ひだまり亭のパン
これは遠くも無ければ近くもない。そんな昔のお話。
王都の東区画、職人たちが多く住まう下町の一角に、一軒の店があった。
『ひだまり亭』の看板娘アリス・ミルラーの声が響き渡る。
「いらっしゃいませ! 焼きたてのクロワッサンに、ミルクたっぷりの食パンはいかがですか!」
可愛い。マジで。一生見てられる顔だ。
アリスは今日もしっかりと腰紐を結んだ白いエプロンを身につけている。
三角巾の下から覗く亜麻色の髪を揺らしながら店頭に立っていた。
のどかな下町の朝である。
常連のおばあちゃんが孫の手を引いて現れ、
いつものライ麦パンを買っていく。
いいなあ。
近所の鍛冶屋の親方が、昼食用のサンドイッチを大量に抱えて豪快に笑う。
いいなあ。
アリスからパンを買えるなんて俺だったら死んでもいいレベルに嬉しい。
話が逸れてしまった。
まあこんなのがアリスが愛してやまない、平和で温かい日常の風景だった。
けれど、アリスの心の中には、まだ癒えきっていない深い傷跡が残っていた。
そこもまた、いいと思えるのは俺だけだろうか。
ふと、アリスは店のショーケースのガラスに映る自分の顔を見た。
大きな瞳は母親譲りだが、頬には少しそばかすがあり、手はあかぎれが絶えない。
服も、小麦粉で汚れてもいいようにと選んだ、生成りの地味な木綿のワンピースだ。
アリスは焦ったいことに自分の可愛さを知らない。
『悪いがアリス、君との婚約は無かったことにしてほしい』
アリスの一ヶ月前の記憶が、鋭い痛みと共に蘇る。
何様だよ。お前。
相手は、幼い頃から家族ぐるみの付き合いだった幼馴染のカイルだ。
彼は野心家だった。
幼い頃、
「アリスのパンが一番好きだ」
と言ってくれた彼の笑顔を信じ、アリスはずっと彼を支えるつもりでいた。
『今の僕の商会は、貴族との取引も増えている。隣に立つパートナーには、それ相応の華やかさと教養、そして人脈が必要なんだ。君のような……小麦粉まみれの地味な下町娘では、僕の品格に関わる』
黙れ黙れ黙れ。
そんなやつ俺が許さん。
カイルの隣には、絹のドレスを身にまとった派手な美女が寄り添っていた。
そして彼女は、アリスの荒れた手を見て嘲笑うような視線を向けたのだ。
アリスは悔しかった。
アリスは悲しかった。
「……いけない、いけない。パンが焦げちゃう」
アリスは首を左右に振って、暗い記憶を振り払った。
今はパンのことだけを考えよう。
この店には、私のパンを待ってくれている人たちがいるのだから。
その時だった。
ズシン、ズシン、と地響きのような足音が聞こえてきたのは。
朝の賑やかな通りが一瞬、水を打ったように静まり返る。
現れたのは、まるで動く要塞のような、巨大な男だった。
身長は二メートル近いだろうか。
腰には身の丈ほどもある大剣を佩いている。
兜こそ被っていないが、その顔立ちは彫像のように整っている。
眼光は剃刀のように鋭く、眉間には深い皺が刻まれている。
周囲の空気が一気に数度下がったかのような威圧感。
(ひ、悲鳴を上げなかった私を誰か褒めて……!)
俺が褒めてあげる!
ゴホッゴホッ。すまないまた話が逸れてしまった。
アリスはカウンターの下で震える手を必死に握りしめた。
どう見ても、パン屋に用があるような客層ではない。
もしかして、誰か賞金首でも逃げ込んだのだろうか。
男は『ひだまり亭』の前に立つと、その巨大な体躯で入り口からの光を遮った。
店の中が薄暗くなる。アリスはごくりと喉を鳴らし、精一杯の笑顔を作った。
「い、いらっしゃいませ……! な、何かお探しでしょうか……?」
男の視線が、ギロリとアリスに向けられる。心臓が早鐘を打つ。
殺される、と思ったその瞬間。
男の視線がわずかに下がり、並べられたパンの上を彷徨った。
「……これと、これと、あれを。」
地底から響くような低音ボイス。
指差されたのは、甘いカスタードクリームを詰めたクリームパンと、揚げパン。
(……え? 甘いものばかり?)
