13 約束 その⑧
衣装に着替えた紗奈が、事務所を出ると、事務所の前に見覚えのあるミニバンが止まっていた。そのミニバンは、チェルナダが遠征するときに使うミニバンだった。
運転席のプロデューサーは、誰かと電話をしている。
助手席には健が座っており、赤い痕のついた首を、これ見よがしに手でさすっていた。
プロデューサーに襟首をつかまれて引っ張られたことを、健は根に持っているようだ。
紗奈が車の後部座席に乗り込むと、プロデューサーが早口で話す声が聞こえてきた。
「そうだ。体調不良で休んでいたが、回復したからライブに出演すると、向こうのスタッフに言っておいてくれ。それじゃあ私たちは、今からそちらへ向かう」
紗奈がシートベルトをするのを見届けたプロデューサーは、電話を切って、ハンドルを握った。車が急発進で走り出す。
プロデューサーは運転をしながら、紗奈と健に事情を説明した。
「東京アイドルフェスティバルのスタッフには、『アイは体調不良で、家で休んでいる』と嘘をついてたんだ。『回復したから、会場へ向かっている』と、うちのスタッフが向こうのスタッフに、伝えてくれるはずだ。お前たちも、その嘘にあわせてくれ」
紗奈と健が声を合わせて、了承の返事をすると、車内に沈黙が降りる。
運転の邪魔になるといけないので、紗奈は黙っていた。
赤信号で車が停車したときに、プロデューサーが助手席の健に顔を向ける。
「原田くんに、一つ尋ねたいことがあるんだが、いいか?」
「なんですか?」
「原田くんと大野さんは、クラスメートでLINEを交換している仲なんだよな? 原田くんは大野さんと仲がいいのか?」
ナナセからの電話をとらない紗奈と話すために、健のスマホを使って、ナナセは紗奈にLINE電話をかけてきた。そのことから、紗奈と健がLINEを交換していることを、プロデューサーも知っていた。
紗奈は顔をしかめる。
他の多くのアイドルと同じように、チェルナダは恋愛が禁止されていた。
大手の芸能事務所のように、誓約書にサインをしたわけではないが、恋愛は禁止だと、プロデューサーからはハッキリと言われている。
アイドルはイメージ商売だ。ファンはアイドルのことを好きになり、そのアイドルのために、お金や時間を使う。いわば疑似恋愛をしている状態なのだが、それはアイドルに彼氏がいないからこそ成り立つ。
事務所から恋愛を禁止されていないアイドルも、彼氏がいるだなんて、ファンが離れるようなことを、わざわざ公言したりはしない。
ファンからすれば、彼氏がいない前提で活動しているアイドルに、彼氏がいることがわかった時点で、まるで浮気でもされたような気分になる。
推しのアイドルに彼氏がいることがわかると、ファンを辞める者もいれば、ひどい場合にはアイドルを誹謗中傷する者までいた。
一人のアイドルのトラブルは、グループ全体に悪影響を及ぼし、ライブの集客力も低下させてしまう。
そうなるとトラブルを起こしたアイドルを抱える事務所は、アイドルに罰を与えないといけなくなる。アイドルに罰を与えることで、事務所はファンへ謝罪をし、失った信用を取り戻すことができるからだ。
紗奈の身近にも、彼氏がいたことが原因で、アイドルを辞めさせられた者がいた。
そこまでいかなくても、騒動が落ち着くまで、休業を余儀なくされたアイドルを見たこともある。
だからこそ、チェルナダも恋愛が禁止されていた。
紗奈がその約束を破り、健と付き合っているのではないかと、プロデューサーは疑っているようだった。
紗奈はアイドル活動をしていないときは、眼鏡をかけて、前髪で目を隠し、三つ編みにサイズの合っていない制服と、地味でダサい女子高生を演じていた。
しかし、いくら変装をしていても、なにかの拍子に、紗奈がチェルナダのアイだとバレるかもしれない。
そうなったときに問題となるのは、母との約束よりも、健かもしれなかった。
紗奈は、〝家族や関係者以外に、アイドルをしていることがバレたら、アイドルを辞める〟と、母と約束している。
母との約束を軽視しているわけではないが、もしバレたとしても、今なら母を説得できる可能性はあると感じていた。
紗奈が頑張っている姿を見て、頑なに紗奈がアイドルをすることに反対だった母の態度には、変化が生じていた。
以前は紗奈が、衣装を手洗いで洗濯していた。しかし近頃では、ライブやレッスンで疲れた紗奈に代わって、母が手洗いで衣装を洗濯してくれている。隠れてチェルナダの動画を見ているようで、衣装を手洗いしているときに、チェルナダの楽曲を、母は鼻歌で歌っていた。
紗奈がストーカーやマスコミの被害にあうことは、相変わらず心配なようだが、紗奈がアイドルをすることを、応援してくれている面もある。
それにいざとなれば、プロデューサーだけでなく、ナナセやレイナも、母を説得すると言ってくれている。
母の説得も不可能ではないと、最近では感じていた。
問題は健だ。
紗奈が教室や登下校の道で、健と親しげに話しているところは、クラスメートに何度も目撃されていた。
紗奈が健を好きなことは、鈍い健には気づかれていないが、他のクラスメートにはバレている。
紗奈がアイだとバレて、学校で健と親しくしていることまで、オタクたちに知られれば、いったいどうなるだろう?
