をかすめた。青白い照明がうすく照らす廊下が正面に伸びて、エントランスと同じ、無機質な石造りの床がてらてらと照明の光を反射している。

エレベータの境界を越えてフロアーに足を踏み出したとき、「……っ」甲高い電子音とともに僕はいきなり頭を水中に突っ込んだような感覚に襲われた。驚いて後ろにたたらを踏み、唐突に訪れた激しいめまいのような感覚に、僕はよろよろと壁面にもたれかかる。視界が一定のスパンでがくんがくんと残像を生み出し、弾けた色とりどりの砂嵐が僕の網膜に焼き付いてきて、僕はようやく自分になにが起こっているか気がついた。

――処理落ちか。

コンタクトレンズのスペックが低すぎるのだ。いくらバージョンが古いとはいえ、ここのネットワークは推定空間で同期されている。閲覧ソフトが準備を終えて起動したはいいものの、僕のコンタクトレンズは推定空間の閲覧を想定しておらず、ゆえに常に空間の同期を行う推定空間のシステムに、コンタクトレンズの処理が追いついていないらしい。

視界を埋め尽くすドットの氾濫にぐるぐるする頭を持て余しながら、僕は腕を持ち上げて起動中の閲覧ソフトのオプションを開いた。普通ならどこかに再現率を操作するコマンドがあるはず、しばらく探して見つかった画面で、再現率と更新間隔を最低まで引き下げる。

このような推定空間をラグなしに閲覧するなど、西二高の生徒と職員に配布されたというくらいの高スペックのコンタクトレンズでもなければ不可能だろう。視界がだいぶ落ち着いてきてから周囲の様相を観察すると、現実空間の物体の上に推定空間の真っ白なテクスチャがはりついているのがわかった。テクスチャが白いのは閲覧ソフトの再現率を落としたからだろうが、いまはこの再現率でどうにか進んでいくよりほかはないだろう。



あちこちの部屋を覗いたりしながら廊下を歩いていくと、しばらくして進行方向に従業員の通用階段が姿を見せた。壁の表示に従うと、どうやら階段の先はマーカーの指し示す屋上につながっているようだ。

 階段を上っていく途中も、時折視界をざらざらと砂嵐が往来し、幾度となくゴーストが現れた。僕はコンタクトレンズのスペックが低いことをうらめしく思いながら、階段をゆっくりと上っていく。

これまでの施設の内装を思い返すと、このビルはどうやら本当になにかの研究施設だったようだ。研究資料やデータとかいったものが、その分野では最近はもうデッドメディアと化しつつある紙媒体に事細かに記録されていたし、たぶんその時代には最新のものであったろう豪勢な設備が各所に設置されていた。しかし紙媒体の資料はそのほとんどが腐食して読めなくなってしまっており、設備に保存されていただろうデータのほうは意図的に削除されていたから、研究内容のほうはさっぱり知ることができなかった。

やがて屋上へつながる扉の前にたどり着き、僕が中空に出現したコンソールに左手をかざすと、一瞬で認識がされて扉の錠が開かれる。その最近の技術に見劣りしないほどの高性能さに、僕は少々面食らった。まるで小説とかで読む、本当の拡張現実のような機能だった。恐る恐るノブに手をかけて扉を薄く押し開けると、その直後に紺色の光とともにごうっと音を立てて外気が吹き込んでくるのを感じる。



 一瞬だけ、目がくらむような澄み切った青空を幻視した。

吸い込まれそうなくらいに深い紺青と、点々と浮かぶ立体テクスチャの白い綿雲。そしてそれよりももっと深い藍色の風船が空に向かってゆらゆらと浮かび上がり、蒼天にぶつかって弾けとんで、同時にわずかな残像を残して視界が切り替わる。



我に返ったとき、冷え切った透明な夜風が髪のあいだに絡まりながら通り過ぎていった。いつの間にか濃紺に染まった空は足元のテクスチャに深い陰影を落とし、眼下にそびえる黒々としたビル群のシルエットは、まるで細長い積み木を整然と並べたかのようだった。眼前に広がる推定空間の広がりは、実空間の名残などわずかにも感じないほどに現実味が希薄で、僕はしばらく、自分がなにか夢でも見ているような感覚に襲われた。

