下
さて。保健室に行くことは確定したものの、あの聖域に立ち入るには真っ当な理由が必要だ。言い訳を考える為、詩乃の頭が再びフル回転を始める。
まず見た目でわかる外傷系は却下。今この場で額を壁にしこたま打ち付ければ不可能ではないが、流石にそれはやり過ぎだ。従って症状は外見上あまり変化のない内科系が好ましい。頭痛、腹痛、めまい、吐き気、倦怠感、発熱。ざっとこんな具合か。しかし発熱は体温計で容易く見破られてしまうし、倦怠感は理由としては弱い。その2つを外すと、残るは頭痛、腹痛、めまい、吐き気になる。さあ、どれにすべきか――
口を半開きにしつつ、斜め上の虚空をぼんやりと見つめる詩乃。と、その時。何の前触れもなく、彼女の耳を耳鳴に似た不愉快な高音が襲った。軽く顔をしかめる詩乃。すると高音から一拍置いて、テーブルクロスのように便器の蓋を覆っていた彼女のスカートがふわりと躍った。パンの空袋が膝から滑り落ち、宙を舞う。
「へ?」
スカート捲りの犯人は、詩乃が腰掛ける洋式便器の中。便座との隙間から吹き出した風のようだ。世の中には物好きな風もいるものだ。
しかし何故便器から風が吹いてくるのか。四方の壁で行き場を失った生温い空気は、そんな疑問に答えることもなく、彼女の長い髪を撫でながら上方へと抜けていった。ぽかんと口を開けたまま、目に見えない風を目で追う詩乃。その間も得体の知れない高音は彼女の耳に張りついたまま、一向に止む気配を見せない。
詩乃は怪訝な表情をしつつ、自分が腰掛けている便器に目をやった。何の変哲もない、ただの便器。しかしながら、この妙な耳鳴といい、先ほどの疾風といい、どことなく様子が奇怪しい。いつもの居心地の良い個室とは、まるで空気が違う。怪奇現象否定派を公言する彼女だったが、顔からはあからさまに不安の色が滲みだしていた。
体育を休む言い訳など、保健室に向かう道すがら考えれば良い。何より一刻も早くこの気味の悪い空間から脱出したいと言わんばかりに、詩乃はやや大げさに全体重を後方に移動。勢いをつけて便器から立ち上がろうとした。
「よいしょっとぅはあっ!?」
個室に響き渡る、鋭い破壊音と間の抜けた声。彼女の体ががくんと沈み込むと同時に、真っ二つに割れた便器の蓋と便座がタイルの床に転がり落ちた。一体何事か。
突然の出来事に、真っ直ぐ前を見詰めたまま硬直する詩乃。脳の処理速度が追いつかなかったと見える。
暫し呆然とした後、詩乃は自分が置かれている状況を把握するために、ゆっくりと視線を下ろした。便器に座る自分―― 否。座るというよりは、むしろ抱かれていると表現した方が的確かもしれない。ようするに、臀部が便器の底部に落ち込んでいる状態だ。宙ぶらりんになった両足が、彼女の視線の先でぷらぷらと揺れる。
「うわっ、何これ…… ありえない」
長いこと誰も使用しておらず水も張っていないとはいえ、便器の中に自分の臀部を突っ込むのは気分の良いものではない。汚れを知らない彼女の乙女心は、さぞかし傷付いたことだろう。詩乃の顔がみるみるうちに不快の色で染まってゆく。
左右の床には、哀れ真っ二つになった便座と蓋。その惨状を目の当たりにした詩乃の脳裏に、2つの考えがよぎった。1つは「ヤバい、先生に怒られる」。もう1つは「何て言い訳しよう」。
「何もしていないのに突然壊れました」
嘘ではないが、到底通用するはずがない。そもそも使用禁止のトイレに体育の用意もせずに籠城していたという時点で、彼女の分は相当悪かった。また、逃亡してしらばくれようにも、都合の悪いことに“目撃者”がいる。足が付くのも時間の問題だ。さあ、この八方塞がりの状況をどう打開すべきか――
無論、今現在彼女にそんなことを考えている余裕は微塵もなかった。まずは一刻も早く、この間抜けな状態から抜け出さねばならない。
詩乃は一瞬躊躇ったが、スカートで直接触れないよう工夫をしつつ、両手でしかと便器の縁を掴んだ。1、2、3。腕に力を入れ、便器からの脱出を試みる。
