神子の失踪と魔性
運命のその日は、大きな嵐だった。その悲劇を嘆くかのように、厳粛な粗暴さで大地は酷く荒れ狂っていた。
天空では雲が大蛇のようにうねり、轟く雷鳴は何度も大地を震わせている。近くのスリファス運河の堤防はすでに決壊していた。橋はとうに狂った濁流に飲み込まれた。このフィーメリス神殿は、たった今、海に取り残された舟船のように頼りなく孤立している。小高い神殿を囲む激流は、全てを飲み込まんと躍起になっていた。風雨が、容赦なく大地へと付き刺さる。
嵐の夜では何も見えない。
己の明日でさえも。
しかし、カッと、閃光が駆け抜けて天空を切るその刹那。大神官であるローベルトは見た。
一頭の飛竜が天空を飛び去って行くのを。そして其処に確かに見たのだ。
この身に変えても守らねばならぬ、光の神子の姿を。
見間違えるはずもなかった。荒れ狂う嵐の中でさえなおその身は神々しく輝いている。
そして神子を軽々とその腕に抱えている男。人にはない紅蓮の瞳と髪。
完璧なる深色を持つのはこの世界の魔王にして闇の独裁者、ウーア=シュバルツに他ならない。
「・・・神子様! 」
皴だらけの顔を更に歪ませて絶叫したが、それは雷鳴によって無残にも掻き消された。凄まじい音と共に神殿の灯りが消える。
もう見上げる空には去って行く飛竜も神子の姿も見えない。広がるのは闇ばかりだ。
「神子様ぁ・・、ぁあ、・・・神子様が・・・」
事の重大さに茫然と立ち尽くす。なんということだろう。まさか、この神殿から神子がかどわかされるとは!!!
余りの絶望に膝をつき、頭を抱えて蹲った。先だっての、神子降臨の知らせを受けた折の至福の表情とは正反対に、今は絶望に顔を歪めている。全てが夢ならば一刻も早く目覚めよ。狂ったのなら正気に戻れ。しかし、現実は容赦なく外の雨のようにローベルトを打ちのめした。
「ああ、神よ・・・。何故、このような仕打ちを・・・!」
明日には王都からの迎えが着く予定だ。しかし、神子はいない。たった今、攫われてしまった。
「・・・こんな。、こんなことが・・・」
豪雨に打たれながら、冷たい大理石の上に手をつき途方に暮れた。この雨が、遠い日に浴びた血の冷たさを思い出させる。
魔族との死に物狂いの戦争。あの時の惨劇が瞼の裏にまざまざと甦る。飛び交う黒竜。赤い大地と燃え上がる炎。燻された肉の臭い。天を貫く断末魔・・・・
「神よ、どうか救いを!」
ローベルトは神殿の聖堂に倒れるように跪くと、守り神であるラフィタラの像に祈りを捧げる。
「救いを!!!」
狂ったように希うローベルトの後ろに、ひっそりと忍び寄る影があった。
「もう、遅い。」
一切の無駄を排した声が神殿に響き渡る。
「神子は魔界へ行ってしまった。」
ローベルトは突然現れた気配に背筋を凍らせた。
「だ、誰だ!」
目を凝らして慎重に辺りを窺う。すると、ゆっくりと闇の中から現れる者がいた。底の見えない昏さを宿した瞳が、うっすらと光り、徐々に輪郭が浮かび上がっていく。黒曜石のような瞳と、夜を集めたかのようなノアールに輝く髪、そこに現れた人物は余りにも美しい魔性だった。
ローベルトはブルブルと癪のように震える足を動かして後退した。
「久しいな、ローベルト」
魔性はローベルトを知っていた。そして、ローベルトもまたこの魔性を深く記憶に刻んでいた。
「・・・お、お前は!・・・」
「そうだ。覚えているだろう?」
忘れられるはずもなかった。10年前の魔族との戦争。あの騒乱の中、ローベルトは魔性と契約を交わしたのだ。死にかけていた身体を横たえながら、血塗れた腕をかかげて懇願した。助けてくれと。神でも悪魔でもいい!この狂った世界から自分を連れ出してくれ!そう願った。そして、その願いは叶えられた。1人の魔性によって。
「お前がここに来た理由は・・・・?」
「解っているだろう?あの時交わした契約を。その代価を貰い受けに来た。」
ローベルトの顔からさっと血の気が引いた。10年前と全く変わらない魔性の美しさ。ひとつも老いていないその姿が余計に恐怖を煽った。それは、本能による恐れだった。
「・・わ、私の魂を奪いに来たのか?」
声を震わせながらそう訊くと、魔性は無感動に首を振って否定する。
「で、では一体何を・・・」
魔性はゆっくりとローベルトへと近づく。そして、耳元にそっと口を寄せて囁いた。
「・・・!!!・・・」
その内容を聞いた途端、ローベルトは瞠目する。蒼白な表情で息を飲んだ。
余りのことに意識が遠のいて行く。大きな眩暈が起こり、ローベルトは身体を傾げた。
昏倒する寸前、魔性を見て言葉を紡いだ。乾いた声で問う。
なんのために、と。
其の問いに、魔性はその薄い唇を開き、しかしついぞ何の言葉も発しなかった。