 立体マップに表示された僕の位置情報とマーカーの相対を考えると、マーカーの表示位置は僕の数メートル前方だった。だいたいの位置を見定めてそのあたりに目を凝らすと、コンクリートの質感をもつ一様なテクスチャの上に、小さな透明のサイコロ状のオブジェクトが転がっているのに目が留まった。僕は近寄ってそれを拾い上げるために手を伸ばし、指先が空を切ったことに気がつく。

 補助現実を通して見えるそのオブジェクトは、このビルのほかのオブジェクトにある実体が存在しなかった。立方体のそのオブジェクトによく目を凝らすと、輪郭のなかに封じ込められた半透明で極彩色の色染みがうっすらと判別できる。きりこにもらったファイルに酷似していると思った僕は、ふとその造形にどこでか見覚えがあって首をひねる。

……カラーセル。

一昔前に流行した、バーコードのように、情報を色の並びとして記憶する媒体だった。立体映像として保存しておく意味などない、普通なら透明のプラスチックやセラミック、高級なものでいえばガラスなどの素材で作られているはずの記憶媒体。それがなぜ推定空間の三次元情報として保存されているのか。しかし立体マップのマーカーは紛れもなくこのカラーセルを指しているし、きりこのファイルをはじめとする一連の誘導の目的は、ファイルを入手した人間にこのカラーセルを拾わせることだったのだと考えて間違いはないはずだった。

視界の表示映像を走査してカラーセルに保存されたデータを読み込む。同時にセキュリティソフトで二重にスキャンしてからデータを空き領域にコピーした。どうやら危険はない。データにはなんのプロテクトもかかっておらず、拍子抜けするほどあっさりと展開することができた。入っていたのはそれほどのサイズもない一枚の画像データで、僕は無造作にビューアーでファイルを表示する。窓が開き、それから手のひらくらいのサイズの画像につづられたいくつかのフレーズが目に入った。


――朱西第二高校。

 ――……三年。


学生証だった。

ごく平凡な、高校生の制服を着た少女が、まるでガラス玉のように無表情な瞳でこちらをじっと見返していた。証明写真に写った清楚な髪型と服装がこんな廃墟にはひどく場違いで、僕は背筋に得体のしれない薄ら寒さが這い上がるのを感じた。データの損傷が激しくて文字の部分はところどころ読めないけれど、所属名も制服も彼女は紛れもなくかの朱西第二高校の生徒だった。

朱西第二高校。首都全体を震撼させたあの集団自殺事件があった都立高校。

公式での発表はされていないけれど、噂の通りならば確か事件の直後に女子生徒がひとりだけ行方知れずになっていたはずだ。自殺事件が起きたクラスは、卒業を間近に控えた三年生のひとクラスだった。つまり導き出されるのは、この学生証が集団自殺事件で行方不明になった女子生徒の持ち物だったという可能性。*

ともかくも戻ってきりこに話してみるべきだ。そう思って僕がおもむろに視界をキャプチャしようとした瞬間、――青白い閃光と激しい雑音とともに女子生徒の学生証が消し飛んだ。

セキュリティソフトか――僕は直感し、カラーセルに保存されていたのはデータを色情報に擬態して走査を免れるためだったのか、それからようやくそのことに気がついてとっさに補助現実の電源を落とそうと試みるころにはもう、遅かった。

「あっ――」

 直後、ヘッドホンが絶叫し、網膜に激しい点滅信号が叩きつけられて、僕の意識は一瞬にして吹き飛ばされた。



 僕の視界の隅には、橙色の字体で小さく日付が記されていた。きっとこれは僕がここに越してきてまもないころの映像のようだった。春先の温かい風がやわらかく横面に当たり、太陽の光が真っ白に塗りつぶされた街並みに照り返して、映像は嫌味なくらいにまぶしい反射光を放っていた。

 いつからか隣にいた真っ白な少女が、手のなかに握り締めていた藍色の風船を空に向けて解きはなった。風船は濃紺の天空にのぼり続け、ゆらゆらと不確かに揺らめきながら、僕はこのまま風船が宇宙までたどり着いてしまうのではないかと心配になった。

やがて鮮やかな藍色の風船はどこまでも広がる青い空にぶつかって弾け、まばゆい青色の閃光が何度か脳裏に閃いた後、少女がこちらを向いて何事かいい放ったのを一瞬のうちに垣間見て、僕の視界は再び暗転した。



