第4章 沈黙の均衡
朝の光が、王立学園の尖塔を金色に染めていた。
リリア・アルベルタは机の上の小さな鈴を見つめながら、深く息を吸う。
三日後。黒衣との再会が約束された日だ。
その前に――“影の学生”の正体を突き止めなければならない。
◇◇◇
図書室の閲覧台、午前七時。
学生の出入りが少ない時間帯、リリアはミレイユに目で合図を送った。
ミレイユは「はいはい」と頷き、机に広げた名簿を指さす。
「転入生リストの更新版。二年生は四十七名……うち、顔を見たことないのが二人いるわ。
“ラウル・フェンデル”と“エドナ・クライス”。どっちも最近来た子らしいけど、授業の出席記録が少ないの」
リリアは紙の端を撫でた。
指先に、わずかな“魔力残滓”。
――触れた者が術式を使うと、名簿紙にも波紋が残る。
フェンデル。ここに、何かがある。
リリアは筆を取り、短いメモを残した。
《フェンデル=地下儀式関与の可能性高。ミレイユには知らせず》
ミレイユが顔を上げる。「何か分かった?」
彼女は微笑んで首を横に振った。
(危険に巻き込めない)
沈黙は、守るための壁でもある。
◇◇◇
午後の実技演習。
風属性の制御訓練。
リリアは列の最後尾から、フェンデルの背中を見ていた。
灰色の髪。薄い微笑。魔法陣の展開速度は速い――が、不自然に“均一”だ。
まるで、感情の揺れが存在しない。
教師が指示を出す。「では、風を一点集中、四秒保持!」
リリアは手をかざし、微風を球に収束させる。
フェンデルの風は同時に膨張し、球が破裂した。
その瞬間、リリアの結界が反射的に張られる。
爆風は吸収され、教室に被害は出なかった。
教師が叱責の声を上げる。「フェンデル! また制御を――」
「……すみません」
その声は、感情がない。まるで“誰かの声”を再生しているように。
(やはり――転写の影響?)
リリアは静かに袖を握った。
術式がまだ完全には終わっていない。
転写が“途中”なら、術者と対象の境界が曖昧なはず。
◇◇◇
夜、寮の屋上。
リリアは魔導ノートを広げ、風の流れを観察していた。
遠くで、鈴の音が小さく響く。
――ミレイユ。
「ここにいたのね」
彼女が風に髪をなびかせながら立っている。
「下の廊下でカイルさん見かけたわ。あなたに何か話したいみたいだった」
リリアは首を傾げ、手帳を閉じた。
ミレイユは少し息を整えて言う。
「ねえ、リリア。あなた、喋れないけど……伝えるの、上手だよね」
リリアは目を瞬き、首を傾げる。
「だって、言葉がなくても、ちゃんと分かる。今日も、誰かを守ってた顔してた」
彼女は笑った。「あんまり無理しないでね。私たち、友達でしょ?」
リリアは、胸の奥がじんわり温かくなった。
ありがとう――そう言いたくて、けれど声が出ない。
かわりに、空に指で一文字。
《ありがとう》
風がそれをさらっていった。
◇◇◇
三日後の夜。
学園の時計が零時を告げる。
地下への階段は再び開かれていた。
リリアは、白い外套をまとい、静かに降りていく。
儀式室は空気が変わっていた。
祭壇は新しく彫り直され、床の溝には淡い光。
そして――待っていた。黒衣の人物。
「ようこそ、沈黙の魔女」
リリアは杖を構えない。ただ見据える。
「“均衡”の意味、覚えているか?」
黒衣は手をかざした。
光の幻影が浮かぶ――フェンデルの顔。
「この少年は、転写の“受け皿”だ。王子の魔力を移すための実験体。
私たちは均衡を求める。強すぎる力を分け合い、王国の病を治す。
だが君は、儀式を壊した」
沈黙が落ちた。
リリアの目に、燃えるような光が宿る。
(それが“治癒”の名を借りた暴力なら、私は止める)
黒衣が微笑む。
「ならば、見せてもらおう。“沈黙”の力を」
空気が震えた。
魔法陣が床に浮かび、光が交錯する。
リリアは詠唱せず、杖を一閃。
風が音を殺し、光の束を裂く。
衝撃音はなく、ただ空気が圧縮され、空間がひずむ。
黒衣が目を細めた。「無詠唱、しかも多層干渉……!」
リリアの沈黙が、圧倒的な速度で広がる。
音を奪い、言葉を止め、空間そのものを“無”に変える。
その中で、彼女の心だけが囁いた。
――私は喋れない。だからこそ、届く。
光が弾け、影が霧のように消えた。
残されたのは、崩れ落ちた黒衣の外套と、ひとつの封印石。
その表面には、赤い文字が残されていた。
《均衡は壊れた。声を持たぬ者が、新たな均衡となる》
◇◇◇
夜明け。
リリアは学園の屋上で、東の空を見上げていた。
喉の奥に残る痛み。声が出そうで、出ない。
だが、それでいい。
沈黙は弱さではない。言葉より強い、意志の形。
彼女の耳に、遠くからミレイユの声が届く。
「おーい、リリアー! 朝食、パン焦げるよー!」
リリアは小さく微笑んだ。
返事はしない。ただ、手を振る。
その沈黙こそが、彼女の最強の魔法だった。
――沈黙の魔女、リリア・アルベルタ。
今日も喋れない。
だからこそ、誰よりも、世界の声を聞ける。
(完)