13 約束 その⑥
紗奈は自宅で一人、勉強をしていた。
今日は東京アイドルフェスティバルの初日だ。
本当なら、事務所の前で待ち合わせをして、プロデューサーの運転する車で、東京アイドルフェスティバルへ向かう予定だった。紗奈はその待ち合わせの時間になっても、事務所へは行かなかった。
理由は、昨日、プロデューサーと喧嘩をしたからだ。
プロデューサーは、紗奈の将来のことを考えていない。お金を稼ぐことしか考えていないから、「勉強なんかより、今はアイドル活動に専念するんだ」なんて言えるのだ。
紗奈の事情も考えずに、ライブやレッスンの予定をあんなに詰め込めるのだって、理由は同じだ。紗奈がアイドルとして稼げるうちに、できるだけ稼ぎたいのだろう。
昨日は一時間置きに、プロデューサーから電話がかかってきていた。まるで、こちらの気分が落ち着くのを見計らっているかのようなかけかたで、それが紗奈をなおさら不愉快にさせた。
冷静になって考えれば、私が間違っていることに気づくとでも、プロデューサーは思っているのだろうか?
だとしたらプロデューサーは、とんだ見当違いをしている。
間違っているのは私じゃない。プロデューサーのほうだ。
プロデューサーからの電話には、もちろん出ないでおいた。紗奈のもとに直接、頭を下げに来るまでは、絶対に許すつもりはない。
一夜明けて今日になると、プロデューサーをはじめとしたチェルナダの関係者から、電話がかかってきた。その中には、ナナセやレイナの電話番号もあった。
ナナセやレイナに迷惑をかけるのは悪いと思ったが、自分が心底怒っていることをプロデューサーに示すためにも、電話をとるわけにはいかなかった。
だいじょうぶ。あの二人なら私がいなくても、ライブを成功させられるはずだ。
今ごろナナセたちは、東京アイドルフェスティバルに着いていて、リハーサルでもしているのだろうか?
待ち合わせ時間の前後では、ひっきりなしに電話がかかってきていたが、今は電話も落ち着いている。
紗奈は頭をかきむしった。
東京アイドルフェスティバルを欠席してまで、勉強する時間を作ったのに、ちっとも勉強に集中できない。
紗奈だって本当は、東京アイドルフェスティバルには出たかった。たくさんの人の前でライブをしたくて、ここまでがんばってきたのだ。その機会を自ら捨てるのは、断腸の思いだった。
だが、今さら後戻りはできない。ここで抜いた刀を鞘にしまうようなことをすれば、プロデューサーに舐められる。そうなれば、これから先ずっと紗奈の主張は、プロデューサーに足蹴にされるはずだ。
強気に考えて、自分が間違っていないと思い込みたい紗奈だったが、本当は怯えていた。
昨日のプロデューサーに対する無礼な言動や、勝手に東京アイドルフェスティバルを欠席した事実を、事務所が重く受け止めて、紗奈はチェルナダを脱退させられるかもしれない。
勉強時間を確保するために、一時はアイドルを辞めることさえ、紗奈は考えた。
しかし、チェルナダを辞めたら、ナナセやレイナに会えなくなることに、今さら気がついた。
ナナセやレイナと初めて顔を合わせてから、一年以上のときが流れている。
ナナセたちとは、一緒にレッスンを受け、一緒にデビューをし、力を合わせて数多くのライブを成功させてきた。
苦楽を共にした仲間と言えるが、それだけならばチェルナダを辞めても、また新しい仲間は見つけられる。
あの二人は単なる仲間ではなかった。あの二人を言い表すのに、仲間という言葉は、しっくりこない。
初めてナナセとレイナに会ったときから、妙な親近感を覚えていた。ずっと前から二人のことを知っているような、不思議な感覚だった。
紗奈は一人っ子だが、自分に姉妹がいたら、こんなふうに感じるのではないだろうか?