 灰色の雲が濁った色の夜空にぼんやりと浮かんでいた。僕ははっと我に返り、それからもうとうに日が暮れてしまっていることに思い至る。無意識のうちに鞄を肩に提げ直し、街灯がやわらかく包み込むひとけのない街道を歩きだす。

 なんでもないはずなのに、冷や汗がやけにしきりに背中を伝った。携帯端末を確認すると、いまはもうずいぶんと遅い時刻で、僕は帰り道に結局夕日が見れなかったことを少しだけ残念に思った。いや、ずいぶん前にまったく同じことを考えた覚えがある、……ふいに襲ってくる強烈な既視感。

「…………」

なにか忘れているような気がする。遅い時間だからなるべく早く帰宅しなければ。課題も、……そう、明日、放課後図書館できりこのレポートの課題を手伝わなければいけないのに……。

そうして僕はようやく気がついた。自分がいましがたまでいったいなにをしていたのか、まるで記憶がなかったのだ。新都できりこと別れ、それから新都線に乗車してからの記憶が、まるでその一切を脳内からくりぬいたかのようにすっぽりと抜け落ちていた。

――新都線に乗ってから、僕は一体なにをしていた?

僕の脳裏を嫌な直感が去来した。なにかきりこから大事な要件を伝えられていた。確か年代物のアプリケーションを解析しろといった旨の用件だったはずだ。僕は苦心してそこまで思い返してディレクトリのなかをさらってみるけれど、それらしいファイルはどこにも見つからなかった。僕はいいようのない焦燥に駆られて何度か検索をかけるもファイルは見当たらず、その前にまずいま僕がどこにいるのかさえ把握していないことに思い至る。

識別カードの位置情報機能を起動すると、アイコンは西朱美町の区画で明滅していた。どうやら無事に西朱美町で下車することはできたらしい。しかし僕が新都線に乗ったのは十七時半くらいのこと、位置情報のログを見ると新都線を下車したアイコンは帰路を順当に辿って行ったあと十八時を回ったあたりからさきほどの場所で静止した。視界の端に表示した現在の時刻は二十二時、つまり僕は同じ場所に、まったく微動だにしないで四時間以上も静止していたことになる……。

僕はぞっとした。往来のど真ん中で何時間も立ち尽くしていたなど、いくらここが閑静な街道だとはいえ、ありうるはずがない。ぼんやりとした疑問が、ここでにわかに確信に変わる。僕が記憶をなくした時間帯に、絶対になにか妙なことが起こっていた。僕はそれに巻き込まれて、そしてかなり手際が強引だけれど、僕の記憶とそのほか識別カードなどのログを誰かが意図的に消去してしまったのだろう。人間の脳にアクセスして記憶に干渉するなどまるでどこぞのフィクションのようでまったく信じがたいけれど、そのときの僕は動転していてそれすらも判断がつかなくなっていた。

「うわっ」

唐突に携帯端末がけたたましく着信音をがなり立てはじめ、僕は一瞬びくりと身をすくめた。着信はきりこからで、端末のディスプレイには彼からの数件の着信履歴が残っていた。

「どうしたの」

通話ボタンに触れ、端末を耳に当ててそう答えると、端末からは「ようやくつながったか」ときりこの安堵したような声が漏れた。

「いったいなにしてたんだよ。全然電話通じないから心配したんだぞ」

「ごめん、悪かったよ」

 僕は返答に困って、とりあえず謝ってお茶を濁す。

「まあいいけど。みづき、さっき渡したアプリの件なんだけど」

「うん?」

「みづきに話したらなんか気になってさ、来島先生にあのアプリが保存されてたデスクトップの出所聞いてみたんだよね」

きりこは一呼吸おいて話し出す。きりこの声の背後から軽薄な音楽がわずかに漏れ出して、緩やかに頬にあたる夜風に乗って流れていく。

「そしたら、なんでも実習に使ったデスクトップは教材用の廃棄品らしいんだけど、僕がいじったのだけは数が足りなくてネットのフリマで落とした奴だったみたいなんだ。で、それも教材として使われてたやつなんだが、型番とか調べてみたら、なんと出所はあの朱西第二高校だった」