おそらくオタクたちは、紗奈と健が付き合っていると、勘違いするだろう。そうなったら、紗奈がアイドル活動を継続することも、難しくなるかもしれない。
健と親しくすることが、自分の正体がバレたときに、アイドル生命に関わるほどの大きな問題になることには、紗奈だって気づいている。
気づいておきながら、二人で一緒に夏休みの宿題をしようと、紗奈は健を誘った。
なぜ、そんな危険を紗奈は犯したのか?
健が好きだから。
もちろん、それも理由の一つだが、それが一番大きな理由ではない。
一番大きな理由は、健に会わないと、心がどうにかなってしまいそうで恐かったからだ。
ステージの上で大勢の人に注目されて、一秒も気を抜くことなくパフォーマンスをするのは、ひどく疲れる。チェキを撮った後でファンと会話するときも、ファンを喜ばそうと必死で、神経がすり減った。
ステージでパフォーマンスをするのは楽しいし、ファンと話すのも楽しい。だが、その楽しいという感情も、紗奈の心を激しく揺れ動かして、紗奈を消耗させていた。
月曜日になっても、日曜日のライブの余韻で、紗奈の心はハイになっており、落ち着かない。
だが、学校で健と話していると、日常が戻ってきたように感じて、心が落ち着いた。心の疲れも嘘のようにとれる。
アイドルをしている紗奈には、心の休息が必要であり、その役目を担っているのが健だった。
ライブやレッスンでどれだけ忙しくても、たびたび健と勉強会を開くのは、それが理由だ。
健が原因で、アイドルを辞めることになったとしても、健に出会ったことを後悔はしない。
そもそも健がいなければ、アイドルを休業していたり、アイドルを辞めていたかもしれなかった。
二か月ほど前、極度の緊張で本来の実力を発揮できず、自信を失くして、紗奈はチェルナダを辞めようかとさえ考えていた。そんな紗奈を救ったのは、健のガチ恋口上だ。
そして今は、多忙なスケジュールで疲弊した紗奈の心を、健が癒している。
紗奈がアイドルを続けるうえで、健はなくてはならない存在にまでなっていた。
しかし、そんな理由があったところで、紗奈が健と親しくすることを、プロデューサーが許すわけがない。
紗奈が健と親しくしすぎていることがバレたら、最悪、紗奈はアイドルを辞めさせられるかもしれなかった。
辞めさせられなかったとしても、アイドルを続けたいのならば、健と距離をとるようには忠告されるはずだ。
健との関係を疑われてアイドルを辞めるのも嫌だったし、健かアイドルかの二択を強制されるのも嫌だった。
なにもしなければ健の口から、紗奈と健の仲がいいことが、プロデューサーに伝わるだろう。
二人の会話を邪魔するために、紗奈はプロデューサーの無神経な質問を非難した。
「プロデューサー、健に変なことを聞かないでくださいよ」
「アイは黙ってろ。私は原田くんに話があるんだ」
プロデューサーは紗奈を黙らせると、健にあらためて顔を向ける。
「どうなんだ? 原田くんは、大野さんと仲がいいのか?」
紗奈は唇を噛んで、健が無難に答えてくれるのを、祈るほかなかった。
答える健の声には、イラ立ちがあった。プロデューサーに変な詮索をされて、腹が立っているらしい。
「大野は俺の友達ですよ。それ以上でも、それ以下でもありません」
「本当か? 夏休み中に二人で、遊びに行ったりしていないのか?」
マズい質問だった。
夏休み中に紗奈と健は、二人きりで勉強会をしていた。
そのことを健に話されたら、紗奈と健が仲よくしすぎていることが、プロデューサーにバレてしまう。
健はすぐには答えなかった。
