中
楽しかった昼休みも残すところ、あと5分。昼食を終え、暫しあくびと鼻提灯の国に旅立っていた詩乃は、ポケットに忍ばせていた携帯電話のバイブレーションで緊急帰国した。
「しまった。次、体育だった。どうしよう」
クラスメイトらは、大方体育館への民族大移動を終えた頃だろう。
起こる筈のない奇跡を望みながら、ゆっくりと視線を落とす詩乃。よれたカーディガンに、皺だらけのセーラー服。季節外れの黒タイツ、小汚い上履き。ついでに膝の上にはチョコチップメロンパンの空袋。とても4分45秒後に体育が始まるとは思えない格好に、がっくりと肩を落とす。
やはり奇跡など起こらなかった。ただでさえ顔色の良くない彼女の顔から、みるみるうちに血の気がひいてゆく。
「ああ、今度こそ“鬼瓦”に絞め殺される……」
“鬼瓦”は、詩乃のクラスを受け持つ体育教師のあだ名だが、由来は推して知るべし。高校生の考えることだ。大体の想像はつくだろう。
この鬼瓦の授業に1秒でも遅刻した場合、当事者は罵詈雑言を浴びせられた後、ハツカネズミの如く延々と体育館の中を回り続けなければならないことを、彼女は実体験からよく知っていた。
詩乃のお世辞にもよろしいとは言えない頭が、精一杯の速度で計算を始める。
——今この瞬間にトイレを飛び出して、全速力でまず体育館へ。日直から教室の鍵を奪取し、直ぐさま1年4組に帰投する。流れるように着替えを終え、再び体育館へ向かったとしても、始業に間に合う確率は限りなくゼロに等しいとの結果が弾き出された。
暫し黙考した後、詩乃は一つの結論に辿り着いたらしい。両膝をパタと叩き、個室の扉に向かって堂々と今後の方針を宣言した。
「もういいや。保健室に行こう」
首尾良くいけば、50分間真っ白なシーツに包まれて夢見心地。運悪く無慈悲な養護教諭に追い返されたとしても、保健室帰りという免罪符の効力は絶大だ。流石の鬼瓦でも、具合の悪い生徒――本当かどうかは別として――を責め立てることは出来ないだろう。
見事な機転で危機を乗り越えた彼女の面持ちは、先程と一転。地球を丸ごと包み込めそうな程の安堵と余裕で満たされていた。
(序幕・下へ続く)