「朱西第二高校……」

そのとき僕は、かなり最近に、西二高についてなにかとても重大なことがあったのを思い出した。拡張現実に匹敵するほどの推定空間の技術……本物の推定空間を利用したことさえないのに、僕はその機能の一端を脳のどこかが覚えていることを自覚していた。必死に思い出そうとするものの、記憶の一端をつかんだと思うやいなや、その感触はすぐにするりとどこかへ逃げていく。

「……だめだ」

「どした?」

 きりこが戸惑ったように訊ねてくるが、僕は結局思い出せずじまいで、きっとこの記憶も数時間の空白のどこかしらで得たものなのだろうと、ほぼ確信に近い認識で思った。「なんでもない。続けて。まだ先があるんでしょ」僕が先を促して、それから「あと、あのアプリ間違って消去しちゃったから、もっかいコピーしてくれないかな」僕はなぜここできりこに嘘をついたのか、自分でもよくわからなかった。

きりこは「ああ、そのことなんだが」と口ごもり、いいにくそうに先を続ける。

「あれ、確か九時半ごろだったかな、それでみづきに電話しようと思ったんだけど。エディターで中身見てたら、起動方法もわかんなかったアプリなのに、なんかいきなり自動で消去されちゃったんだ。だからアプリはもうない、残念だけどね。これでレポートに専念できるわけさ」

 きりこは自嘲気味に笑って、「というわけで肝心のソースがお亡くなりになっちゃったわけだから、さっきいった解析手伝ってくれってのはなしってことで。申し訳ないけど」とため息をつきながら続けた。僕はどうにも釈然としないものを抱えつつ、「……うん、いや、大丈夫」とだけ答えると、そのときにふと、まるで天啓かなにかのようにひとつの可能性が脳裏に閃いた。しかしてそれを裏づけるような話は聞いたことがなかったから、僕はだめもとできりこに訊ねてみることにした。

「あのさ、ひとつだけ訊きたいことがあるんだけど」

「なに」

「網膜への光の明滅の信号から、人間の脳へアクセスする、ってのは可能かな」

きりこはその質問だけで僕の心中を察したらしく「……なにか心当たりがあったんだね」とだけこぼし、それからほんの少しだけためらうような間を見せて、「現在の技術じゃ、無理かな」と答えた。

「少なくとも、公にされている程度の技術じゃ、きっと不可能だと思うよ。そういう意図の質問ならね。でも将来的に可能か、っていうのなら、あくまで僕の主観からいわせてもらえば、どちらともいえない、って答えになる」

きりこの答え方は、まさしく僕の質問の意図を的確にとらえたものだった。

「……どうして」問い返す声はわずかに震えていた。きりこは愉快そうに笑って後を続ける。

「ねえ、人間の脳は端的にいえば電気信号で動いているんだよ。網膜からの神経伝達だって電気信号だし、一定のパターンを持つ電気信号が僕らの脳に及ぼす影響なんて像像もできないじゃない。そういった脳の入出力の機能特性について、ある程度システマティックに理論が解明されれば、そりゃ網膜からの脳内へのアクセスが不可能であるとは一概にはいえないだろ。けれど、これは仮に脳の働き方がある水準で解明された場合に、不可能ではないかもしれない、というあくまで仮定の話。脳の機能の解明なんて一日二日、よもや百年たったってそう簡単に実現するはずがない。だから、理論上は可能性がないとはいえないけど、網膜を通じた脳へのアクセスは、現実的には極めて実現困難な技術だと、僕は思うわけ。ていうかこのたぐいの知識なら、僕よりもみづきのほうが豊富なんじゃないの」

「……なるほど」

 理論上は実現する可能性は否定できない。けれど実現する可能性は限りなく零に近い。僕はきりこの考え方を聞いて、いままでなにかもやもやとしていた思考が論理的に研ぎ澄まされていく感じがした。要するに、不可能ではないのだ。少なくとも、不可能であると論理的に結論付けるだけの論証はなされていない。記憶が欠落したということの意味、消えてしまった非正規のアプリケーションと、朱西第二高校。これらがどこか深遠なところでひそかにつながっているという可能性が先刻からほんのわずかな感覚として、しかしなぜだか根拠のない確信とともに僕の脳裏を支配してやまなかった。