ナナセが姉で、レイナが妹。なぜか、その感覚がしっくりとくる。
見た目も性格もまるで違うのに、まるで血を分けた姉妹のように感じた。
ナナセたち以外とアイドルをすることは、とても考えられなかった。
人は、一人では生きてはいけない。自分に合ったコミュニティーを見つけて、そこで生活をする。
紗奈のような特別な才能を有する人間は、そのコミュニティーが限られていた。
しかし、信じられないような偶然が重なり、チェルナダが結成され、紗奈はそのコミュニティーに属することができた。
ナナセやレイナが好きという、甘っちょろい理由ではない。
生きていくためにナナセやレイナが必要だという生存本能が、ナナセとレイナから離れることを拒んでいた。
LINEの着信音が鳴る。
電話に出る気はなかったが、誰がかけてきたのかを確認するために、紗奈はスマホの画面に目を落とした。
スマホの画面に映った名前に、紗奈は目を瞠る。
電話をかけてきたのは健だった。
急いでスマホをとって、突き指しそうな勢いで応答ボタンを押す。それから、スマホを耳に押しあてた。
「もしもし?」
「紗奈、近くにアイがいるんでしょ? 電話を代わってくれない?」
電話の声の主は、健ではなくナナセだった。
紗奈が東京アイドルフェスティバルの会場にいないのに、その声に動揺はない。小憎らしいほどに、いつも通りだった。
私がいないことを不安に感じて、少しぐらい動揺してくれてもいいのに。
どんなときでも取り乱さないところが、ナナセのいいところだ。だが今はその長所が、少し腹立たしい。
その気持ちを、紗奈は声に乗せる。
「なんでナナセが、原田のスマホを使っているのよ?」
「東京アイドルフェスティバルに来ていた原田から、電話を借りたんだよ。原田はチェルナダのファンの鏡だね。フェスティバルステージの最前列で、チェルナダのライブが始まるのを、開場時間から待っていたんだから」
健がチェルナダのライブを楽しみにしていたことを、ナナセから聞かされて、紗奈は申し訳ない気持ちになる。
私がライブを欠席すれば、健はきっとガッカリするだろう。
「そっか。やっぱり、そっちに原田もいるんだね。でも、なんでナナセは、原田のスマホを使って、私に電話をかけてきたの?」
「紗奈もアイも、私たちからの電話はとらないでしょ? だからアイは、紗奈と一緒にいるんだろうなって思ったの。アイに代わってくれない?」
先ほどからナナセは、紗奈とアイが別々にいるかのように喋っていた。
おそらく近くに、スマホの持ち主である健がいるから、そんな演技をしているのだろう。
紗奈のときは、地声よりも低い声を出している。
紗奈は本来の声――アイの声に切り替えた。
「ナナセには悪いけど、プロデューサーが私の家に頭を下げに来て、ちゃんと謝罪してくれるまでは、私は休業させてもらうから」
「それってさ、今からアイが事務所に来て、事務所でプロデューサーが謝るのではダメなの?」
紗奈は心の中でガッツポーズをした。
どうやらプロデューサーは、紗奈に謝罪する気になったらしい。
「なんで事務所なの? 私の家でいいじゃん」
「アイのことが心配だから、原田も立ち合いたいんだってさ」
「本当?」
紗奈は嬉しくて、思わず椅子から立ち上がった。
忙しくて勉強ができないのなら、ライブやレッスンを休ませてくれるように、プロデューサーに相談してはどうか、と提案したのは健だ。
プロデューサーは紗奈に謝罪するつもりのようだが、信用できない。
あのプロデューサーのことだから、土壇場で開き直って、意見を変えるかもしれなかった。
そんなときに健が近くにいれば、紗奈の味方になってくれるはずだ。
「本当だよ。プロデューサーと一緒に、原田まで自宅に来られると、アイも困るでしょ?」
もちろん困る。
母が健に会いたいと言うので、健に自宅に来てもらって、自宅で勉強会をしたことがあった。
アイの家に健が来ることになったら、紗奈の家とアイの家が同じ家だと、健にバレてしまう。そうなったら当然、紗奈とアイが同一人物だと、健に気づかれてしまうだろう。
「そういうことなら仕方ないね。わかった。今から事務所に行くよ」
「プロデューサーが謝ったら、すぐに東京アイドルフェスティバルに来られるように、衣装が入ったキャリーケースも持ってきてね」
紗奈は置き時計に目をやる。
チェルナダの出演時間に、今からでも間に合うかもしれなかった。
望んでいる方向に話が進んでいるように感じて、紗奈の口元が綻ぶ。
「うん、持ってく。ナナセ、ありがとう」
東京アイドルフェスティバルに間に合うかもしれないのは、ナナセが機転を利かせて、健のスマホで電話をかけてきてくれたおかげだ。
だから、そのことに関して紗奈がお礼を言うと、得意げに鼻を鳴らす音が聞こえた。
電話の向こうにいる、ナナセの得意げな顔が目に浮かぶ。
「東京アイドルフェスティバルで待ってるからね」
「了解」
電話を切った紗奈は、キャリーケースを持って玄関へ向かう。
玄関で靴を履いていると、母が紗奈を見送りに来た。
「行くの?」
母には、昨日のプロデューサーとの喧嘩は話している。紗奈の話を聞いた母は、全部プロデューサーが悪いと、紗奈を援護してくれた。
「うん。プロデューサーが間違いを認めたの」
「それはよかったわね。アイスを買っておくから、がんばってね」
「ありがとう。いってくるね」
紗奈は軽快に足音を響かせて、家を出て行った。