案外甘党のようだ。
「あ、はい! クリームパンと、揚げパンですね!! すぐに包みます!」
アリスが手早くトングでパンを掴み、紙袋に入れていく間、男は微動だにしなかった。
ただ、その鋭い瞳が、アリスの手元をじっと見つめている。
しかして、手際の悪さを怒っているのだろうか。それとも、パンの形が気に入らないのか。
「お、お待たせいたしました! 銀貨二枚になります」
男は無言で革袋から硬貨を取り出し、カウンターに置いた。
そして、パンの入った紙袋を受け取ると、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、その強面が和らいだように見えた。
「……いい匂いだ」
ボソリと呟かれた言葉は、あまりに小さく、しかし驚くほど優しい響きを含んでいた。
男は踵を返し、再びズシン、ズシンと足音を響かせながら去っていった。
嵐が過ぎ去った後のような店内で、アリスはへなへなとその場に座り込んだ。
「な、なんだったの……今の……」
かわえ。
それが、アリスと、近衛騎士団長レオナード・バーンシュタインとの出会いだった。
それからというもの、レオナードは毎朝決まった時間に店を訪れるようになった。
最初は怯えていた下町の人々も、彼がただパンを買いに来るだけだと知った。
次第に「騎士様、今日は早いね」などと声をかけるようになっていった。
レオナードは相変わらず無口だったが、その手には必ずアリスのパンが握られていた。
ある雨の日のことだ。
いつものようにパンを買いに来たレオナードは、会計を済ませた後も、なかなか立ち去ろうとしなかった。
外は土砂降りで、客足も途絶えている。
店内には二人きり。
雨粒が屋根を叩く音だけが響く中、アリスは困惑しながらも、彼に話しかけた。
「あの……雨、すごいですね。もしよろしければ、雨宿りしていかれますか? 奥のイートインスペース、誰もいませんし」
レオナードは少し驚いたように目を見開き、それからぎこちなく頷いた。
「……迷惑でなければ、そうさせてもらう」
彼が座ると、頑丈な木製の椅子がミシリと音を立てた。
アリスは焼きたてのパンと一緒に、サービスのホットミルクを差し出した。
「冷えますから、どうぞ。ミルクには蜂蜜を入れてあるんです」
レオナードは大きな手で小さなマグカップを包み込むように持ち、一口すすると、ほう、と白い息を吐いたそうな。
その表情は、普段の厳しさからは想像もつかないほど無防備で幼い子供のようにも見えた。
「……美味い」
「ふふ、良かったです。騎士様は、甘いものがお好きなんですね」
アリスが微笑むと、レオナードはバッと顔を上げ、耳まで真っ赤にして咳払いをした。
「……激務の合間の、栄養補給だ。……勘違いするな」
「はいはい、そういうことにしておきます」
彼の不器用な照れ隠しに、アリスは思わずクスクスと笑ってしまった。
カイルに婚約破棄されてから、こんなふうに男性と穏やかに話したのは初めてかもしれない。
カイルはいつも自分の話ばかりで、アリスの話を聞こうとはしなかった。
でも、レオナードは違う。彼はアリスの話に真剣な眼差しで耳を傾けてくれるのだ。
「君のパンは……優しい味がする」
レオナードがポツリと言った。
「食べた瞬間に、身体の強張りが解けるような……そんな温かさがある。俺は、王城での務めで常に気を張っているが、ここのパンを食べると、自分が人間であることを思い出せるんだ」
その言葉は、どんな美辞麗句よりもアリスの胸に響いた。
「地味で貧乏臭い」と言われた自分のパン。
それを、この国で最も強い騎士の一人が、こんなにも必要としてくれている。
「……ありがとうございます。私、もっと美味しいパンを焼けるように頑張りますね」
「ああ。……楽しみにしている」
レオナードの瞳に宿る、静かだが熱のこもった光に、アリスの心臓がトクンと跳ねた。
魂が引かれ合うような感覚だった。
しかし、そんな穏やかな日々は、予期せぬ形で波乱を迎えることとなる。
数週間後、王城で開かれる園遊会へのケータリングの依頼が『ひだまり亭』に舞い込んだのだ。
下町のパン屋が王城の仕事を受けるなど異例だが、どうやら王妃様のご希望らしい。
アリスは緊張しながらも、最高のパンを用意して王城へと向かった。
広大な庭園には、優雅な音楽が流れている。
アリスは給仕係として、テーブルにパンや軽食を並べていた。その時だ。
「おいおい、こんなところで小麦粉の臭いがすると思ったら……アリスじゃないか」
聞き覚えのある、ねっとりとした声。
振り返ると、そこには華美な礼服に身を包んだカイルと、あの男爵令嬢が立っていた。
帰れ帰れ!お前の居場所はここにはないぞ!