心臓に悪い時間がすぎる。
発言を封じられている紗奈は、状況を見守ることしかできなかった。
焦れたのか、プロデューサーが健のほうに身を乗り出す。
「まさか本当に、二人で遊びに行っているのか?」
もうダメだ。
目をつぶりたい気持ちだったが、そんな顔をプロデューサーに見られたら、疑惑は確信に変わるだろう。
紗奈は動揺を顔に出さないように心がけた。
紗奈が固唾を呑んで見守っていると、健はややムッとした感じで、疑いを否定する。
「遊びに行ったりなんかしていないですよ。ちゃんと勉強しています」
「勉強か。アイも勉強したいみたいだし、お前らの世代は真面目なんだな」
後ろからクラクションが鳴らされる。いつの間にか、信号は青に変わっていた。
それでプロデューサーの追及は終わったようだ。またプロデューサーは口を閉ざして、運転に集中する。
背中の鳥肌は、すぐには治まらなかった。
たしかに遊びには行っていない。勉強をしに行っているのだ。
助手席に座る健に目を向けるが、助手席の真後ろにある後部座席からでは、健の後頭部しか見えなかった。
紗奈は両手から力を抜く。いつの間にか、スカートを固く握りしめてしまっていた。衣装に皺がつくといけない。
とにかく、健と二人で勉強会をしていることが、プロデューサーにバレなくてよかった。
安堵する紗奈を乗せて、プロデューサーの運転する車は、高速道路に入ってゆく。
車は加速車線でグングン加速して、本線に進入した。本線に合流しても、車はさらに加速を続ける。前を走るトラックとの距離が、じょじょに縮まってゆく。
紗奈たちの乗る車は、追い越し車線に入り、前を走っていたトラックを追い越した。
プロデューサーはすぐに車を左側の走行車線に戻すが、また前を走る車との距離は狭まってゆく。
かなりスピードが出ている気がした。後部座席から首を伸ばして、運転席にあるメーターパネルを覗くと、135キロと表示されている。
「かなりスピードが出てるみたいですけど、だいじょうぶなんですか?」
紗奈が心配すると、プロデューサーはこともなげに答えた。
「だいじょうぶだ。40キロ以上のスピード違反でなければ、反則金だけで済む」
それって、だいじょうぶでは、ないのでは?
思ったが、口には出さないでおいた。
私はなにも知らなかったことにしておこう。警察に見つかったときに、困ったことになるのはプロデューサーだけで十分だ。
会場に着いてからメイクをしていたのでは、出演時間に間に合わないかもしれない。
車内でメイクを済ませておけば、時間を節約できるはずだ。
「車内でメイクを済ませるので、できるだけ揺らさないように運転をお願いします」
「わかった」
車が速度を出していることもあり、多少車内は揺れたが、紗奈はメイクを開始する。
アイドルにとってメイクは戦化粧だ。メイクをすると、繰り返した習慣で、心は自然とライブへ向かう。
会場はまだ見えもしないし、会場の喧騒など聞こえるわけもない。だが、紗奈の心は会場と、糸のようなもので繋がっていた。
選ばれた人間のみが発揮できる驚異的な集中力をもって、紗奈はメイクを進めてゆく。紗奈は自分が車内にいることも忘れて、メイクに没頭した。
紗奈の体から放たれる、見えないなにかは、あっという間に車内を包み込んだ。車内の空気が一気に張りつめる。
一流の画家が、隣で筆を走らせているような緊張感が車内に漂い、プロデューサーと健は咳すらも出せなくなる。
紗奈がメイクをしやすいように、振動を抑えて運転をするプロデューサーの手は、汗で光っていた。




