第一場 月面着陸、未知との遭遇(上)
背中に走る、鈍い衝撃。着水音。
何の前触れもなく、詩乃は真っ暗な水の中に投げ込まれた。――否、暗くて何も見えないため、ここが水の中なのかさえ判らない。ただ一つ確かなのは、生温い液体が彼女の全身をくまなく包み込んでいることのみ。上を向いているのか、下を向いているのか。浮かんでいるのか、沈んでいるのかも判らない。
生命の危機に瀕し、暗中、本能の赴くがままに手足をばたつかせる詩乃。しかしながら、水面に出る気配は微塵もない。逆に無闇矢鱈に暴れることで、貴重な酸素と体力を消耗してゆくばかりだ。万事休す。さあ、どうすべきか――
日頃死にたいだの死ねばいいだの言っている彼女は、ただただ生きることに一所懸命だった。
暫くして、願いが天に通じたのか。一寸先もわからないほど真っ暗だった視界が、徐々に明るくなってきた。
——と、次の瞬間。詩乃は唐突に液体の外へずるりと産み落とされた。風に舞う、長い髪とスカート。不思議なことに、つい先ほどまで全身どっぷりと液体に浸かっていたにも関わらず、彼女の体や衣服には全く濡れた形跡がない。
しかし、今の詩乃にそんな些細なことを気にとめている暇はなかった。何故なら、宙に放り出された直後から、彼女の体は自由落下を始めていたからだ。
当たり前だが、落下傘も命綱も持ち合わせていない。残念。このままでは、地面に向かって一直線だ。
「おふっ!」
空中に放り出されて、1、2秒足らず。どうやら詩乃は自身が落下していることを認知するより前に、着地点に到達してしまったらしい。
バフンという音と同時に視界の隅からせり上がってくる、壁。体を包み込む、適度な弾力。彼女は、“たまたま”建物屋上の端ぎりぎりに、“たまたま”幾重にも積み重ねられた綿布団の上に落下していた。何という幸運。あと数十センチでも降下地点がずれていたら、ここで口にするのが憚られるような惨劇が繰り広げられていたことだろう。世の中は巧く出来ている。
無事死地から生還した詩乃。しかし気紛れな布団達は、そのまましかと彼女を抱きとめてはくれなかった。
反動で押し戻され、横へと吐き出される体。そのまま屋上の縁へ海豹のように転がり出たかと思うと、次の瞬間にはもう、詩乃の姿は見えなくなっていた。
——そう、彼女は再び落下していた。不運な布団数枚を道連れにして。
降下中、詩乃が最後に目にしたのは、光を放つお月様のような円。最後に耳にしたのは、「フギャア」という何かの叫び声だった。
例えるならば、それは踏みつけられた猫のような――
(下へ続く)