13 約束 その⑩
「フェスティバルステージは、どこにあるの?」
「信号を渡った先だよ」
赤信号の先にあるセントラル広場を、健が指さした。
紗奈はスマホに視線を移して、時刻を確認する。タイムテーブル通りなら、今ごろチェルナダの前にライブをするアイドルが、ライブを始めた頃だろう。
この場所に初めて来た紗奈には、今いる場所からフェスティバルステージまで、どれぐらい距離があるのかがわからなかった。
「間に合うかな?」
隣に立つ健に尋ねると、健は難しい顔をする。
「走れば間に合うと思うけど、この人ごみだからな。予想外に時間がかかるかもしれない」
間に合わなかったら、どうしよう?
早く青信号に変わって欲しかったが、信号はなかなか変わらない。一秒が十秒にも感じた。
ステージに遅れそうだからといって、さすがに信号無視はできない。多くの人の視線がある中で、信号無視なんてすれば、それだけでチェルナダの評判は地に落ちるだろう。
焦れったい気持ちで信号が変わるのを待っていると、健が紗奈に顔を寄せてきた。
「アイドルを辞めた後のことが心配だって、前にアイは言ってたよな?」
昨日、公園で健と話したときに、たしかに紗奈はそんな不安を吐露していた。
しかしそれは、勉強する時間がとれなくて大学受験に失敗して、さらに就職を失敗したときの話だ。
今日の話し合いで、勉強時間を確保することを、プロデューサーは約束してくれた。だから、その心配は、もう過去のものになっている。
「言ってたけど、勉強時間を確保するって、プロデューサーが約束してくれたから、もうだいじょうぶだよ」
「そっか。じゃあ、もういいな」
健が紗奈から顔を離す。
健はいったいなにを、私に言おうとしたのだろう?
信号が青に変わった。
「時間がないから、走るぞ」
健の背中を追いかけて、紗奈も信号を渡る。
紗奈の走る方向と逆方向にも、スマイルガーデンやスカイステージなどのライブ会場があった。そちらのライブ会場へ向かおうとしているのか、たくさんの人々が逆方向から歩いて来る。
そのうちの一人と、紗奈の肩がぶつかった。
「すいません」
急いでいて肩をぶつけてしまったことを、紗奈は詫びる。
幸いなことに、肩をぶつけてしまった相手は、笑顔で紗奈を許してくれた。
紗奈は走り出そうとするが、その足がとまる。
健が見当たらない。人波の奥に、健の姿が消えてしまっていた。
ステージの上にいるときと同じように、たくさんの視線を感じる。ステージ衣装を着た紗奈は、周辺のオタクたちの視線を引きつけていた。
東京アイドルフェスティバルには、全国から二百組を超えるアイドルが集まる。オタクたちも、すべてのアイドルの出演時間や出演場所を、記憶しているわけではない。
紗奈がライブに遅刻しそうになっていることを、知らないオタクたちは、紗奈に興味を持って、紗奈に話しかけに来ようとする。
青信号を待っている間は、健が近くにいたから、オタクたちは紗奈に近づくのを控えていた。しかし今は、近くに健がいない。
紗奈はすぐにオタクたちに囲まれてしまった。
時間があれば、話し相手や写真の撮影に応じるのも、アイドルの仕事のうちだ。だが生憎と、今はそんな時間はない。
心臓が凍りつく。ここで健を見失ったら、ライブ会場にたどり着けない。
「待って! 置いてかないで!」
紗奈が悲鳴のような声で叫ぶと、オタクたちは驚いた顔で、互いの顔を見交わした。
心細くて握っている紗奈の両手を、誰かの大きな手が握る。
「はぐれないように、俺の手を握ってろ」
オタクたちの人垣を割って、健が紗奈の前に姿を現す。
紗奈の手を握っているのは健だった。
安心して、泣いてしまいそうになる。
紗奈が健の手を握ると、健は紗奈に背中を向けた。
シンボルプロムナード公園内にある石畳の道を、健に手を引かれて走る。
芝生の庭は、石畳の道で区切られていた。芝生に混在して樹木も植えられており、陽光を浴びて、樹木の葉がキラキラと輝いている。
左手に見える青海臨時駐車場では、物販と特典会が行われていた。
様々な色のテントが立ち並び、テントの前にはオタクたちが行列を作っている。アスファルトの強烈な照り返しにも負けず、目当てのアイドルとチェキを撮るために、オタクたちは汗を流して、自分の番が来るのを待っていた。
紗奈の心臓は、激しい鼓動を打っている。
ライブに間に合わないかもしれないことが不安で、心臓の鼓動が早くなっているのだろうか?