 僕はこのことをきりこに話すべきか、一瞬だけ逡巡して、しかし結局きりこに打ち明けることはしなかった。根拠のない妄想然とした憶測を話すのが気が引けるというのもあったし、調査はひとりでしなければならない、という感じもこれもなんとなく、けれど確固とした光を帯びて感じていたからだった。しばらくの沈黙が続いた後、きりこはふわあと大きなあくびをついて、参考書類を仕舞うような音と一緒に、「じゃあ、ごめん。もう眠いから切るよ」といった。通話の背後からごそごそと布団に入るような衣擦れの音がこぼれ、僕の歩く夜の静寂のなかにうっすらと響いて染み込んでいく。

「ほんと明日レポート手伝ってくれよ。まじで終わんねえんだ、これ」

 きりこの悲痛な嘆きに思わず苦笑して、僕はそれから「死ぬ気で臨めよ」と軽口をたたく。ひとしきり笑ってから、僕はさきほどの質問に対して礼を述べた。

「じゃあまた明日な」

「おやすみ」

 短い電子音とともに通話が切れると、僕は再び暗闇のなかにひとり取り残された。時折かすかな風音が響く以外は、痛いような静寂が鼓膜を突き刺し、きりことの会話で高揚していた気分が急激に冷え込むようだった。普段なら心安らぐような孤独だったけれど、いまはなんだかそれが寒々しく感じて、妙に人恋しいような心持ちだった。

「……さて」

 胸の中で首をもたげる不安を紛らわすように誰ともなく声をかけて、いつの間にか止まっていた足を持ち上げる。ふとなにかが気になって背後の街道を振り返ると、なにげなく目に留まった巨大なマンションと小さなオフィスビルのシルエットは、ブルーグレーの首都の街並みを背景に、互いにしなだれかかるような格好でぴったりと寄り添っていた。

 ――気のせい、かな。

一瞬だけ、ふたつのビルが、本当ならもっと互いにつかず離れずの距離にいたはずのように思えたのだが、僕はそんなふうに感じた自分の目に首を傾げて、それから再び前を向いて歩き出す。狭苦しい暗灰色の夜空には巨大な集合住宅群が茫漠と浮かび上がり、街灯の光で空気が白色に濁っているせいか、いつにもまして威圧的なそれらが、僕にはなぜだか自分の帰る場所であるように思えなくなっていた。



歩きながら、僕はヘッドホンの受信機の電源に指を掛けた。

「あれ……」

受信機のチャンネルがいつの間にか知らない周波数に合わされている。この朱西団地周辺の固有周波数ではない、もっと首都中枢部の地区回線で使われているネットワークの固有周波数帯。普通ならばこのようなベッドタウンで中枢部の周波数に合わせていたところで雑音しか聞こえないか、無意味なジャンク情報が集まるのが関の山だろうと思うのだが、僕はなにか意識に引っ掛かるものがあってヘッドホンの受信ログを四時間分巻き戻して数倍速で再生する。

耳を刺すのは半分が雑音で、残りの半分がこれもいつもの砂嵐だった。しかし途中から、砂嵐の質が突然変化した。ここで周波数のチャンネルが変わったのか、僕は街道を歩きながらヘッドホンから聞こえる砂嵐に全神経を傾ける。もしかしたらこれが、記憶をなくした数時間のうちに残った唯一の記録かもしれない……。

しばらくのうちは同じような雑音が続いていた。普段聞いている朱西団地や都立高の物とは違う、もっと遠くのほうから緩慢に繰り返す波の音にも似た砂嵐。どこか郷愁を掻き立てるような音に、僕は知らず知らずのうちに聞き入って、

「……っ」

ヘッドホンが噴出した大音量の雑音に、僕は驚いてのけぞった。そしてその直後に、全身がぞわりと総毛立つのを感じる。

 はっきりと聞こえた。

 聞き違いではなかった。甲高い雑音に混ざってはいたけれど、紛れもなく人間の声だった。僕の耳はノイズの背後から少女の声がか細く響くのを、鮮明にとらえていた。そして襲ってくるどうしようもない諦観に、僕はなすすべなく頭を抱える。

いまにも空気に掻き消えてしまいそうなくらいにかすかな声で、けれど信じられないくらいに悲痛な色を乗せて、その少女は間違いなくこう叫んでいたのだ。


――たすけて


と。


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