だが、どうも様子がおかしい。いくら腕力がないといっても、流石に自分の体重を持ち上げられないことはないだろう。にもかかわらず、彼女の臀部は便器から持ち上がる気配を全く見せない。横にずらそうとしても、縦にずらそうとしても駄目。まるでおしりが吸い付いているかのようだ。
事態の深刻さに気付き、いよいよパニックに陥る詩乃。こんな姿を他の生徒に目撃されようものなら、次の日から別の意味で注目の的になってしまうだろう。
便器に嵌った1年4組26番、東城詩乃。合唱部補欠。
便所飯どころか廊下さえ歩けなくなってしまう。
しかし、今この状況にあたって未来のことまで考慮している余裕はない。詩乃は絞り出すような大声で、トイレの外に向かって助けを求めた。
「だ、誰かああああっ! おしり抜けないいいっ!」
ちょうどその時、運悪く午後の始業時間が訪れた。校内に鳴り響く、聞き慣れた旋律。哀れ彼女の叫びはチャイムに掻き消され、誰の耳にも届くことはなかった。
人気のない特別棟で、涙と鼻水にまみれながら独り無機物との死闘を繰り広げる詩乃。体育をサボった天罰が下ったのだろう。相変わらず彼女の臀部は便器にすっぽりと収まったまま、外れる気配を見せない。端から見たらこれほど滑稽な光景はないが、当人にとっては人生に関わる問題だ。手足を駄々っ子のようにじたばたと振り回し、必死で抵抗を続けている。
と、その時。個室内にカツンと乾いた音が鳴り響いた。どうやらもがいた拍子に、彼女のポケットから携帯電話が滑り落ちたらしい。まさに泣きっ面に蜂だ。
「もう、こんな時に限ってえええ! 勘弁してよおおお!」
これがポケットティッシュやハンカチだったなら、彼女は瞬時に見捨てていただろう。しかし命の次に大切な物となれば、話はまた別だ。
血相を変えて携帯電話を探し始める詩乃。宙ぶらりんになった左足の下に目をやると、便器の下から真っ赤なストラップがちらりと顔を覗かせている。大事な大事な携帯電話は、運の悪いことに便器の真下に滑り込んでしまったらしい。残念ながら、彼女の位置からは死角になって本体の安否を確認することが出来なかった。声にならない声をあげ、足をばたつかせる詩乃。もう踏んだり蹴ったりだ。
しかし愛する相棒をトイレの床などに打ち捨てておくわけにはかない。それに通信手段があれば、最悪誰かに助けを求めることも出来る。
詩乃は相棒を救出すべく、上体を思い切り傾倒。脇腹を捩りながら左手をぐいと伸ばした。人体を設計した神も想定外の姿勢。体の各所から一斉に悲鳴があがるが、彼女はそれをものともせず、必死の形相でストラップの捕獲を試みる。あと1センチ。あと5ミリ。人差し指と中指をぴんと伸ばし、やっとの思いでストラップを引っ掛けることに成功した。彼女の口から、思わず安堵の溜め息がこぼれる。
愛しの携帯電話を手元に引き寄せ、感動の再会を交わす詩乃。勿論、これで終わりではない。便器脱出の作業に戻るにせよ、携帯電話で助けを求めるにせよ、一度元の姿勢に戻さねばならない。
詩乃は腹部に力を込め、ぐいと体を起こそうとした。
「う…ぐ……」
腹を捩られたカエルのような呻き声。弱った。起き上がることが出来ない。
大概の人間はこの場合、難なく体を起こすことが可能だが、生憎詩乃は自分の上体を持ち上げるだけの筋力を持ち合わせてはいなかった。そうこうしているうちに、事態はますます悪化。彼女の脇腹から聞こえていた悲鳴は、最早断末魔へと変わりつつあった。この分では本当に保健室送りになってしまう。
半狂乱になりながら、死にかけのミミズのようにのたうつ詩乃。何とか起き上がろうと、短い右腕を一所懸命後方にやり、配管部分と思わしき金属の管を掴むことに成功した。これが彼女にとって最後の望みだ。
詩乃は勢いをつけて上体を起こすと同時に、力を込めてそれ引き寄せた。
「くうっ!」
勢い良く便器に流れ込む水、特別棟中に響き渡る絶叫。
5限終了後、特別棟5階女子トイレ。個室扉を蹴破った怒れる“鬼瓦”が見つけたのは、真っ二つに割れた便器の蓋と便座。そしてチョコチップメロンパンの空袋だけだった。
(序幕・終わり)