それとも走っているから、心臓の鼓動が早くなっているのだろうか?
どちらの理由も正しかったが、一番大きな理由は、紗奈の視線の先にあった。
紗奈の手を握る健の手から、健の体温が直に伝わってくる。
大きくてゴツゴツした健の指は、本気で握れば、紗奈の細指など、簡単に握り潰されてしまいそうだった。しかし、その逞しい指は、紗奈の手を包み込むように、優しく握られている。
前を行く広い背中に、胸がときめいた。
自分の運命を健に委ねて、紗奈は健の背中を見て走る。
真っ直ぐに伸びた石畳の道を走ると、セントラル広場に着いた。その広場の外周を、反時計回りに走る。
四分の一周ほど走ったところで、実物大ユニコーンガンダムの立像が、木々の陰から姿を現した。
東京アイドルフェスティバルは、3日間に渡り開催される。チェルナダが出演するのは、そのうち初日と二日目だ。
レイナが出演するカラオケバトルなどの企画はあるが、ライブを行うのは初日と二日目に一回ずつ、一回につき15分のライブを行う予定となっていた。
初日のライブは、フェスティバルステージで行われる。ダイバーシティ東京プラザには、大きな階段があり、その階段の踊り場がステージとなっていた。
紗奈もフェスティバルステージが、ガンダムの立像の近くにあることは、一昨日のミーティングで聞いていた。ガンダムが見えたということは、ステージはかなり近い。
ガンダムのほうに走ってゆくと、観客席が見えてきた。
階段の踊り場の前は、柵によって囲まれおり、そこが観客席になっている。
見た目も年齢もバラバラで、おそらく初対面同士である者もいるだろうに、オタクたちは仲よさげに肩を組んで、大きな輪を作っていた。
アイドルたちが歌いながら円を描くように走ると、オタクたちも歌いながらジャンプして輪を回す。
全国から選りすぐりのアイドルが集まったように、ここにいるオタクたちも選りすぐりのオタクだった。
そんな愛すべきオタクたちを、海外からやって来た観光客が、物珍しそうにスマホで撮影している。
フェスティバルステージの初日は、11時開始のライブを皮切りに、総勢28組のアイドルが、15分のライブを交代で行う。途中で5分か10分の休憩を挟むときはあるが、ほとんど休憩を挟むことなく、ライブは行われる。
今もライブが行われており、ステージでパフォーマンスをしているアイドルは、チェルナダの前に、ライブを行う予定のアイドルだった。
紗奈は安堵の息を吐く。ギリギリではあったが、間に合ったようだ。
ステージに続く道のすぐ右隣に、もうひとつ道がある。健はそちらに紗奈を導いた。
道の先には、白いシートによって目隠しされて、中が見えないようになっている場所があった。
建物の壁とシートの間に、関係者のみが通れる隙間がある。出演者パスを首からぶら下げている紗奈と健は、その中に足を踏み入れた。
中はアイドルの控室といった感じで、長机に椅子などが並べられている。
奥には上り階段があった。
階段を上ると、ステージである階段の踊り場が見えてくる。ステージの舞台袖にあたる位置に、階段は繋がっていた。
テクニカルスタッフが忙しそうに働いており、胸元にぶら下がった〝TECHNICAL〟と書かれたパスが、振り子のように揺れている。
そしてそこに、ナナセとレイナの姿もあった。
ナナセは紗奈を見つけると、笑顔で駆け寄ってくる。
「間に合ったみたいだね」