「カイル……」
「まさか、王城の園遊会にまで紛れ込んでくるとはな。相変わらず、空気が読めないというか、身の程知らずというか」
カイルは嘲るように鼻を鳴らし、隣の令嬢の腰に手を回した。
うっぜー。
「紹介しよう。僕の新しい婚約者、ミレーヌだ。君と違って、社交界の花形だよ」
「あらぁ、これが噂の元カノさん? ふふ、本当に地味ね。こんな子が焼いたパンなんて、衛生的に大丈夫なのかしら?」
お前、会ったことあるやろ。
ミレーヌが大袈裟に扇子で鼻を覆う。周囲の貴族たちも、クスクスと嘲笑をもらした。
アリスは唇を噛み締め、拳を握りしめた。
言い返したい。
でも、ここで騒ぎを起こせば、店に迷惑がかかる。王妃様の顔に泥を塗ることになる。
大人だ。
「……申し訳ございません。直ちに下がります」
アリスが深々と頭を下げた、その時だった。
「——その必要はない」
凛とした、よく通る声が庭園の空気を切り裂いた。
人々がざわめきと共に道を譲る。
そこから現れたのは、胸に無数の勲章を輝かせたレオナードだった。
普段の黒い鎧姿とは違う、高貴で圧倒的な存在感。
その彼が、鋭い眼光でカイルたちを射抜いている。
「レ、レオナード卿!?」
カイルの声が裏返った。
近衛騎士団長である彼は、商人であるカイルにとって雲の上の存在だ。
レオナードはカイルたちを一瞥もせず、アリスの前に歩み寄ると、その場に膝をついた。
周囲から悲鳴のような驚きの声が上がる。
「アリス嬢。君をこのような不快な目に遭わせてしまい、申し訳ない」
「えっ、あ、あの、レオナード様……!?」
「顔を上げてくれ。君が謝る必要など、微塵もない」
レオナードは立ち上がると、アリスを背に庇い、冷徹な視線をカイルに向けた。
「貴様が捨てた宝石の価値も分からぬ愚か者とは聞いていたが、これほどとはな」
「ほ、宝石……? 何を言って……こいつはただのパン屋の……」
「黙れ」
短く、しかし絶対的な命令。カイルは氷漬けになったかのように硬直した。
「彼女の焼くパンは、王妃陛下も絶賛なされている。何より、俺が……このレオナード・バーンシュタインが、彼女のパンなしでは生きていけない身体にされたのだ」
シン……と会場が静まり返る。アリスは顔から火が出るかと思った。
「……レオナード様」
涙が溢れて止まらなかった。
ずっと否定され続けてきた自分を、こんなにも肯定してくれる人がいる。
しかも、こんなに大勢の前で。
元々俺がいたけどね。
「ひ、ヒィッ……! も、申し訳ございませんでしたぁ!」
カイルはその迫力に耐えきれず、腰を抜かして這いつくばった。
ミレーヌも青ざめた顔で震えている。
周囲の貴族たちは、カイルたちを見る目を完全に蔑みのものへと変えていた。
近衛騎士団長を敵に回した商会など、明日からまともに商売などできるはずもない。
レオナードは震えるアリスの手を、優しく、壊れ物を扱うように包み込んだ。
「行こう、アリス。ここは空気が悪い」
レオナードに手を引かれ、アリスは庭園を後にした。
背後からは、カイルの絶望的な叫び声が聞こえていたが、もう振り返ることはなかった。
人気のないバルコニーまで来ると、レオナードは足を止めた。
夕暮れの光が、彼の整った横顔を赤く染めている。
「……すまない。勝手なことを言った。迷惑だっただろうか」
「い、いえ! そんなことありません! 助けていただいて、本当に嬉しかったです。でも……あの、さっきの言葉……」
アリスが上目遣いで尋ねた。
レオナードは観念したようにため息をつき、アリスの方に向き直った。
「……本心だ」
彼はアリスの手を両手で包み込み、その節くれ立った指先に、恭しく口づけを落とした。
いいな。
「最初、ただ美味いパンだと思って通っていた。だが、いつの間にか、俺は君の笑顔を見るために店に行っていたんだ。」
レオナードの真剣な瞳が、アリスを捉えて離さない。
「アリス。俺は不器用で、無愛想で、君を怖がらせてしまうかもしれない。だが、誰よりも君を大切にすると誓う。……俺と、結婚を前提に付き合ってくれないか」
アリスの目から、再び涙が溢れ出した。今度は、嬉し涙だ。
ずっと、誰かに選ばれることを恐れていた。でも、この人なら。この温かくて大きな手を持つ人なら、信じられる。
「……はい。私でよければ……ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「本当か……!?」
レオナードの顔が、ぱあっと明るく輝いた。 彼は感極まったようにアリスを抱きしめようとして、ハッと気づいて慌てて手を止める。
「あ、いや、すまない。力加減を間違えて、君を潰してしまいそうだ」
「ふふっ、もう。レオナード様ったら」
アリスは自分から、彼の硬い胸に飛び込んだ。鋼鉄のような筋肉に驚いたが、そこからは激しい鼓動が伝わってくる。
「……好きです、レオナード様」
「……俺もだ、アリス。愛している」
夕日が二人を優しく包み込む。
下町のパン屋と、国の英雄である騎士団長。 不釣り合いに見える二人の恋は、これから始まる幸せなスローライフを予感させていた。
その後、没落したカイルの商会は潰れ、彼は借金を抱えて街を去ったという。
ざまあみやがれ。
「アリス、今日の新作パンだが……」
「はい、レオナード様のために、ハートの形にしてみました!」
「……っ!!」
ずるっ。俺も食いたい!
そんなこんなで今日も『ひだまり亭』からは、甘い香りと共に、幸せな笑い声が響いている。
面白い!もっと読みたい!と思っていただけた方はブクマ、評価よろしくお願いします!