なにかに気づいたように、ナナセの眉が上に跳ね上がった。
ナナセは顎を両手の掌に乗せて、しゃがみ込み、繋いだ二人の手を眺める。
「お二人は、どういう関係?」
健があわてて、紗奈の手を離した。
「観客が多すぎて、アイとはぐれそうになったから、手を繋いでたんだよ。変な意味はないからな」
「変態」
レイナが健に冷たく吐き捨てた。それからレイナは、紗奈の手を握って、健から離れた位置に、紗奈を連れて行こうとする。
健は苦笑いをすると、これから出番の紗奈にエールを送った。
「応援してるからな」
舞台袖は、出演を間近に控えたアイドルと、忙しく働くスタッフのものだ。
健は階段を下りて、邪魔にならない位置へ行こうとしていた。
「ちょっと待って」
紗奈は健を呼び止めた。
すぐに戻ってくるからと、レイナに断りを入れて、紗奈はレイナの手を離す。
階段の途中で立ち止まっている健に、紗奈は気になっていたことを尋ねた。
「横断歩道の前で、私になにを言おうとしてたの?」
「たいしたことじゃないから、忘れてくれ」
再び階段を降りようとした健の袖を、紗奈はつかんだ。
「いいから教えてよ。教えてくれなかったら、私の手を、健がなかなか離さなかったって、プロデューサーにチクるから」
健は困ったように頭をかいた。それから周囲を見回した後で、紗奈の耳にささやく。
「『アイがアイドルを辞めた後で、お金に困っていたら、俺がアイの生活費を稼ぐから安心しろ』って、言おうとしたんだ」
紗奈は目を瞬いて、健の顔をしげしげと見つめる。
ほとんどプロポーズにしか聞こえなかった。
「健は、自分がなにを言ったのか、わかってるの?」
「もちろん。でも、高校生の俺が言っても、やっぱり説得力なんてないよな。だから、言うのを迷ったんだ」
健の言葉に、深い意味はないらしい。
単純に、紗奈が生活に困っていたら、援助するという意味だけのようだ。
言葉の持つ、深い意味に気づいていないフリをして、わざと紗奈は軽い調子で頼む。
「じゃあ、大人になったら、また言ってね?」
「おう」
快活に返事をした健に背を向け、ナナセたちのいるほうへ、紗奈は小走りに駆けてゆく。
大人になり、その言葉の秘められた意味に気づいても、約束したとおり、健は紗奈に同じ言葉を言ってくれるのだろうか?
紗奈の口元が緩む。
紗奈の将来から不安は消え、紗奈は未来が楽しみになった。
今回の内容を執筆するにあたって、東京アイドルフェスティバルに出演したアイドルのYouTubeを、たくさん見た。
東京アイドルフェスティバルに出演している時点で、そのアイドルは、かなり実力のあるアイドルなはずだ。
しかし、それでも彼女たちの多くは、それほど遠くない未来に、アイドルを引退して、芸能界も引退するだろう。
それほどまでに、アイドル業界や芸能界は厳しいようだ。
それでも私は、彼女たちが羨ましいと思った。
私は昔、一発屋の芸人を軽蔑していた。
わずかの期間だけ輝いて、消えてゆくような芸人は、実力不足だと思っていたからだ。
だが年をとり、一度も輝くことなく私は死ぬのだろう、と感じたときに、考え方が変わった。
一度だけでも輝くことができたのならば、それは十分にすごいことだ。
私がYouTubeで見たアイドルは、みんな輝いていた。
一度でも、あんなふうに輝けた時点で、彼女たちは勝者なのだと思う。
彼女たちの光に少しでも近づけるように、私もがんばろう。




